第3話 夢
両腕に取り付けられた点滴がようやく外れた後、その夜は断食明けのような食事が出た。
ドロドロの糊状になったお粥、手でちぎったような梅干し。
白湯にうすく味がついたようなほうじ茶も出された。
前回の食事ははたしていつだっただろうかと、思い出そうとしても記憶が定かではない。
この病院に運び込まれてからは点滴を受けていたために、体調はかなりすっきりとして好調だ。
ただ、あまりにも久々の食べ物が喉を無事に通るだろうか。
「無理したり焦らなくていいのよ。ゆ~っくり、口の中で舐めて溶かすだけでもいいんだから、ね。」
夕食を運んできた看護師がそのような言葉をかけていったが、それらを完食できるほど喉や消化器が働いてくれるかどうかのほうが気がかりで仕方なかった。
もはや空腹感はいつだって感じないままで、出されたお粥と梅干しを舌に乗せて少しずつ舐めた。
喉をしばらく使っていないため、食べ物を下へ送り出す力がない。
飲み込む力も欠けていて、いちいち気道などの呼吸器に入り込んでむせかえる。
食事はつらい。
生きていくことは、イコール何かを食べることでもあり、それは今の私には一番つらい作業だ。
“生きるっていうのはつらいことだ。”
たかがお粥と梅干しを食べるだけで、身につまされる。
その夜は時間をかけてなんとか食事を終えることができたが、もうここでは食事を捨てることも拒否することもできず、先が思いやられた。
食べなければ体は回復しないし、回復しなければ病院を出られない。
長期的に休んでしまうようでは職場の自分の席がなくなるかもしれず、それはなんとしても守らねばならない。
勇にも「一週間ぐらいで落ち着くと思うから、その後会おう」と言ってしまった手前、その約束どおり一週間を目途に病院を出なければ。
病院での初めての夕食を摂った翌日、精密検査があった。
精密検査といっても、人間ドックのような内容に胃腸のカメラ検査が加わったものだった。
胃カメラ、大腸カメラと一通り終えたが、結果的に何かの損傷があるわけではなく、「まるで子供の胃腸のように粘膜もきれいですよ。」と検査技師が言うほどだった。
食べ物を消化できずにいるが、それは胃潰瘍や十二指腸潰瘍等のように胃が傷を受けているものではないということだ。
機能性障害。
胃腸はきれいな状態で存在しているが働きが悪いとのこと。
機能性障害のほとんどの原因はストレスらしい。
検査結果が物語るように、やはり私の体調不良の最大の要因はストレスや精神的なものだ。
「羽賀さんの場合、胃腸を見た感じはまったく問題ないんですよね。しかし実際、食がすすまないということでかなりお痩せになっていますし、病院での食事も食べたけれどうまく消化しないみたいでしたね。退院はしても、消化を助けるようなお薬は続けて飲んでいただきたいと思います。」
精密検査の総括をした医師は私にそう告げた。
医師の言う通り、病院での食事は毎回残さずにきちんと完食したが、食後1時間くらい経つと必ず下痢をし、入院中も体重がほとんど増えなかったのだ。
精密検査を受けたときの体重は30.0kg。
もうじき30kgを切ってしまいそうだ。
そのことを医師はかなり気にしている様子で、こう付け加えた。
「羽賀さん、ここに来る前に精神科に通院していらっしゃいましたか?その治療はもう終わったのですか?」
「通院はしたのですが、経済的な事情もあって自ら中断してしまっています。」
事実は違うのだが、経済的な事情だと取り繕った。
「経済的なことがあると通院は厳しいのかもしれませんが・・・羽賀さんの場合は胃腸が悪いのではなくて精神的な要因が大半だと判断していますので、退院された後も精神科の治療をしっかりおこなって頂きたいのです。摂食をすでに敬遠しているような面も見られますのでね。」
この医師は内科が担当だということもあり、精神科にかかわる診断のようなことは明言しないが、接触障害を懸念しているようなニュアンスのことを述べた。
―――摂食障害か。
少なからず自覚はしている。
もしかしたらそういう領域に入っているのかもしれないと。
他人から見てそう見えるのなら、恐らくそれが正しいのではなかろうか。
「わかりました。退院したらまた精神科に連絡をして行ってみます。」
とりあえずここを退院したいばかりにそう言った。
ひとまずは自分の中での予定通りに、一週間以内では退院できそうだ。
計算が狂わずに進んでいることにだけ安堵をした。
医師との話の後、病室に戻ってすぐのことだった。
「由紀?ああ、見つけた。よかった。」
聞きなれた女性の声に驚いて振り返ると、姉の千鶴が病室の入口に立っていた。
