第5話 家族
吉田さんからきた一通目のビジネスメールに返信するかたちで4月3日(火)の打ち合わせについて希望の場所と時間を送信した。
“月刊しらかば 編集担当 吉田ひかる様
この度の書籍化の件について、ご連絡をいただきましてありがとうございます。
4月3日(火)の初回お打ち合わせの件ですが、
当方、現在入院中の病院を同日に退院する背景などもございまして、
札幌共生病院にておこなって頂くことは可能でしょうか。
時刻は、13:00~15:00の間でお願いできますと幸いです。
宜しくお願い致します。”
吉田さんも未だ入院中なことは勿論知っているが、このメールは吉田さんの会社の人も読んでいる。
少しよそよそしいが、吉田さんと個別であれこれ話していることは度外視して、読む人全員がフラットな立ち位置になるような書き方をしなければいけない。
打ち合わせ場所はこの提案よりも最適な場所などないだろう。
初回の打ち合わせは、やはりどうしても吉田さんに同席して欲しい。
このメールを送信した30分後、吉田さんから返信が届いた。
“羽賀様
4月3日(火) 13:00 札幌共生病院 1F 喫茶店
上記でいかがでしょうか。
宜しくお願い致します。”
休憩室で書籍化についての商談をするのは味気ないからか、病院の1階に併設されている喫茶店が打ち合わせの場所となった。
退院する日、私は病院で最後の昼食を摂り、そのまま1階喫茶店へ降りていき、今後の夢の一歩に向けた話を始める。
それを想像すると、退院する日がまさに門出の日となりそうで、春の季節にふさわしい気がした。
病院での最後の昼食はあまり進まなかったが、とりあえず食べ終え、早々に1階に降りた。
時刻は、12:55。
早めに到着しているくらいで丁度いいだろう。
喫茶店の奥の一角に人のいないスペースを見つけ、そこに座った。
吉田さんはまだ到着していないようだ。
喫茶店の奥の一角から入口のほうを眺めていれば、入ってきた人を見落とすことはないはずだ。
そう思い、じっと入口を見つめながら待った。
吉田さんが連れの男性と親しげに話しながら入ってくるのが見えた。
きっと彼が今回の編集担当者に違いない。
吉田さんがこちらを見つけ、それまでより目を少し見開き、手を振りながら近づいてきた。
「初めまして、羽賀由紀子と申します。この度はお世話になります。」
「いいえ、こちらこそ。お忙しいところ、お時間を作っていただいてありがとうございます。」
そう言いながら、吉田さんの連れの男性が名刺を取り出しはじめた。
「彼は、橋本賢くん。編集担当として、私の代わりにいろいろ頑張ってくれると思うので、宜しくお願いしますね。」
吉田さんが、その間を埋めるように付け加える。
「橋本です。どうぞ宜しくお願い致します。」
年の頃は30代前半のように見える。
少しふっくらとした顔や体が、彼のバイタリティを表わしているようだ。
着席してすぐに打ち合わせが始まった。
「昨日、羽賀さんには別件のメールで少しお知らせしたことではあるんですが、読ませていただいた文章の内容ですと6万字に満たないくらいでしたので、やはり書籍化するには10万字は欲しいところなんです。あと4万字を書き足していただきたいというのが、まずお願いとしてあります。あっ、こういうのも橋本くんから全部説明してもらったほうがいいわね。」
言い終えて、吉田さんがふっと笑って肩をすくめた。
「あぁ、すいません、僕が説明すべきところでした。はい、その通りでして、6万字の部分は今の状態では日記の体(てい)ですので、書籍化にあたっては校正する必要が当然あります。それとともに、トータルで10万字は欲しいところですので、あと4万字ですが、すべてを新しい文章で書く必要はないかなと思うんですよ。」
「日記には書いていないエピソードもあるので、そういうのを洗い出して書きましょうか。」
「そうしていただけると非常にありがたいです。」
「デイビットとやりとりしたメールもありますから、それをそのまま出すのではなくて、抜粋したり読みやすくしてエピソードに加えるというのはどうですか。」
「あぁ、それはいい案ですね。エピソードに交えていただければグッと良くなると思いますね。校正していくと、文章を削ったりすることもわりとありますんで、どうしても字数が足りなくなったりするんですよ。なので、字数多めに書いていただけていると助かります。」
「なるほど、そういうことなんですね。わかりました。大丈夫です。」
