第2話 謝恩

 眠っていたのか、意識を失っていたのかはわからない。

ただ、記憶の最後にある光景と今見ている光景が変わらないことだけは確かだ。

同じ天井の模様が見える。

仰向けに横たわっているというのに、万華鏡のように天井や壁がクルクルと回る。

未だ眩暈を起こしているようだ。

尾てい骨がフローリングに直接当たって痛いのだが、わずかに体の向きをずらすことすら難しい。

もう本当に体力が尽きている。

ここでガツンと食べられる体力があれば、食後2時間くらいで一気に活力を得られそうなものだが、その食べる体力も消化力もないのだから元も子もない。

自分で元気の源を作り出す術がもうなくなっている。

「ミーミー」

頭の上のほうから、たびの声が聞こえた。

そうだ、たびのためにも元気を振り絞らなければいけない。

「っしょ」

小さな掛け声を出して体の向きを横に変えながら、少しずつ起き上がれるようにしていく。

掛け声を出して、勢いで体を少し動かしては息が切れて休む。

3分に1回くらいのペースでその動作を繰り返し、30分かけてようやく体を起こすことができた。

“これはしんどいな。”

体を起こすだけで30分もかかってしまう情けなさと、先が思いやられることに自ら失笑した。

「ミーミーミー」

たびにはわかるのだろうか、私が体を動かしはじめた途端、先ほどより高く大きな声で鳴いている。

勝手な思い込みだが、歓喜して応援してくれているかのように聞こえた。

「・・・あぁ、はいはい、たびちゃんありがとうね。母ちゃんは大丈夫よ。」

実際はまったく大丈夫ではないのに、そういう言葉をたびに聞かせるようにして声に出すことで自分に暗示をかけようとした。

何かを口にしなければ、この体調は元気に変わっていかないだろう。

飲み食いしたい気持ちには一向にならないが、重だるい体を精一杯動かしてポットに手を伸ばす。

カップ麺の焼きそばに中華スープがついていたはずだ。

それを開けて飲もう。

急に年老いたようにヨボヨボとした緩慢な動作で、近くのマグカップに粉のスープを入れてお湯をそそぐ。

美味しく飲むためにかき混ぜるような余裕もなく、カップを少しだけ揺らしてからすする。

温かいスープを飲むのも、いつ以来だったろう。

喉が刺激を受けて驚いているようにヒリヒリした。

自分で作り出す体温以外で、温かいものを体外から取り入れたら、血流の滞りが回復していくような感覚があった。

「うっ、うっ、うっ」、突然声を出して泣き始めた。

温かい飲み物を口にしてその温かさを感じること、体の中に飲み物が流れていく感覚があることは、まだ自分が確かに生きている証拠だ。

“私はまだ生きている。”

それが実感できたら、なんともいえない気持ちになり涙が溢れ出した。

しかし、それと同時にもう覚悟はできている。

―――私は、そう長く生きられないかもしれない。

 今すぐに死ぬつもりはなかったが、自分の気持ちとはうらはらに、もう体が持たないのではないかと思う。

もしそうなってしまったら、誠に不本意極まりない。

だが今の自分の体調から鑑みると、突然に不本意な終焉を迎えてもなんら不思議はないことだ。

そうしたときのために、身近な人には言葉を残しておきたい。

4万字の原稿を急ぐことももちろん承知の上だが、意識がしっかりとあるうちに周囲の人への手紙を書き残そうと。

体裁などは考えてもいられず、机の上にあった味気ない無地の便せんを手に取って書き始めた。


 “勇へ

この手紙が読まれるとき、私はもうこの世にいないかもしれないね。

それを思い浮かべながら書いているよ。


勇と出会ったのは31歳のときだったね。

たまたま同じ職場になって、一緒に仕事をするうちに仲良くなって、いろんなところへ食事しに行ったり、映画に行ったり、ゲームをして遊んだりして、どれもとても楽しかった。

付き合いはじめてからわりとすぐに行った温泉旅行、勇にとっては初めての温泉旅行だったようでワクワクしている姿を見ている私もすごく楽しかったし、今でも印象深い旅行の思い出だよ。


