第4話 希望
昨夜は意識が朦朧とする中、フローリングの冷たさに頬を押し当てて、たびへの手紙を書き上げた。
“書いてどうするというんだろう。”
自分のした行動が疑問でならなかったが、たびに対する今の思いを放出すべく書き記したかった。
たびへの手紙を書いたあと、また色んな思いがこみ上げては涙をぬぐい、
「死にたくない。まだ死にたくないよ。」
初めて、そんな言葉をはっきりとした口調で一人つぶやいた。
気のせいだろうか、たびが困り果てた顔でションボリとしてこちらを見ていた。
眠ればまた気分が一新するかもしれないと、そそくさと就寝の準備をして布団に入り、待ってましたと言わんばかりにたびがササッとワキの下に潜り込んできていた。
腕枕で眠ってくれたのは、まぐれではない。
こうして連日、決まったように布団に入ってきて腕枕で眠っている。
なんて愛くるしいんだろう。
またほっこりと温かい気持ちになり、たびに救われて眠りにつくことができた。
そうしてまた、私は今朝も無事に目が覚め、どうやらまだ生きていられるようだった。
昨日も食事らしい食事などしていない。
夕方、母のところを訪ねたときには、ファミリーレストランでできるだけ何かを食べるつもりでいた。
少なくとも、自宅を出発した頃にはそう思っていたのだ。
しかし、どうしても食べ物に対して嫌悪感が出てしまう。
食べ物のにおいを嗅いで食欲が増すどころか、余計に吐き気がしてゲンナリした。
そうしていつも食べられない日々を繰り返してしまっている。
母と一緒に食べたものは、バニラアイスクリームとコーヒー。
食事ともいえないものなのに、それさえも帰宅後に嘔吐してしまった始末。
このままでは本当に体が持たない。
眠るときにも眩暈がして天井がクルクルと回ったまま、気持ちが悪くなって目を閉じる。
そして目が覚めたときにも、結局また同じように天井はクルクル回り続けている。
睡眠をとったからといって、何も回復などしていないのだ。
まだカップ麺の焼きそばについていたスープがあるはずだった。
スープであれば舐めるようにして少しずつ入っていくかもしれない。
アイスクリームも舐めるように体に入っていくからと思い、何度も口にしているが、冷たさによって下痢を誘発するのか、食後には決まって下痢と吐き気にさいなまれた。
またマグカップを手に取り、粉のスープを無造作に入れる。
少しだけお湯を注いだら、カップをゆらゆらと揺すってうまく混ざるようにする。
もうスプーンで混ぜることも、使ったスプーンを洗うことも面倒で、使おうとしなかった。
焼きそばについているスープはサラサラとした口当たりで具が入っていない中華スープだ。
カロリーにしたら、30kcalもないのではないだろうか。
それをうまく飲むことができて、消化したからといって、それだけで果たしてどのくらいの体力がつくものか。
勇にもらったスープ類やレトルトのカレーを、あの時捨てなければよかった。
今さらそれを後悔する自分がまたさらに愚かさを浮き彫りにした。
スープなら飲めるとしても、もはやスープを買いに行くことが難しいほどに私の体力は失われているというのに。
なんとかスープを一杯飲むことができ、少しだけ体温が上昇したようだ。
そして、昨日5年ぶりに再会した母のことを再び思う。
一昨日、身近な人たちに宛てて手紙を急いで書き上げた。
その中にはもちろん母への手紙もあった。
だが、昨日再会することができ、長きにわたる私の心の中のわだかまりはもう晴れた。
昨日母からあの言葉が聞けたこと、私の体調を心配して「お母さんが何か作りに行こうか」と最後に声をかけてくれたことだけで帳消しになったのだ。
一昨日に書いた母への手紙を、今から読まれるとしたら、もう内容が意図しないものになる。
書き直したい。
書き直さなければいけない。
スープで少しだけあたたまった体を起こして、母への手紙だけを書き直しはじめる。
