第4章 光

第1話 一歩

 退院して自宅へ戻り、自分の布団に包まれたら驚くほど深く眠れた。

我が家へ連れてきたたびと一緒に眠る初めての夜だったが、きちんと朝には同じ場所にいてしっかり休めたようで安堵した。

「たび、おはよう。どうだった?眠れた?」

話しかけると、たびは嬉しそうに目を細めて優しい顔をする。

朝にまた昨夜の残りの缶詰のフードと、お椀に入れた水を差しだすと、昨夜よりはずいぶん勢いよく食事をしはじめた。

仔猫らしく飛び跳ねたり走ったりするには、まだまだ体力の回復と安定が必要そうだ。

今週は私が退院直後だということもあり、仕事は引き続き休みで自宅療養となったが、自分の体力回復や社会復帰のための準備期間だけなく、この子に一日中ついていられることを幸いに思う。

仕事復帰は来週、4月9日(月)から。

あと5日間のうちに、たびの体の様子を見ながらケアをして、書籍化の追加文章4万字もできるだけ書き進めるつもりだ。

 “ところでたびの猫種は何なんだろう。”

そんなことをふと考えた。

和猫でもないようで、アメリカンショートヘアか立ち耳のスコティッシュフォールドに似ているようだ。

しかしそんな猫種でもあんなに寂しい場所で段ボールに入れて置き去りにされたりするんだろうかと首をかしげたりもした。

猫種は何であっても、捨てる人は捨てるのかもしれない。

そのことよりももっと気にかかっているのは、たびが病気にかかっていないかということだ。

寒空の下にいつからいたのか、まともな食事を摂っていなかったのもいつからなのかわからない。

ウィルスに感染していたり、何かの疾患の予備軍になっていないかが心配だ。

食事をさせてゆっくり眠らせることのみではなく、医療の面からみても太鼓判を押されるほどしっかりと万全な健康状態になって欲しい。

仕事が休みなのを利用して、平日の空いている時間にたびを近くの動物病院へ連れていくことにした。

 “椎名動物病院”、自宅から歩いて15分ほどのところにある病院だ。

たびをタオルで包んだままトートバックに入れ、息苦しくならないよう顔のまわりだけは風通しをよくした。

抱えたトートバックの中から時々ミーミーと声がして、通りすがる人が時々振り向く。

「大丈夫だからね、たびちゃん。ちょっとの辛抱だよ。」

手のひらで軽くポンポンとトートバックを叩いたりさすったりして励ました。

病院に到着し受付があるロビーを見渡すと、キャリーに入れた犬や猫を皆抱えてベンチに腰かけている。

思ったよりも混んでいて、待ち人数は8人くらいだろうか。

「こんにちは。初めて来られた方ですか。」

見知らぬ顔なのでそう聞かれたようだ。

「はい、初めてです。」

「今日お連れいただいたのは、ワンちゃん、猫ちゃんどちらでしたか。」

「あの、ここに入っているんですが、猫です。まだ小さくて、拾ったばかりでもあるので、健康診断とワクチンをしていただきたくて。」

“ここ”と指さしながら、トートバックに視線をやった。

猫が入っているとは思えなかったからか、病院のスタッフが眉を持ち上げるようにしてクスッと微笑んだ。

「では、こちらの問診票に記入をお願いします。書き終わったらスタッフに声をかけてください。診察室に呼ばれるまでこのままここでお待ちいただけますでしょうか。」

いつも同じフレーズで説明をしているからか、流れるようにスムーズな話し方だ。

問診票を書き終えてから20分ほどで名前が呼ばれた。

 「羽賀様。たびちゃんの診察でお待ちの羽賀様、お入りください。」

引き戸を開けて中に入ると、短い髪で丸い目をした男性の獣医師がいた。

ネームプレートには”椎名”と書いてある。

この医師は恐らくこの病院の院長なのだろう。

「この子、昨日家の近くにいたのでうちへ連れてきたんです。」

“捨てられていた”、”拾う”という言葉はあえて使いたくなかった。

「あらら、まだ小さいですね。生後1ヶ月経っていないくらいかな。」

椎名医師は動物を見るときに一段と優しい顔になるようだ。

健康状態を相談した結果、不安要素を取り除くためにも血液検査を含め、詳細な健康診断をしてもらうことにした。

検査後さらに20分ほど待つと結果報告のために呼ばれ、たびは特にこれといってウィルスに感染したりもしていなかった。

混合ワクチンも接種して、仔猫にぴったりのフードを病院から紹介してもらい購入してきた。

病院から購入したおすすめのフードなら何しろ安心だ。

たびが少しでも元気になってくれることが一番の願いであり、二人で一緒に過ごす時間がとても穏やかでそれがとても心地よくて楽しい。

猫の存在は人間を幸せにしてくれる。


 “羽賀様

お世話になっております。

月刊しらかば 編集担当の橋本です。

ペンネームの件についてご連絡いただきましてありがとうございました。

社内で確認致しまして、こちらのペンネームで進めて頂けます。

追加の原稿4万字につきましては、また随時ご連絡させてください。

引き続き宜しくお願い致します。”