こんなことになって本当にごめんね。

勇には言わなかったけど、一ヶ月くらい前から体調はだんだん悪くなっていた。

まともに食べることが出来なくなっていて、頑張って食べても下痢をしたり吐いたりして消化しないので痩せてきていた。

勇はそれを心配して食べ物を置いて行ってくれたりしたのに、追い返したりして本当にごめんなさい。

でも、やっぱりしばらく食べないでいたら、ますます食べられなくなってきて、もう頑張って食べることがつらくなってしまったんだ。

体力がどんどん衰えて、こんなのは本当にダメだとわかっているけれど、どうしようもなくなっていて。

まったく情けない限りだけど、これが正直なところ。

いつも優しく手を差し伸べてくれた勇には、本当に申し訳ないことをしたと思っているよ。

本当にごめんなさい。

昔は一緒にビールを飲みに行ったり、日本酒を飲みに行ったり、焼肉を食べに行ったりしてどれも楽しかったね。

またあんなふうに勇と一緒に楽しく食卓を囲むことができたら最高だったけれど、それは実現困難になってしまった。

私のせいでこんなことになって、ごめんね。


勇と付き合った4年間、結婚生活の10年間はとても大切な出来事で、決して忘れないよ。

結婚生活ではお互いに張り合って言い争うこともあったし、それはつらいことだったけれど、今あれこれ振り返って思い出すと、勇の優しい言葉や笑顔ばかりが頭に浮かぶ。

離婚後は、また別の人と再婚することも考えてみた時期があったけれど、やっぱりいつどんなときも勇の存在は忘れたことがなかった。

きっと新しく誰かと付き合っても、必ず勇と比較して「勇だったらこうしてくれたのに」なんて思ってしまう。

比較するたびに勇を思い出すから、結局いつだって勇を忘れていないってことなんだろうな。

夫婦としては一度破綻してしまったけれど、勇は私にとって唯一無二の存在。

18年前の、亡くした子供の存在もあるからかもしれない。

あの時生めなかった子、今は18歳になっているはずだね。

勇と私の子は、どんな子に育っていただろうかって思う。

あの子の存在があるから、勇とはまったくの他人になっちゃいけないように思うんだ。

夫婦じゃなくなったけど、家族だよ。


最近はまたいろんなことを正直に話したり、少し勇を思いやる気持ちが出てきていたので、これからの二人だったらうまくやっていけたのかなとも思っていた。

また会ってたくさんいろんなことを話すのが楽しみだったのだけど、本当に残念。

あれこれ書いたりしてもとめどなくなるので、このへんで終えるね。


会ったときに言おうと思っていたんだけれど、家の近くで仔猫を見つけて連れてきたんだ。

体が弱っていたけれど、今はごはんもしっかり食べるようになったし病気もしていないみたい。

「たび」と名付けて、とても穏やかでいい子だよ。

里親さんが見つかるまでうちで保護しようと思っていたけれど、私の身に何かがあってたびの行き場がなくなるようだったら、勇が預かってくれないかな。

身勝手で厚かましいお願いだけれど、この子は大切な家族の一員なので宜しくお願いします。


勇とは、また来世で会えたらいいなと本当に思っているよ。”


 “月刊しらかば 編集担当 橋本様、吉田様

今日現在、追加原稿の4万字のうち8千字までは書けている状態ですが、この手紙が読まれるころ、4万字がすべて書き終わっていて、手紙の横に完成品として添えられていることを祈ります。

この手紙を書いた後も、4万字については精魂込めて書き上げる所存で、私にいつ何が起きても原稿の所在がわかるように、部屋の中に手紙と原稿を目立たせて置いておきます。


この本が出版されるのは10月とのことですが、もしかしたら私はそれまで生き永らえないような気がしています。

こんなことを言うのは非常に申し訳ないのですが、退院後も体調は思わしくなく、食事がまともに喉を通らない状態でした。

追加原稿の4万字を書き終えることは私の最低限のミッションであり、できればもちろん校正についても話したかったですし、自分の書いた文章がどうやって成形されて書籍に変わってゆくのか、その過程のひとつひとつも見届けたかったです。

書籍化はまさに夢のような出来事ですので、書店に並べられるところももちろんこの目で見たかったです。

しかしながら、4月現在すでに体力がかなり危うくなっていると自覚しており、10月にはどのようになっているかわかりません。

最後まで見届けてリリースできないことは無責任で不甲斐ない結果ですが、どうか私の気持ちだけはご理解いただきたくこうして筆をとりました。

どうか宜しくご査収願います。”


 “吉田ひかるさんへ

吉田さんと初めて病院の休憩室でお会いしてから、今日で5日目です。

この手紙が読まれているときには、おそらく私はこの世にいないときなのではないかと思っています。

このようなことになってしまい、本当に申し訳ありません。


吉田さんと出会えたことでこんなにも私の人生が大きく変わるとは想像していませんでした。

最初に声をかけていただいたとき、もちろん出版社の方だとは思いませんでしたし、

私が書き留めていた他愛ない日記を読みたいと言ってくださるとも思っていなかったのです。

また、偶然にして私に国際ロマンス詐欺被害の経験があったので、それを題材にした書籍の刊行というお話をいただき、自分の本を出版することが長年の夢でもあった私には、素晴らしいサクセスストーリーだったと思っております。


