第4話 証

 月刊しらかば編集者・吉田ひかるさんとの初対面から一日が経った。

そういえば吉田さんもここに入院していると言っていた。

内科にかかわる何かしらの病気を患っているからここに入院しているのだろうが、最初に吉田さんのほうから元気一杯のテンションで話しかけられたことと、「パソコンのキーボードを打つのが速い」「何を打っているんですか」という話の流れだったために、終始その話題だけをして別れた。

互いの病気のこと、入院生活のことなどは一切触れずに。

だからこそ、ここが病院であることさえも忘れて話せたのであって、それがとても大きな気分転換になった。

“吉田さんは何の病気で入院しているのだろう。”

少し気になってはいたが、あえて質問しようとまでは思わなかったし、同じく吉田さんも私の病気や入院理由などには一切触れてこなかった。

二人で話した休憩室を後にし、それぞれ病室へ戻っていくときにも互いの病室の場所について話すこともなく、「メールしますね。」という言葉で締めくくられた。

吉田さんを目の前にして話したときは、書籍化の話が現実的にイメージできていたのに、何故だか吉田さんと別れた後はそれが幻だったような気がしている。

それが信じがたい出会いと展開だったせいだろうか。

 入院してからは日付や曜日の感覚が薄れてきているが、ふとカレンダーを見ると月曜日だ。

吉田さんが昨日、「会社のほうには今日すぐにでもメールしておきます。もう絶対すぐにOKの連絡がくると思います。」と言っていたが、日曜夜に会社の上長にメールを送っておけば、月曜朝には会社が動き出すのですぐに返事をもらえるという意味を含んでいたのか。

吉田さんが言っていたとおりにメールを送ったなら、今日の今頃にはその会社の上長に話が通じたのではないかと想像した。

それをもって会社では急遽編集会議が開かれ、「国際ロマンス詐欺の本を書籍化して勝算があるかどうか」が話し合われたりしているのだろうか。

もしくはそのような会議にすらかけられず、上長の独断と職業的センスにより一刀両断され「その提案は実現が難しい」と却下されているか。

自分の中の勝手な妄想で幾通りもの結果のパターンを考えた。

書籍化の話は吉田さんからもたらされた100%棚ボタのサプライズだったというのに、私はどこか期待して待ちすぎているのかもしれない。

―――“これ以上そのことを考えるのはやめよう。”

そう思ったときだった。

ブッブッブッ、スマートフォンのバイブ音が響いた。

メールが届いたようだ、吉田さんに違いない。

小刻みに震える手でスマートフォンの画面を急いでスワイプした。

やはりメールの送信者は吉田さんだ。


 “昨日は貴重なお時間を頂き、ありがとうございました。

また、この出会いが大変興味深いお話を聞ける良い機会になりましたことに感謝しております。

つきましては、書籍化のスケジュール案が出来て参りましたのでご一報させて頂きます。


方針決定:~4/14

改稿作業(イラスト含む):5/1~8/31

校正作業:9/1~30

印刷製本:10/1~


上記のことから、発刊予定日は10月後半になりそうです。

まずは方針決定のお打ち合わせをしたく、急ではございますが4月3日(火)のご都合はいかがでしょうか。

所要時間は1時間程度になる予定ですが、羽賀様のご都合に合わせた時間、場所に編集担当が伺います。

ご連絡をお待ちしております。”


 書籍化がOKかNGかの判定結果程度の回答を待っていたというのに、すでに書籍化される方向で話が進んでいるだけではなく、これほど詳細なスケジュールが提示されたことに恐れおののいた。

つい数分前までは悪い結果を想定し、落胆したくなくい恐怖で手が震えていたのが一変、夢が突然具現化しはじめたことに震えていた。

―――私の書いたものが10月には本になる。

二週間以上前、手元にある食料を食べ終えたら、私の生涯はそれを以て終えようと考えていた。

“あと18日くらいで食べきるだろう。”

そうして逆算していたのではなかったか。

奇しくも、その”18日後”というのは今日、4月2日(月)のはずだった。

順調にいけば手元の食料を食べ終え、あとは死を待つはずが、その計算は狂い始めていた。


 “私は今死んではいけないんじゃないか。死ぬのはもう少し後でもいいんじゃないか。”