「それで、加筆の期間ですが、スケジュールにあった”改稿作業”という工程の初期段階で4万字を頂けているのが理想なんです。具体的には5月1日から改稿に入りますんで、5月中に書き上げて頂けると作業を並行して進められます。1ヶ月で4万字。どうでしょう、大丈夫そうですか。」
橋本さんが下から顔を覗き込むようにして様子を伺い、そう聞いた。
「はい、1ヶ月でしたら大丈夫だと思います。」
まったく不安要素はなく、そう答えた。
「では、その方向でいきましょう。宜しくお願いしますね。ところで、羽賀さん、著者名はどうされますか?」
橋本さんが笑顔で話題を切りかえし、すぐに意味がわからずに戸惑った。
「著者名・・・ですか?”どうする”、とは?」
「はい、羽賀由紀子さんのお名前で書籍化しますか?それとも別のペンネームなどを考えらえていたりしますか?著者名を本名のままにされる方と、そうでない方がいらっしゃるんですが。”ペンネームも作品の一つ”と考えられている作家さんもいらっしゃるようです。」
“作家さん”という言葉に心ときめいた。
詐欺のエピソードを書籍化するだけで私も作家と呼ばれるのか疑問ではあるが、純粋に心ときめく。
「あぁ、そういうことなんですね。気持ちとしては本名で出版したほうが、私個人としては嬉しさもありますけど、詐欺被害に遭ったことが明るみになってしまうのもどうかと思いまして。」
語尾で少し苦笑いをしたら、橋本さんと吉田さんもつられて笑った。
「まあ、そういうのもおありでしょうね。ではペンネームで?」
「ん~、まぁそうですね・・・でも特にこれといってペンネームを考えてあったりもしませんし、今日ここで決めることができないので、1~2日お待ちいただいてもよろしいですか?」
二つ返事で了承され、今後は定期的に打ち合わせをするということと、連絡事項は随時メールで行いましょうという話で締めくくり、初回の打ち合わせを終えた。
著者名に関する話が出てから、この書籍化の事実をどこまで他人に話すかについて、自分の心の中でずっと考えていた。
著者・羽賀由紀子として書籍化され、本の装丁にも自分の本名が刻まれたらと想像するだけで心が躍る。
これまでの人生において、最悪で最低な経験ばかりが重なったが、一般の人が多く目にする書籍の著者になれるとしたら、少しだけ自分がランクアップしたような気がするからだ。
作家となって”先生”と呼ばれるのなら、本名で呼ばれてみたいという自己顕示欲もあった。
しかし、その自己顕示欲を満たすためのリスクのほうが大きすぎやしないか。
気にかかっているのは勇のことだった。
読書を好み、毎日のように書店に立ち寄る勇はこの本が出版されれば必ず見つけるだろう。
私が告知などをまったくしなくても。
本の著者に”羽賀由紀子”と書かれていても、私と同姓同名の別人だと彼はまず考えるかもしれない。
しかし、本を読んでしまったらどうだろう。
デイビットと出会った経緯、離婚した時期などを彼が読んだなら、これはすぐに私のことだと直感的にわかるだろう。
詐欺だったとはいえ、外国人と交際しようとしたことが彼に知られてしまう。
それだけでも嫌悪感を持つことが予測できるが、結果として国際ロマンス詐欺で150万円も騙しとられたことを知ったら卒倒するかもしれない。
勇が驚きすぎて腰を抜かすことを懸念しているのではない。
元妻がそれほど浅はかな過ちを犯していたと知ったら、幻滅するのではないかということだ。
ここ数日間で勇との関係は婚姻中よりも温かみを持ち、失敗した結婚生活では幸せを掴めなかったが、これからの二人は新章に入りまだ知らない幸せを掴めそうな気がしている。
この本の出版のために、それをぶち壊しにしたくない。
だとしたら、”この本はフィクションである”と勇に説明したらどうか。
私のそんな嘘は勇にすぐに見破られるのが目に見えている。
19年の長い付き合いは伊達ではない。
取材内容だけで私がそこまでフィクションをまことしやかに書けないということを勇なら充分に知っている。
―――“やはり勇にはこの本の出版について話すのをやめよう。”
打ち合わせを終え、病室で退院の身支度をしながらそう心に決めた。
「お世話になりました。」
15:30、ペコリと頭を下げ看護師に礼を述べ、両手に荷物を持って病院を後にした。
札幌市中心部にある病院から最寄りの地下鉄駅まで歩く。
地下鉄に乗って10分もしないうちに自宅近くの駅に到着した。
職場のビルの前で倒れて急遽入院したのは先週の水曜日のことだ。
退院した今日で7日目、約一週間ぶりの帰宅となる。
