第3話 再会

 いつも朝目が覚めると”今日も無事に生きているようだ”と思う。

いつ死ぬかわからないと毎日思いながら暮らしているからだ。

昨夜はしっかりと就寝前の準備をして、入浴を済ませ、布団に入って眠りにつくことができた。

部屋で倒れて、なんとか奇跡的に起き上がっては生命の危機感に促されるかのごとく、取りつかれたように手紙を書き始めたりして、行動としても精神的にもなんだかおかしい。

相変わらず食欲は一切なかった。

姉・千鶴にあてた手紙にも書いたとおり、これはもう間違いなく接触障害であると自覚している。

食べることがもう本当に嫌でならない。

元気になるためには何かを食べるか飲むかなどして、栄養を摂らなければいけないことは理解している。

しかし、特に食べ物を口に入れると気持ちが悪く、吐き気をもよおすまで待つのも嫌で自ら指を喉に押し込んで嘔吐するときもあった。

胃の中が空っぽのほうが心が安定するのだ。

それ自体、おかしなことだとわかっている。

かといって、もう精神科の治療は懲り懲りだった。

根本的な解決にならないことにお金と時間を費やして、まるで芝居をうつために通っているのではないかという感覚になってくる。

そういった私の考え自体が、もう誤っていることなのだろう。

捻じ曲がった考えは、心が病みきっている証拠に違いなかった。


 母に宛てて手紙を書いたが、昨日から心にひっかかる点はあった。

母とはかれこれ5年以上会っていない。

最後に会ったときは二人で札幌駅付近へ食事に出かけたときで、そのときは喧嘩になるようなこともなく笑顔で別れたものの、数日後に母から不躾で無鉄砲な電話がかかってきたことに私が怒って大喧嘩してそれっきりだ。