吉田さんがなぜあの病院に入院されていたのか、私からお聞きすることもありませんでしたし、話題にすることもありませんでした。

私から自分の症状について話すこともありませんでしたが、実は貧血と低血糖が原因で道路で倒れているところを助けられ、救急車で運ばれてあの病院へ入院しました。

3月下旬からはそれまでよりも増して食べられなくなっており、栄養状態が良くなかったのです。

体重もみるみる減って体力は失われていきましたし、しばらくまともに食べていなかったせいで胃腸も働かず、消化することが難しくなっていました。

退院する頃には、この書籍化のお話も持ち上がっていたので気力だけは充分で、それが活性剤になっていたように思います。

食事がしっかりできていたわけではありませんでしたが、気力だけで持っていました。

そうは言っても、根本的に体が改善するようなことをしていないのでやはり気力だけで長くは保てません。

退院後は雪崩が起きるかのように体調も落ちていきました。

体調管理ができておらず、無責任な結果ばかりでご迷惑をおかけし、恐縮です。

これだけ間違いなく言えることですが、あの日あの時吉田さんに出会えたことに大変感謝しており、私の人生における大切な財産になったと思っております。


余談ではありますが、私が道路で倒れたときに救急車を呼んで病院まで付き添ってくださった方もヨシダさんとおっしゃる方でした。

私は目も開けられず、声を発することもできなかったのですが、音だけは聞こえて意識がかすかにあり、ヨシダコウスケさんとおっしゃる男性のお名前だけを記憶しているのです。

私の意識がしっかりとある状態でヨシダコウスケさんともお会いして、是非ともお礼を申し上げたかったのですが、今このようなことになり願いは叶わず残念です。


私はお二人のヨシダさんに支えられ、助けられて人生の最後を終えることができました。

偶然ではありますが、お二人のヨシダさんとの出会いに心より感謝しております。

本当にありがとうございました。”


 ◆

 “橋本賢さんへ

橋本さんと初めてお会いして打ち合わせをしたのは2日前のことです。

出会って間もない状態でこのような手紙を宛てていることを、自ら不甲斐なく残念に思います。

この手紙が読まれているときには、おそらく私はこの世にいないときなのではないかと思っています。

このようなことになってしまい、誠に申し訳ありません。


今回の書籍化の最初の発端は5日前の吉田さんと私の出会いからでした。

入院先の病院の休憩室で吉田さんと偶然ご一緒して、吉田さんに最初に声をかけていただいたことからすべてが始まりました。

私が書き留めていた他愛ない日記を、「読みたい」とおっしゃって興味を持っていただき、私の国際ロマンス詐欺被害の経験は誠にお恥ずかしい限りの出来事ではありますが、それを題材にした書籍の刊行というお話をいただけて、自分の本を出版することが長年の夢でもあった私には、素晴らしいサクセスストーリーだったと思っております。


橋本さんのみずみずしくパンと張った肌や、軽快な足取りで歩かれる様は、明るいお人柄で何事にも意欲的に前向きに取り組まれていることの証のようだと感じておりました。

パワフルで精力的に物事に取り組む人というのは、表情や姿かたちにおのずと表れるものだと思います。

橋本さんとペアを組んでの書籍化のお仕事、最後までやり遂げたい気持ちでおりましたが、このようなことになり残念でなりません。

この本が橋本さんのイメージするかたちで出版され、書店に並べられること、納得できる商品となることを私は心から祈っております。

今までお世話になり、ありがとうございました。”