「由紀が倒れたことをお母さんから聞いて、ここの病院の名前だけを聞いてたから調べて来てみたの。由紀、ずいぶん痩せたようだけど、今何kg?食べられないの?何があった?」
こちらから一言を発する前に、姉から質問攻めにあう。
「うん、ちょっと仕事のストレスとかもあったからかな。ずっと食欲がなくて。」
まるで他人の噂話でもするかのような言い方で自分の状況をさらりと言う。
それほど一大事ではないというふうにしたかったからだ。
「でも、たった今検査も終わって結果が出たけど、すぐに退院できるって先生に言われたから大丈夫。」
日頃の生活ぶりや食事に関することをあれこれ質問されないよう、とにかくもう大丈夫だということを強く印象づけた。
「そうなの?そう聞けてよかった。ここに来る前よりもずっと安心したわ。・・・そう、お母さんのことだけど、」
「あの人は来られないんでしょ。いいよ、わかってる。」
母のことについて話し始めた姉の口を封じるかのように、そうして言葉をかぶせた。
そして、あえて母のことを”あの人”と呼んだ。
「入院した日に留守電だけが入っていたけど、きっと直接ここには来ないだろうなと思っていたよ。わざわざ来ないよね。大丈夫、わかってるから。」
母は、姉に対しては愛情をかけるが私にはそうではない。
それは私が一番よく知っている。
姉からこれ以上母の無駄な情報を聞かされたくなく、「わかった、大丈夫。」の一点張りで話に蓋をするようにバサバサと切った。
姉と長時間一緒に過ごすと、また母の話を持ち出されそうで嫌な予感がする。
そんなことを思った瞬間、棚に置いたスマートフォンにメールが届いた。
マナーモードにしていてもバイブがブッブッブッと音を出し、そこに立っていた姉も私のスマートフォンに目をやった。
それまでの姉との話の流れ、雰囲気を変えたくて、姉に遠慮なくスマートフォンを手に取って見る。
「メールだった。」
「仕事の人?お友達?」
「ん?・・・勇。」
少し戸惑った後、正直に告げた。
姉は巨大な空気の玉を一口で飲み込むかのような大きな深呼吸をした。
「勇って・・・あなた、まだあんな人と・・・付き合っているの?どういうこと?」
元夫・勇と姉は以前に大喧嘩をしたことがある。
父が亡くなったときの葬儀のことで、姉が一方的で強気な発言をしたために勇が腹を立て、年下ではありながら勇が姉をたしなめるようなことを言い、醜い争いになった。
当時、私はまだ勇との婚姻中だったために、夫である勇の肩を持つしかなく、姉とはそれから数年疎遠になってしまっていた。
勇と離婚したのを機に、姉とはまた少しずつ縁を取り戻せたが、あのまま結婚生活を続けていたなら今も姉とは疎遠なままだったろう。
ゆえに、姉の心理を考えたら勇の名前は出すべきではなかったのだが、少しは正直に本当のことを人に話したかったのだ。
「復縁はしていないよ。男女としてお付き合いしているわけではない。ただ、今も近所に住んでいるし、お互いに健康面の心配をしたりして時々連絡をとっているだけ。」
「ふぅん・・・あまり良くはないけど、まあ、気持ちはわからなくもない。それはそれでわかった。」
こちらを向くことなく、目を伏せながら姉はそう言った。
見舞いに訪れてくれたことに礼を言い、その日は当たり障りなく姉と別れた。
その後、脳裏をかすめたのは勇のことだ。
私の中では婚姻中よりも今現在の勇との関係がとても良いものになってきており、今からの二人ならこれまで手に入れることが出来なかった幸福をつかめるのかもしれないという感触がある。
姉と勇との諍いは昔のことで、それなりに時が経てばまた何事もなかったかのようにも出来るものと想像していたが身勝手な見解だったようだ。
私が都合よく想像してしまっていただけのこと。
実際には人の心理はそれほど甘くはない。
一度受けた不快な思いは、それを根本から排除するような別の何かでしっかり覆さない限り、自然に淘汰されていくことはない。
この病院を退院したら、今の勇とこれからの私とで新たな関係を作っていきたかった。
それが今日現在の、私が生きる糧となっていて、夢へとつながり始めていたというのに。
姉が未だ、あれほど勇を憎み続けている。
それを目の当りにしたら、先行きは暗雲立ち込めていると予測できた。
私の中に新たに咲いた小さな花は枯れ、空に浮かんだ夢はうろこ雲のようにちぎれて散ってしまうのだろうか。
この数分で突然鬱々として、こめかみ辺りに鈍い痛みが走り、それを押さえながら勇からのメールを開いた。
「仕事のほうはその後どう?順調に落ち着いてきた?」
仕事のトラブルでシフト勤務しているという私の状況を気にかけた勇からの言葉だった。