母から電話がかかってくれば、そのことには互いに何も触れずに挨拶を交わしたりもしたが、私としては何故きちんと母が謝らないのか、釈然としないまま仏頂面をしつづけた。

そうではあっても、今日明日の生命が危うくなっている私にとっては、”いつ誰と喧嘩して、誰がどう言った、言わない”とかはもはや言っていられなかった。

残された時間が少ないのではないかと意識したら、もうそんなことはどうだっていいことだ。

 仮に私が死んで、残された母があの手紙だけを受け取ったらどう思うか。

生前に私といがみ合うことが多かった晩年について、悔やんでワーワー泣くだろうか。

そうでなくとも、純粋に娘に先立たれたことに対する悲しみがあるだろう。

あの手紙を母との最後の交流にしてはいけない気がして、おもむろにスマートフォンを手に取って電話帳から母の番号を探した。

とりあえず深くあれこれ考えることはなく、挨拶程度でもいいからと電話をかけてみる。

「・・・もしもし、由紀子です。」

「あら、あんたどうしたの?チヅに聞いたけど、退院したんだって?今どこから?」

退院したことまでは姉から報告されているらしかった。

「自分の家からかけてるよ。お母さん、元気?」

「うん、まあ歳だからいろいろ調子悪いところがあるけど、大きな病気はしてないよ。どうした?」

「・・・なんとなく、お母さんに電話してみようかと思ったから。」

「あんたさ、そのうちこっちへ遊びに来ない?うちの近くに新しいファミリーレストランが出来たから。」

「そうなの?一度は行ってみたの?新しいファミリーレストラン。」

「行かないよ。だっていつも一人だもん。ああいうところに一人で行ったって楽しくないわ。」

一緒に行けば楽しいということを遠回しに表現しているようだった。

「そうか、じゃあ近々行こうかな。お母さん、いつだったら都合いいの?」

「私はいつでも家にいるから、いつだっていいよ。」

「今日、これからはどう?」

「今日?ずいぶん急だねぇ。でもいいよ、来るならおいで。こっちは大丈夫だから。」

「じゃ、夕方5時頃お母さんのところに行くから、それから一緒に食事に出ようか。」

「はいはい、じゃ、あとでね。気を付けておいでよ。」

 それまで5年以上も喧嘩別れしていたとは思えないほど、何事もなかったように約束を交わした。

それが親子だったり、家族っていうものなのかもしれない。


 17:00。

―――ピンポーン。

母のアパートのインターホンを鳴らす。

「はい、どちらさま?」

「お母さん、ユキだよ。」

「アハハ、知ってるよ。」

母は冗談っぽく笑いながらドアを開けた。

5年ぶりに見る母の顔がそこにあった。

当たり前のことではあるが、また一段と歳をとったみたいだ。

完全におばあさんの姿かたちをしている。

それらはもちろん言葉には出さずに「元気そうだね」と言って部屋の中に入る。

「あら・・・あんた、こんなに痩せて、どうしたの。」

つい最近まで入院していたのだから、「どうしたの」ということもないような気がしたが、私の痩せこけた姿にただただ驚いているということを言っているのだろう。

「まぁ、ね。あまり食べられないから。」

体が痩せ細っていることを少しでも誤魔化すために、わざとトップスをダボダボさせて体に張りつかないようにした。

「食べられないのに、ファミリーレストランに今日行くの?」

「うん、せっかくなんだし、行ってみようよ。」

本当は何も食べたくないし、食べ物のにおいすら嗅ぎたくないが、母が興味を持って口に出したファミリーレストランだし、一緒に行くことを実現したかった。

「ああいうところは軽食もあるんだから、なにもたくさん食べなくてもいいじゃない。サイドメニューみたいなものとコーヒーでもいいでしょ。」

あまり食べられないことによってつまらなくならないように、そんな言葉で装飾した。

 母のアパートから徒歩2分ほどの場所にあるファミリーレストランに到着した。

グランドオープンしてからまだ3日しか経っていないせいか、平日の夕方だというのに少し入店待ちの列ができている。

「まぁ、寒くない時期だから少しぐらい待っててもいいね。」

そんなことを言いながら、母との待ち時間も楽しもうとする。

10分ほど待つと、席に通された。

窓際の席につくことができ、母と二人で大きなメニューを広げて見る。

「老眼でね、字がよく見えないわ。」

メニューを遠ざけたり近づけたりする母を見て、歳をとったと改めて感じる。

「お母さん、どんなのが食べたいの?」

「ん~、あまり胃の調子が良くないから、おじやみたいなのにしようかな。柔らかいやつ。」

「じゃあ、これとかいいんじゃない?」

私がカニ雑炊を指さした。

「うん、じゃあそれにするわ。」

母はカニ雑炊、私はバニラアイスクリームとコーヒーにした。

「あんた、それだけしか食べないの?」

「うん、まだあまり喉を通らなくて。アイスクリームみたいに溶けていくものなら飲み込めるから。」

「やだねぇ、あんたったら、健康的じゃなくて。そんなんだから、痩せ細っちゃうじゃない。」

どう言われても食べられないものは仕方がないし、無理はできない。

本当はバニラアイスクリームを注文したのも私としてはかなり頑張っているほうだった。

「あんた、今日どうして急に来たの?何かあったわけじゃないの?」

「うん、特に何もないけど。お母さんどうしているかなと思って。」

「私は変わりないよ。歳とってひどいけどさ。」

「お母さんに聞いてみたいことがあった。」

「何?」

「私が産まれたとき、最初に何を思った?」

母の顔が急にほころんで、出産当時の若さを持った目に変わった。

「ユキは本当に可愛くてねぇ。色白でほっぺがプリプリしてて、食べちゃいたいくらい可愛かった。どれだけ見てても飽きないもんね。可愛くて、可愛くて。」

私はうつむいて、涙がワッとこぼれそうになるのを必死でこらえた。

そんな会話をしているうちにスタッフが「カニ雑炊でございます」「バニラアイスクリームとコーヒーでございます」と言って注文した料理を運んできた。

「せっかく出来立てのが来たから、食べよう。」

話の途中ではあったが、私がそう言い、二人ともそれぞれ食べ始めた。

 ―――私はその日、母の口から私が産まれたことに関する率直な思いや感想を聞けたことに満足していた。

成長過程の中や、つい最近の出来事の中でも、母からは愛情など感じることができずにいて、それが私から母に対するトラウマになり続けていたのだ。

母は愛情がなかったのではない。

きちんと愛情を持っていた。

そして、私が産まれたことについてももちろん喜び、可愛がってくれていた。

もうその事実だけで充分だった。

 母と食事をしながら、その後は他愛ない昔の話などをしてなごやかに過ごした。

体力がなくなってきているせいで、こうしてレストランで食事をしただけでも疲れる。

疲れている姿を母に見せたくないために、「あまり長居しないで帰るわ。」と言う。

ファミリーレストランを出て、母のアパートに立ち寄ることもなくバス停のほうへ向かいはじめた。

「あんたね、あまり食べられないんだろうけど・・・」

母が言い始めた。

「うん、何?」

「顔色が良くないよ。お母さん、何かご飯でも作りに行こうか?何か作って置いて来ようか?」

その言葉を聞き、ウエエエと子供みたいに泣きじゃくった。

「ユキ、どうしたの。あんた、そんなに泣くんじゃない。馬鹿だねぇ。」

母も語尾のほうは涙声になっていて、泣きじゃくる私の頭をポンポンと手のひらで軽くたたいた。

「・・・大丈夫。お母さん、私大丈夫だよ。自分で何か作って食べるから。」

今の私には現実的なことではないのに、そんな大口をたたいた。

母を安心させたかったからだ。

もう少し母との会話の時間が欲しかったが、こんなときに限ってバスがすぐにやってくる。

「・・・じゃ、行くね。」

まだヒックヒックとしゃくりながら、人目もはばからずに泣いたままバスのステップを上がる。

「くれぐれも無理するんじゃないよ。じゃ、またね。」

歳をとって一段と体が小さくなった母が、バスの外から手を振り続けている。

ますます悲しくなり、走り出したバスの中には私の嗚咽が響いていた。


 ―――“母と会うのがこれで最後にならなければいいが。”