 “ブレインズ 稲垣様

3月28日の仕事の後、突然倒れて入院するに至り、その後10日間も休むことになってしまい、誠に申し訳ありません。

突然のことでしたので、職場の皆さんには多大なるご迷惑をおかけしたと思います。

心よりお詫び申し上げます。


3月下旬からは食べ物があまり喉を通らず、食事が思うように出来ておりませんでした。

むしろ食べずにいたほうが体が軽く、楽になってもおりましたのでそのように過ごしておりましたし、仕事に対する集中力や処理能力にも支障ない範囲と思っておりました。

しかしながら、あまりにも食べずにいたために貧血や低血糖の症状が出て入院することに至りました。

もちろん入院中は病院での食事をしっかり摂っていたのですが、体は正しく消化できなくなっており機能が衰えていたようです。

なかなか栄養をうまく吸収することができず、体力はどんどん失われていきました。

4月3日の退院後、自宅療養で体調を整え、週明けの仕事復帰を目指していたのですが、やはり食事をしても消化ができずかなり苦しい状態が続きました。

起き上がることも厳しい状態でしたので、自ら緊急通報することも出来ずといったところです。

また、再度入院すると致しましても、頑張って食べなくてはいけなくなるので、どうしても今の私にはそれがつらくて出来なくなっております。

体調管理がまったく出来ていない状態で不甲斐なく、お恥ずかしい限りです。

何かに困っていたかというと、私自身も何に困っていたのかはわからずにいます。

また、稲垣さんや、職場のどなたかに打ち明けることができたかといいますと、私の性格上そのようなことも口に出すことなく何事もないように振舞ってしまいました。

これは自業自得の結果ですので、やむを得ないことなのではないかと私自身は思います。


仕事上のことに関しては、メールで要点をお知らせしたとおりですので、私が作ったもの等も見ていただければどのメンバでもすぐにわかる内容だと思います。

難しい処理は何一つしておりませんので、必ずどのメンバも理解できます。

しっかりとした引継ぎを行えないままで誠に恐縮ですが、今後ますますブレインズの皆さまがご活躍されることを心より願っております。

多々ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありません。

これまでお世話になり、ありがとうございました。”


 “椎名動物病院 椎名様

昨日、椎名動物病院様に初めてお世話になりました。

生後間もない猫、たびの体調について細かく検査していただき、ありがとうございました。


込み入った話で誠に恐縮ですが、飼い主である私の体調が以前から思わしくありません。

昨日病院を訪ねたときには、たびを守ってあげなければいけないという使命感が強く、気を張っていたので普通に動くことができていたのですが、あれ以来ひどく体調を崩し、起き上がることすらままならない状態です。

たびの親としてしっかり彼をこれからも守ってあげなければいけないと思いつつも、すでに体力はついて行かず、もしかするとたびがすっかり元気になって里親さんのもとへ送り出すときまで、私は生き永らえないのではないかと思い、こうして筆をとっております。

もし万が一、私に何かがあってたびの行き先に困るようなことがあった場合、旧知の知人にたびのお世話を頼んでありますので、今後そちらをお伺いするときには私ではなくその知人になるかもしれません。

その際は、引き続き宜しくお願い致します。


昨日、たびの健康診断時にあわせて依頼した遺伝子検査の件ですが、2週間程度で詳細な遺伝子情報がわかるということでしたので、結果を楽しみにお待ちしております。

私の自宅住所宛てでお送りいただけるということでしたが、万が一私に何かがありました際には、たびのお世話をお願いする知人のほうへ転送されるよう手配をしておきます。

たびが健やかに育って、元気に走り回ったり、ごはんを食べたり、幸せをかみしめてくれることを何より願っております。

私がそれを見届けられなくとも、たびの生涯の幸せを守ってあげたいのです。

出会ってから私にすぐに温かい気持ちと生活の楽しさをもたらしてくれたたびにしてあげられることは、そういうことだと思います。

今後とも、どうかたびのことを宜しくお願い致します。”