この心境の変化は何だろう。

生きる希望とか活力という、そういう格好良いものなんかじゃない。

腹黒さとか意地汚さとか、自分にはそういう言葉が合っているように思える。

自分の本が出版されるという、20代の頃の夢が今現実となって目の前にぶら下がっている。

馬の鼻先にニンジンをぶら下げるのと同じことだ。

欲しかったエサに届きそうで届かないから、それにつられて前へ進んでしまうということ。

書籍化される10月後半までは生きていなくてはいけないのではないか。

いや、使命感だけではない、書籍化されて実際に書店の店頭にそれらが並ぶところをこの目で見たい。

自分で決めた死期をきっちりと予定どおり守ることも出来ず、目先の欲に溺れて言い訳をする自分はなんてだらしがない人間なのだろうと自責した。

どんな状況下でも、やはり自分のことが一番嫌いで憎いことには変わりない。

まだ死ねない理由をあれこれ考えていたその時、スマートフォンが再びメールを受信した。

 “吉田です”というタイトルだ。

先ほど届いたビジネスメールの文脈とはまったく違い、女友達に送るメールのようなニュアンスを感じた。


 “羽賀さん

書籍化の件、先ほどご連絡させて頂きました。今後が楽しみですね。

あのスケジュールで同意していただけそうでしょうか?

初回の打ち合わせが明日、4月3日(火)となっていたのですが大丈夫そうですか?

急に打ち合わせを入れてすみません。

本当は私が羽賀さんの書籍の編集担当をしたいのですが、まだ私が入院中のため、会社の他のメンバーが担当させていただくことになりました。

その担当が明日でないと都合が悪いようでして、急なスケジュールで申し訳ありません。

明日の打ち合わせは、もし病院で行うようでしたら私も同席してお話を一緒に伺いたいと思っています。

それと、メールに記載していないことですが、

読ませていただいた日記のデイビット氏の内容だけですと6万字に満たないくらいでしたので、書籍化するには字数が足りないことになります。

明日の打ち合わせでその件はお話しすることになっていますが、あと4万字、合計10万字は欲しいということで、書き足していただくお願いに上がります。

重ね重ね申し訳ありません。

明日、詳細をご相談させてください。”

 

 先ほどの一通目のメールはおそらく会社の上長にも同報されていたためにビジネスメールだったのだろう。

事の背景を説明するようなメールが、吉田さんから個人的に送られてきた。

明日、夕方には身支度をしてこの病院を退院する予定だが、この吉田さんの文面からすると、明日の打ち合わせには吉田さんに同席してもらったほうが絶対に良い。

そもそも今回の書籍化の話は吉田さんからいただいたものであり、その吉田さんが編集担当になることはできず見知らぬ編集者とタッグを組むことになるのなら、初回の顔合わせは吉田さんに同席してもらったほうが今後もスムーズに進むだろうと思えた。

そういう方向で考えると、明日の打ち合わせは病院で行うべきだろう。

 そのことよりも気になったのは、4万字を書き足すことだった。

何をどう書き足そうか。

日記に書いていないデイビットとのエピソードはたくさんあるが、どれをどう引き出すか。

もちろん、吉田さんに見せた文章は単なる日記であって、書物にふさわしい書き方でもなく、当然修正が大幅に必要だ。

今ある文章から削ったり付け足したり、そういう作業が今後必要になっていく。

その全てを今私が考えて構成すべきでないことは理解しているが、どの部分を切り取ろうか、付け足そうかと無意識のうちに考えてしまう。

 “これは、ますます今すぐには死んではいけない状況になった。”

今すぐに死ねない理由をもう一つ自分で付け加え、「ふぅ」と一つ溜息をつく。

―――“何故、自分の本を出版したかったか。”

20代の頃の自分に問いかける。

その答えは、こうだ。

“人は皆、死ぬとすぐに灰になってしまいます。

どんな偉業を成し遂げた人も、どんなに酷い犯罪をした人も、死ぬとすぐに灰になるのは同じです。

そして昨日まで生きていた人も、死ぬと突然灰になって、最初から存在していなかったかのように世の中が動き出します。

それはあまりにも悲しく、無常なのです。

だから、自分の言葉、自分が生きている間に書いたものを残して、この世に存在していたことの証にしたいのです。”

私自身もイメージできている、自分が死んだ後のこの世のことを。

「由紀ちゃんがいなくなって寂しいよ。悲しいよ。」

そう言って泣いてくれる人は、もしかしたら数人いるかもしれない。

しかし、私の死後まもなくその涙は乾き、現実世界の明日へ向かって歩みだす。

いつまでも泣いてなどいない、皆すぐに笑って暮らし始める。

それを知っているからこそ、自分が生きた証を残そうとしたのだ。

私が書いた文章が残っている限り、私の魂はその中にずっと居続けるのだから。

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