そう思いながら自宅の玄関ドアを開ける。

つい今まで眠っていたのか、寝ぼけ眼のたびが部屋の奥からピョンピョンと飛び跳ねるように走り寄ってきた。

「ミーミーミーミー」

鳴き方は家に連れてきた日から変わらないが、声のトーンと圧が明らかに今は違う。

声に張りがあって厚みがある。

玄関から部屋まで歩く私の足首にしがみついて、爪を立ててぶら下がったり、時々甘噛みしてじゃれている。

我が家へ来て4日目だというのに、もう私にはすっかり懐いており、昨夜は私の腕枕の中でほっこりと幸せそうな顔をして眠っていた。

まだ仔猫で、しかもわずか4日程度でこんなに人に慣れて朝までしっかり一緒に眠ってくれるなんて、信じられないくらい良い子だ。

人が嫌がるようないたずらも一切せず、留守番をしている間も何か物が壊れたり動いたりはしていない。

壁や家具を爪でひっかいたり、トイレの粗相なども一切なかった。

たびのやることといえば、玄関から部屋の奥までダッシュして急旋回してまた戻ってくる遊びくらいだ。

なんにも悪いことはしない、大人しくて利口で良い子。

里親探しをして、たびが元気に新しい門出を迎える日まで一緒にいようと当初は考えていたが、もうたびと離れなくなかった。

このまま一緒に暮らしていくのなら、ペット飼育不可のこのマンションには長く居られない。

見つかるまえに引っ越さなければいけないだろう。

しかし今は、とてもじゃないが引っ越しをする体力も気力も私には皆無だ。

たびと一緒に引っ越しをするなら私もまずは元気にならないといけないが、それもまだ今からは遠い現実のように思えた。

 母のところから帰宅し、少し経った頃から激しい腹痛に襲われた。

またひどい下痢をしはじめたようだ。

それとともに吐き気もしだした。

吐きそうで吐かないのは一番つらい状態だ。

そんなどっちつかずの苦しい状態でいるくらいなら、喉に指を入れて吐いてしまったほうがすぐに楽になれる。

大した固形物も食べていないのに、トイレの便器に顔を突っ込むようにし、喉に指を押し込んで吐いた。

飲んだコーヒーと混じり合ったアイスクリームがベージュ色になって一緒に排泄された。

―――“これはもうダメかもしれない。”

またそんなことを真剣に思う。

トイレからほふく前進のようにして部屋に戻り、壁にもたれてハァとため息をつく。

あまりにもひどい自分の有様と情けなさに、フフッと無意識に苦笑いをする。

フローリングの床の冷たさが心地よく感じ、寝そべったまま紙とペンを手に取って書き始めた。


“たびちゃんへ

たびちゃんがうちへ来て3日が経ちました。

最初は寒くて不安そうで痩せすぎていてブルブル震えていましたね。

うちへ来た最初の日から、私があげたごはんをしっかり食べてくれてお水も飲んで元気になってきました。

たびちゃんは人懐っこくて、優しくて、穏やかで、なんにもいたずらをしない良い子です。

最初は、たびちゃんが元気を取り戻して、きちんとしたおうちへもらわれていくまでここで過ごして見守ろうと思っていたのですが、母ちゃんはそれがつらくなってきてしまいました。

だって、たびちゃんがあまりにも可愛らしい子だから。

このまま、たびちゃんとずっと暮らしていきたい。

たびちゃんが1歳を迎えて立派な大人になって、それからだんだんと歳をとっていって、おじさんやおじいさんになる頃にもずっと母ちゃんはそばに居たいのです。


母ちゃんは今まで猫ちゃんと暮らしたことがないのだけれど、初めて一緒に暮らすのがたびちゃんで本当によかったと思っています。

こんなに良い子はきっとなかなかいないと思うからです。

そして、たびちゃんは母ちゃんの冷えた心をあったかくしてくれました。

それまでの母ちゃんはいつもいつも一人でした。

家にいても、仕事に行っても。

一人でいるから、笑うことなんて本当になかったのです。

でも、たびちゃんがきてから微笑ましいことが多くて、たびちゃんが面白い顔やポーズをしてくれるので、いつもおうちの中でも笑っています。

夜、母ちゃんが眠る準備をしたら、たびちゃんがワキの下に入ってきてくれて、腕枕でスヤスヤと眠ってくれるのもとても嬉しくて楽しいのです。

ピタッと寄り添って一緒に朝まで眠ってくれてありがとう。

母ちゃんは心も体もあったかいまま眠れています。


母ちゃんはこれからもたびちゃんと一緒に暮らしたいな。

いつまで暮らしていけるかな。

こんなこと言ってちゃ、たびちゃんが可哀想だね。

きっと不安になるよね。

悪い母ちゃんで本当にごめんなさい。


この手紙が誰かに読まれるとしたら、そのときはもしかしたら母ちゃんに大変なことが起きているかもしれません。

そうならないように、願っています。

この手紙をたびちゃんに書いているけれど、誰かに読み上げられないようにと。


たびちゃん、出会ったばかりだけれど、ずっとずっと大好きだよ。

ずっとずっと永遠に一緒にいようね。

たびちゃんは母ちゃんの大事な子供だよ。”

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