 たびを連れて病院から帰宅すると、橋本さんからメールが届いていた。

メールの返信がすぐに来なかったことが気にかかっていたが、社内で確認やらがあったのだと知った。

昨日からたびと穏やかにほっこりとした時間を過ごしており、原稿のことを忘れかけていた。

あと1ヶ月の間に4万字を書かなければいけない。

また来週から仕事が始まると体力的に厳しくなることが予測される。

この自宅療養の間になるべく書きすすめたい。

「南高たびさん、頑張らなきゃね。」

たびのほうへ目をやりながらそう話しかけ、同時に自分を奮い立たせていた。

 ノートパソコンを開いて原稿を書き始める。

A4の文書で40ページ書いたら、おおよそ4万字になるはずだ。

書き始めれば40枚などはあっという間に到達するだろう。

過去のデイビットとのメッセージのやりとり、送られた文章を再び読み返すことはずっと避けていた。

これを受け取ったときには本物の愛が始まったと思い込んで浮足立っていたのだから。

その時の自分を振り返ると、どうしても心がチクチクと痛む。

封印していた嫌な過去を再び開いてみなければいけないのが、この作業を億劫なものにさせていた。

歯が浮くような愛の台詞も詐欺師からのものかと思うと虫唾が走った。

しかし、これらのメッセージを本文に引用できれば4万字はわりと楽に書けるかもしれない。

メッセージをそのまま載せることはもちろんできないが、抜粋したり読みやすく変更などを加えていく。

このメッセージを読んで返信を書いていたときの自分の気持ちを再び思い出さなければ書けない文章もあり、その度に憂鬱で暗い気持ちになった。

早めに書ききってしまわなければ、こうして邂逅する時間が増えストレスになるかもしれない。

書き始めたら集中力が増し、一気に8千字まで書いた。

 “疲れた”

言葉として頭にそれが浮かび、ノートパソコンを置いた机から離れた。

退院してからというもの、食べ物は何も口にしていない。

退院するときにも食欲はなく、食事はまともに進まなかったが、久しぶりに自宅へ戻ることや今後原稿を書かなければいけないことや勇と再会したいことが頭にあり、それが活力となって体力を持たせてくれていたようなものだ。

最期に体重を計ったのは入院していたときだったが、今は何kgになっているのだろう。

ここ数日は食事後にまた下痢を繰り返すようになり、それが憂鬱で食事を嫌うようになっている。

もしかしたら最後に計ったときの30kgよりも減っているかもしれない。

部屋着を脱いで恐る恐る体重計に乗る。

―――29kg。

ついに30kgを切ってしまったようだ。

なんとなくそんなことが予測出来ていたが、実際に数字を目にしてしまうと愕然とした。

以前はダイエットを意識していたこともあり、体重がどんどん減る分には嬉しくて喜んでいたが、これはもはや喜ばしい領域ではない。

今日の今の時点では、まもなく死のうという心境にはなっていない。

20日ほど前には、”この食料がなくなったら死のう”と強く思っていたが、今は違う。

今の自分には、近い将来に実現したいこと、守りたい家族、幸せがつかめるかもしれない未来がある。

今はすぐに死んでいる場合ではない。

だが、明らかに体調が悪かった。

なんとか元気をつけようと、自宅にあったアイスクリームを口に入れる。

小さな一口サイズだというのに、口の中で溶かすことも一苦労だ。

体内を巡る血液も減っているのか、薄くなっているのか、常に後頭部がフワフワして前後のバランスがとれなくなる。

眩暈を起こしているのかもしれない。

目がだんだんと眩んできて、意識が朦朧としてきた。

その瞬間、猛烈な吐き気をもよおし、近くにあったゴミ箱に手を伸ばす。

床にへたり込んで、ゴミ箱に顔を突っ込んだ。

口にしたのは小さなアイスクリーム一つだというのに、胃の奥から体内のものを全て押し出そうとするほどに強く嘔吐する。

嘔吐したのはアイスクリームだけではない。

その日飲んだ水さえも体内から一掃されるかのごとく、大量の水分も出た。

「ハァ、ハァ、ハァ」

部屋に自分の荒い息づかいだけが響く。

「ミー」

たびの声だろうか、意識が遠のく中で聞こえた気がする。

 ―――何故今こうなってしまうのだろう。

今じゃない、今じゃないはずだ。

死ぬのは今じゃない、もっと先のはずだったのに。

こんなタイミングで、こんなことになってしまうとは。

“大事な一歩を歩みはじめたときだったのになぁ”

部屋の天井の模様が最後に目に映り、そっと目を閉じた。

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