一週間前に家を出たときの状態がどんなものだったか思い出せもしないが、自宅に帰れば好きな時間に好きな番組を観たり、自分の布団で眠れるということだけでも充分にワクワクした。
たった一週間自宅周辺の景色を見ていないだけなのに、なんだか急に春めいて雰囲気が変わったように思えた。
自宅まであと50mという距離にさしかかったときだった。
「ミー、ミー、ミー、ミー」
高くか細い声で何かが鳴いている。
足を止めて辺りを見渡した。
住宅の新築工事現場の一角をよく見ると段ボールが置いてあり、そこから声がしているようだ。
段ボールに近づいたとき、鳴き声はさらに大きくなり、必死で助けを求めているように聞こえた。
閉じていた段ボールの蓋をあけると、グレーの毛をした仔猫が一匹、箱の壁をよじ登ろうとしながらこちらを見ている。
常に爪が出たままで、体は500mlのペットボトルほどに小さい雄猫だ。
体の大きさからすると生後1ヶ月も経っていないくらいかもしれない。
まともに食事をしていないのか、手足も細く脇腹は肋骨の形が浮き出ている。
この場所にたまたま捨てられた仔猫なのか、はたまた工事現場で縁の下から出てきた仔猫を段ボールに入れてここに置いたのか。
「どうしたの?一人でここにいたの?怖かったね、お腹が空いたね。」
どんな理由でここに置き去りにされたのかはわからないが、いずれにしてもこんなに可愛らしく健気で弱った仔猫と出会ってしまったら、再び段ボールの蓋を閉めて素通りすることなど出来るはずがない。
借りている部屋はペット飼育不可のマンションだが、せめてこの子の体調が万全になって里親がきちんと見つかるまでは自宅で世話をして見守りたい。
4月上旬とはいえ札幌の春はまだ遠く、夕方になってくると風が冷たい。
こんな場所に小さなこの子を置いておいたらますます体が弱ってしまう。
「うちに来ない?気に入るお部屋かどうかはわからないけど、あったかいしご飯もあるよ。」
グレーの毛の小さな子に話しかけながら、ひょいと段ボールを持ち上げた。
両手には病院から持ってきた荷物をぶらさげたまま、段ボールを下から持ってそろそろと歩く。
「さぁさ、おうちへ行こうね。怖くないよ。もう大丈夫。」
少しでも不安を取り除くようにと、話しかけながらすり足で歩いた。
一週間ぶりに入る自宅に仔猫が入った段ボールをまず置く。
両手の荷物を玄関先に放り出し、キャットフードを買うために急いでコンビニエンスストアへ向かった。
突然にでも守るべき小さな存在が出来たら、急に自分のことには関心がなくなるものだ。
自分のことなど二の次で、もはやどうでもよかった。
駆け足で自宅へ戻り、ミーミーと鳴く子に缶詰のキャットフードをほぐして与える。
小さな口はなかなか開かず、空腹ではあるのだろうが一気にガツガツ食べられる状況ではなさそうだ。
じっと見ていると、スンスンと匂いを嗅ぎながらキャットフードを少しずつ舐めはじめた。
「そうそう。頑張れ、頑張れ。」
一口二口食べているうちに元気になって、もっとガツガツ食べられたらいいのにと願った。
最初はおちょぼ口だったが、しだいに口が開くようになり元気に食べ進んだ。
気づくと、一缶の3分の1くらいは食べたようだ。
満足したように手で顔をぬぐう姿が一人前の猫と同じで、微笑ましい。
少し元気を取り戻した様子を見ていたら、心の奥がポッと温かくなった。
この子と暮らすのはわずかな期間になるかもしれないが、まずは名前を決めようか。
グレーのキジトラで、はちわれ。
両手足が足袋をはいているように白い。
どんな猫も好きだが、この子の毛色と柄はとても好みだ。
目がまんまるで愛くるしく、私の足にじゃれついてきて指を甘噛みしたりして遊び始めた。
人懐っこくて可愛らしい子だ。
毛色にちなんで”グレー”、”銀”などが名前の候補に思い浮かんだ。
そうだ、”たび”がいい。
足袋をはいたように足先が白いことから、”たび”。
突然ひらめいてしっくりときたように思え、「たび、こっちにおいで。たびちゃん。」と呼びかけ始めた。
自分の名前が呼ばれたと理解していないだろうが、呼び続ければそのうちわかってくるだろう。
我が家にきて食事ができた後はかなり生き生きとしてきたが、それでも体が冷え切ってしまっているようだ。
いつから外にいたのかわからないが、少し汚れてもいるし寒そうだ。
洗面器にぬるま湯を入れ、手で包むように体を持ってそっと洗ってあげた。
毛が濡れるのは本来嫌かもしれないが、体が温まるからまんざらでもないのかさほど嫌そうでもない。