「うん、トラブルは順調に片付いてきたよ。来週末ぐらいには会えると思う。」
もう退院できることは決まっているのだからと、迷うことなく即座にそう返信をした。
それで勇とのその日のやりとりが終わるかと思ったが、さらにもう一通のメールが届いた。
「また元気な由紀に会えると思ったら楽しみだよ。何かいい物を見つけたら買っておくね。」
“いい物”というのが食べ物なのか、何かのグッズなのかはわからないが、その一文を読んだ後は明らかに気持ちがフワッと温かくなっていた。
またクスッと笑って肩をすくめる自分がそこにいる。
―――そういうことの積み重ねを”幸福”と呼ぶのではないだろうか。
その日の夕食の前に、看護師から「退院は4月3日になりましたよ。」と知らされた。
4月3日というのは、あと2日後だ。
病院の食事をその間にしっかり食べ、投薬もしながらあと2日間、退院に向けて準備をしていく。
相変わらず体重は増えなかったが、少なくとも以前よりは力が宿ってきて、心も体も退院への準備をし始めていた。
食事を終えて一息ついた頃、ノートパソコンを片手に休憩室に向かう。
IT技術者として長らく従事していることから、パソコンを何かしら操作することが日常的に欠かせない。
プライベートに仕事を持ち込むためにノートパソコンを使うわけではない。
気になっていることを調べてみたり、ネットニュースを読んだり、安い商品を見つけて買い物をしたり、他愛ない日記をつけるためにも日常的にパソコンを使う。
恐らくほとんどの人がスマートフォンで行っていることを、私はノートパソコンで行っているだけだ。
誰に見せるというわけではなかったが、自分しか見ない日記をずっとノートパソコンに打って溜めてある。
かれこれ20年近くこれを続けているだろうか。
“2018年4月1日(日) くもり”
こうして日付と天候を書き始める。
“一通りの検査が終わって、特にこれといって病気は見つからなかった。2日後には退院できるみたいで一安心。今日、突然姉が訪ねてきて、最初は当たり障りのない会話をしたものの、勇とメールをやりとりしていることを正直に話したら想像以上に怒っていたようだった。”
その日、気になった出来事を思いのままに正直に書きつらねた。
「打つの、すごく速いんですね!驚異的!」
右斜め後ろくらいに座っている女性が突然そう言った。
私に話しかけているのか。
辺りを見回すと、私とその女性以外の人は皆5メートル以上離れているようで、距離的にもこれは私に話しかけたのだろう。
「そうですか・・・自分としては当たり前になっていて、よくわかりませんが。」
話しかけられたことに対して、すぐに嬉しそうに反応しないのが私の特徴だった。
「いや、めちゃ速いですよ!そんなに速く打つ人を初めて見ました!そういうお仕事をされてるんですか?」
“そういうお仕事”という言葉もこれまたザックリとした一括りだと思いながら、
「ええ・・・まあ、IT関係です。」と短い言葉で切っていく。
「今打っていらしたのはお仕事関係のことですか?邪魔してしまっていたらごめんなさい。」
女性はそう言葉を続ける。
「いいえ、仕事ではないんです。思いついたことをこうして打って残しておくのは趣味の一環で。」
「何を残しているんですか?文章ですか?」
「はい、まあ、そういうものです。」
「文章って、どんな内容ものですか?ブログとか?」
「いいえ、ブログではなくて。そういう、人に見せるものではなくて、自分しか見ないものというか。日記みたいなものです。」
「完全非公開なんですね?」
「・・・そうですね、自分しか見ないので非公開です。」
会話に少しだけ間ができ、二人とも肩でフフンと笑い合うような仕草をした。
「あぁ、私急にこんなにバーッと話しかけてしまってごめんなさい。何かと思いましたよね?」
その女性はアハハと笑い出した。
年の頃は40歳くらいだろうか。
少し痩せ気味だが、目はくっきりとして力があり、長く伸ばした髪を無造作に後ろで一つにまとめているのも粋な感じがした。
「あら、名刺持ってたかしら?あった、あった。私、こういう者でして、月刊誌の編集の仕事をしているんです。あ、今は入院しているので一時的に休んでいるんですけど。」
“月刊しらかば 編集担当 吉田ひかる”
女性が渡してきた名刺にはそう書いてあった。
“月刊しらかば”は、地元では有名な文芸雑誌だった。
幼少期から文章を読み書きすることが何より好きだった私は、20代の頃に小説家に憧れ、東京の大手出版社に自分が書いた拙い短編小説を送り、売り込んでいた時期もあったと思い出す。
50歳を過ぎた今は、そんな夢物語を語るのも恥ずかしく、そのエピソードは彼女に話すまいと考えた。