 “チヅちゃんへ

チヅちゃんと呼ぶのはいつ以来でしょう。

しばらくそう呼んでいないように思います。

入院してすぐに病院へ駆けつけてくれたこと、あの場ではお礼をきちんと言えませんでしたが、心から感謝しています。


入院時には精密検査を受け、特にこれといって病気もなく、あとは食事をしっかり摂って体調を整えていくだけでした。

入院中も出された食事は全て食べていて、順調に予定通り退院したのですが、退院後に気力がプツッと切れたのかどんどん体調が悪くなりました。

正直なことを言うと、食事をしても消化できなくなっており、必ず下痢をしたり嘔吐したりしていました。

まともな食事をしない習慣が長らく続いたせいでしょう。

元気になろうとして頑張って食べても、必ず下痢をしたり猛烈な吐き気に襲われます。

そうしているうちにだんだんと食べることが億劫になり、また食事から遠のきます。

まったく悪循環だとわかっていても、あまりにも苦しくて食事が憂鬱になっていました。

入院していた共生病院では、検査結果のときに「摂食障害の可能性もあるので精神科の通院はまた続けて欲しい」ということは言われていました。

それはわかってはいましたが、もう精神科の門を叩きたくなかったのです。

精神的な病を治そうとするとき、精神科の医師が熱心に話を聞いてくれ、症状にあった薬を処方してくれますが、もうそのどちらも嫌になっていました。

話を聞いてくれても、それは形だけに過ぎないし、私に対して愛情を持って接してくれていることとは違うので虚しさが残ります。

症状にあった薬を飲むといっても、向精神薬はどれも脳をだまして気分を誤魔化すためのもののように思えるのです。

何も根本的な解決になってはいないと思うので、もうそんなことにお金と時間を使うのは嫌になっていました。

摂食障害かといえば、そうかもしれません。

でも、もう治すために頑張って食べなければいけないのもつらすぎました。

今すぐ死にたいわけではないのですが、食べることがつらくて出来ません。

本当に不甲斐ないけれど、家族の中で一番年下の私が先に命をなくすのかもしれないなと思い、その危機感もあって筆をとりました。


チヅちゃんとの出来事で一番思い出すのは、チヅちゃんの初めてのアルバイト代が入ったときのことです。

チヅちゃん16歳、私が11歳のときのこと。

「人生初めてのバイト代が入ったから、ユキに何か買ってあげる。何がいい?」

チヅちゃんはそう言ってくれました。

当時はスタジャンが流行っていたので、私は何の遠慮もなく「スタジャンがいい」と答えました。

今考えると、もっと遠慮すべきだったと思います。

スタジャンなんて、当時はそれほど安くもないというのに。

でもチヅちゃんは、「いいよ。ユキが欲しいならスタジャン買いに行こう。」と言ってくれましたね。

二人で街へ出かけて洋品店でスタジャンを買ってもらったのを覚えています。

チヅちゃんはいつも事あるごとに私に洋服や靴を買ってくれましたね。

年が離れていることと、チヅちゃんの責任感や母性のおかげで、なんだかチヅちゃんは私の「二人目の母」のような存在でした。

私の面倒を見て、育ててくれてありがとう。


こんなことを言うのは非常に申し訳なく、不甲斐ないことだけれど、私はもう先が長くないように感じています。

ふつつかな妹をどうかお許しください。

お母さんのこと、まかせっきりで申し訳ないのだけれど、これからも宜しくお願いします。

人生の中でたくさんのこと、どうもありがとう。


[追伸]

勇のこと、名前も聞きたくないかもしれませんが、彼はいまも私のことを心配して身の回りの世話をしてくれている部分もあるので、勇のことをあまり悪く思わないであげてください。

もし私に万が一のことがあったら、猫のたびのことなどは勇にお願いしようと思っているので、その辺りの理解を宜しくお願いします。”


 “お母さんへ

お母さんに手紙を書くのはいつ以来でしょう。

あまりにも久しぶりにお便りします。

しかし、この手紙が読まれているときには、おそらく私はこの世にいないときなのではないかと思っています。

このような残念なことになってしまい、本当に申し訳ありません。


お母さんには長らく会っていませんが、先日の入院のときにはチヅちゃんが見舞いにきてくれました。

その入院時には精密検査を受け、特にこれといって病気もなく、あとは食事をしっかり摂って体調を整えていくだけでした。

入院中も出された食事は全て食べていて、順調に予定通り退院したのですが、退院後に体調が悪化してしまいました。

チヅちゃんが私のことをどこまでお母さんに報告しているのか、いないのか、わからないのですが、3月下旬頃から体調を崩しており、食事がままならない状態でした。

そんな中で貧血と低血糖の症状に陥り、倒れて入院することになってしまったのです。

体調管理がしっかりできていない自分のせいなので、すべて自業自得です。


お母さんはこんな私を愚かだと笑いますか?

お母さんは私のことが嫌いでしたか?


それはずっと聞いてみたいことでした。

私はお母さんのことが好きだったし、お父さんのことも好きでした。

チヅちゃんのことも。

もっと家族みんなのことを好きになりたかった。

そして、私は家族から愛されたかった。

ずっとそのことが私の人生の根底にあったと思います。


私はお母さんに親孝行できたでしょうか。

きっと何もできていないと思います。

そして、さらに親不孝なことに、私はお母さんより先に旅立ちます。

この手紙が読まれているとしたら、そういうことになっているでしょう。

せっかく産んでもらったというのに、申し訳なく思っています。

この世に生きるということは、私にとっては厳しいことだらけでした。

食べること=生きること、がもうすでに出来ずにつらく苦しいのです。

こんな娘でごめんなさい。


最後にお母さんに会って、笑って話せたら一番良かったのですが、それも叶わず残念です。

お母さん、穏やかで幸せなときを過ごしていってください。

私を産んでくれて本当にありがとう。”



 体力が底をついているわりには、勢いにまかせてずいぶん書いた。

そして、無事に言葉を残すことができた。

手紙を書き終えたら、それぞれの人との過去の様々な出来事が走馬灯のように脳裏をよぎり、思い出しては懐かしくなったり、悲しい気持ちになったりした。

疲れもあいまって、机に顔を伏せてワーワーと泣いた。


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