タオルドライした後、ストーブをつけて毛をなるべく早く乾かした。
温めるためにも腕に抱きかかえて眠りたいところだが、あまりにも小さくて寝ている間に下敷きにしてしまったら困る。
あれこれ考えて、タオルに包んで浅い箱に入れ、そのすぐ近くで眠ることにした。
新しく迎え入れた家族、たび。
空腹と寒さで大変だったろうが、我が家へきて少しでも早く元気になっていって欲しいと願う。
まずは元気になってから今後のことを改めてから考えようと。
自分が今日退院して一週間ぶりに自宅に戻ったことをすっかり忘れかけていた。
以前、ゴミ箱に捨てた食料品は入院する前にすべて可燃ゴミとして出してあったため、留守中の部屋の中で生ものが腐敗するような惨劇にはなっていなかった。
自宅に残っていた食料品はあれからほとんど手をつけておらず、カップ麺の焼きそば3個、レンジで温めるご飯3個、プロセスチーズ5パック、ファミリーパックのアイスクリームもまだ2箱ある。
よく見ると、プロセスチーズの賞味期限が切れていた。
相変わらずほとんど食欲もなく、退院明けでまだ弱っている体に賞味期限切れのチーズを入れるのもナンセンスだ。
5パックも溜め込んでいたプロセスチーズを捨てることにした。
あとはすぐに腐るようなものはなく、このまましばらく自宅に貯えておいても良いだろう。
退院したらすぐに勇にメールをして、次に会う約束をしようと思っていたところだった。
“仕事のトラブルは無事に片付いた”と言って予定どおりに次の週末くらいに会えたらいい。
勇が急に訪ねてきても問題のない状態に部屋を整えてからメールを打つ。
“勇、お疲れ様。
例の仕事のトラブルは一通り片付いてやっと落ち着いた生活に戻れたところ。
今週末あたりなら会えると思うよ。”
特に迷うこともなくスラスラと打ってすぐに送信をした。
こちらからは”会いたい”とか、”会える?”などという言い方をしないのがいつもの私の書き方だった。
仔猫のたびを我が家へ連れてきたことも勇に話さなければいけない。
猫を飼っていた経験がある勇は、今ももちろん大の猫好きだ。
仔猫を保護したことには無論反対はしないだろうが、ペット飼育不可のマンションで隠れて飼い続けることには咎めそうだ。
そのことも含めて正直な気持ちや考えを勇に会ったときに話そう。
そんなことを考えていたら、ほどなくして勇からメールの返信が届いた。
“由紀、お疲れ様。
そっか、トラブルが無事に片付いてよかったね。一安心。
疲れていると思うから、家でのんびりゆっくり休んでよ。
それはそうと、明日から急に東京出張に行くことになったんだ。
戻ってくるのは4月10日になるよ。
急な出張で気乗りしないけど、まあ仕方ないよ。
そんなわけで、週末に由紀に会えないのは残念だけど出張行ってくるね。
戻ってきたら、ゆっくり会おう。”
こちらの都合さえ良ければ勇に会えると思い込んでいたがゆえ、余計に残念に感じた。
これまで勇の都合などをまったく考えず、自己中心的であったことを恥じた。
自分を反省し相手を思いやる気持ちは今までにはなかったことかもしれない。
今回の入院が契機となったかは定かではないが、こういう気持ちが少しでもあるのなら今後はうまくやっていける気がする。
勇からのメールを読んだ後、小さな溜息を一つつき、「たびちゃん、ニャンコのたびちゃん。」と呼びかけた。
こうして毎日懲りずに少しずつでも名前を呼び続ければ、いずれこの子は自分の名前が”たび”であるとわかるはずだ。
その日が訪れることを期待し、声に出して呼び続けた。
「ニャンコのたび。ニャンコ・たび。」
ふと一瞬止まってアッと小声で独り言をつぶやきながら、急いでスマートフォンを手にとった。
編集担当の橋本さんと吉田さん宛てにメールを打ち始める。
“月刊しらかば 編集担当 橋本様、吉田様
本日は打ち合わせにてありがとうございました。
その際にお話しがありましたペンネームの件ですが、「南高(なんこう)たび」でいかがでしょうか。
よろしければこちらのペンネームで進めさせて頂きたく存じます。
宜しくお願い致します。”
自分の人生の最期を締めくくろうとしていたとき、本を出版することができ、生きた証をこの世に残すことができる。
家族になってくれた”たび”の名を、その記念にペンネームにしよう。
自分が生きた証となる文章と、新しい家族の”たび”は、この世における私の最大の宝物に違いなかった。
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