「私、人の日記っていうものにすごく興味があるんですよね。特に”人に見せない”っていうところに魅力を感じるんです。わかります、見せたくないから非公開なんですよね?それは重々承知なんですが・・・少しでもいいので、一度見せていただけないかと。」
吉田さんは私の顔を下から覗き込むように伺ってきた。
「う~ん・・・それはやっぱり困ります。人に見せるつもりではなかったので、当然実名も出てきますし、毒になることも書いてしまっていますし・・・。」
「恥ずかしいですか?」
単刀直入にそう聞かれた。
「”恥ずかしい”だけではないです。個人情報のことや、プライベートの侵害とか、コンプライアンス的な要素のことが気になっています。」
「私しか読みませんから。そして、私は絶対に口外しないと約束しますから。」
目を固く閉じ、顔の前で手を合わせて拝むポーズをし、吉田さんは「どうか、お願いします!」と繰り返している。
「一部分だけなら、いいですよ。」
その言葉が口をついて出て、そんな回答をする自分がいたのかと自ら驚いた。
デイビット・ワイズの詐欺の話の部分なら、吉田さんに見せてもいいかと思ったからだ。
詐欺で捕まるような犯罪者にプライベート侵害もコンプライアンスもないだろうと。
デイビット・ワイズの話については、日記にすると30ページはあった。
紙のノートに換算すれば一冊分くらいにはなるだろうし、読みごたえもそこそこあるはずだ。
吉田さんは目を皿のようにして食い入るように読んでいた。
目の動きが読むスピードを表しており、それは凄まじい速さだった。
「ひとつ聞いていいですか?」
読み続けている吉田さんが言葉を発した。
「何ですか?」
「これ、本当に起こったことですか?」
「はい、日記ですから、事実です。」
「え?詐欺に遭ったんですか?」
「はい、そうですが。何か?」
「え~っ!どうしてそんなに淡々としているんですか?被害届とかは出しました?」
「出していません。騙しとられたお金はもうどうやっても戻ってこないそうです。それはもうわかっていることですし、馬鹿な私の勉強代としてその事実は受け入れていこうと思っているので。」
苦笑いをするほどの余裕を見せた私に、吉田さんは「え~っ・・・」と繰り返している。
「あの、非常に申し上げにくいんですけど・・・これ、本にしませんか?」
吉田さんは急に声のトーンを変え、早口でそう言った。
「はい?」
今度は私が慌てて聞き返す。
「”国際ロマンス詐欺”というんですかね。そういう被害に遭った人は日本でもかなりの人数がいると言われていますが、犯人が海外にいる場合、日本では捕まえられないという実態があるのと、騙しとられたお金が戻ってこないとわかると泣き寝入りする被害者が圧倒的に多いそうで、明るみに出ていない件数はかなりの数にのぼると思うんです。だからこそ、そういう事実を生の声として書籍化できたらと思いまして。」
そう言われると、確かに実際の被害者の声は興味深い内容かもしれなかった。
個人的な日記が書籍化されるのであれば、恥ずかしさとコンプライアンス問題が浮き彫りになるが、詐欺事件の実態を題材にするのなら、そういった悩みからも解放されそうだ。
そして、20代の頃にかすかに夢見た小説家とまではいかなくとも、自分のエピソードが書籍になるというのは長年の夢が叶えられそうなことでもある。
「そうですね。それならいいかもしれませんね。」
手放しで喜ぶのではなく、大人の反応として冷静に淡々とそう答えた。
「あ、ところで、お名前をまだお聞きしてなかったんですが、教えていただいてもいいですか?」
そういえば吉田さんにまだ自分の名前を伝えていないまま、これほど込み入った話を進めていた。
こんなに発展的な話を進めた上で、「名前は教えられない」という人など皆無だろう。
「羽賀由紀子といいます。」
「”ハガさん”ですね。会社のほうには今日すぐにでもメールしておきます。もう絶対すぐにOKの連絡がくると思いますので、その回答がきたらまたハガさんにすぐご連絡しますから。」
40歳くらいのキャリアがある人なのだから、職業的な直感は確かなのかもしれないが、会社が確実にOKの回答をしてくると言い切れるのは凄いことだ。
もしかしたら、その会社からの回答によっては「やっぱりごめんなさい。あの話はボツになりました。」という展開も充分あるだろう。
期待しすぎずに待つことにする。
例えボツになっても私の夢の扉はほんの少し開かれたことに変わりないのだから。
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