それと、まだこうして書く体力があって意識がしっかりしているうちに、追加原稿を書いてしまわなければ。
まだ仕事復帰の日まで、今日と明日2日間の休みがある。
その間に書いてしまわなければ、そろそろ体力が危ないだろう。
スープであたたまったように思えても一瞬のうちに冷えてくる。
体脂肪が減り、特に30kgくらいになってきてからは常に手足が冷えてどうしようもない。
お湯にしばらく浸けないと指先に血が通わず、パソコンを打つにも指が固まってしまい、ましてやペンなどはまったく握れなかった。
それに指先もしびれているのか、手の感覚がなくなりかけていて、よく紙の端で手を切ってしまう。
足先も冷えていて、靴下を2枚、3枚と重ねても冷えはとれなかった。
靴下にカイロを入れても、温かいかどうかさえよくわからなくなってくる。
本当に、生きた人間じゃないみたいだ。
そう思いながら、強引に手を動かして原稿を書き進めた。
デイビットとの過去のメッセージを読み返すことは憂鬱この上なく、だからといって、それらの資料を読まずには原稿も書けない。
思い出したくない過去として、もう私の脳内からはほとんど消え去っており、脳内記憶装置にはインプットされていないからだ。
いずれにしても原稿を早く書き上げてしまわなければ、このデイビットとのメッセージを何度も読み返すことになってしまう。
憂鬱なことを早くやめるためにも、一刻も早く書かなければと。
可能なかぎり、その当時の自分の心境を思い起こし、メモにポイントを書き留めたりしながら執筆していく。
A4の大きさの文書で、あと32ページ書ければおおよそ3万2千字だ。
1ページを書くごとにカウントダウンするように自分を鼓舞した。
朝から夕方近くまで机に張りつき、なんとか28ページまで書き終えることができた。
―――あと4ページ。
そう思うも、一度手を休めると疲れがドッと押し寄せて眩暈が戻ってくる。
そんなときだった。
“羽賀様
お世話になっております。月刊しらかば編集担当の橋本です。
こちらの書籍化の件ですが、印刷製本がスケジュールでは10月1日から開始です。
そちらにつきましては当初の予定どおりでございます。
また、発刊予定日を「10月後半」とお伝えしておりましたが、詳細が決定致しまして、10月20日になりましたのでお知らせ致します。
追加原稿のほうは進捗状況いかがでしょうか。
1ヶ月間とまだ余裕がございますので、是非とも羽賀様渾身の作品に仕上げていただけますと幸いです。
引き続き、宜しくお願い致します。”
橋本さんからのメールが届いた。
書籍化の話は当初から嘘だとは思っていないが、途中で頓挫してしまうことはあるのではないかと思っていた。
しかし順調に進んでおり、印刷製本の予定も狂うことなく、発刊予定日が決まってきた。
こうなったら、あとは私の追加原稿も嘘偽りなく出さずにいられない。
橋本さんへのメールの返信を書くよりも先に、「ハアッ」と掛け声のように息を大きく吐き、ガッツポーズをするような動きで上半身を動かしたあと、再び原稿の執筆に取り掛かった。
―――あと4ページ。4千字。
息を止めるような集中力で手を動かし続け、一気に書き上げる。
「フーッ」
1時間弱で書き終え、それとともに大きな一息をついたら、たびが威嚇されたと勘違いして毛を少し逆立ててこちらを見ていた。
なんとか書き終えてミッションを完了した。
吉田さんと橋本さんに宛てた手紙のとおり、この大切な原稿は見落とされることがないように印刷して、手紙と一緒にわかりやすく机の上に常に置いておこう。
“月刊しらかば 編集担当 橋本様
お世話になっております。羽賀です。
発刊予定日決定とのご連絡をいただき、誠に嬉しく拝見致しました。
また本日、追加原稿の4万字のほうもさきほど書き終えることが出来ましたので、取り急ぎ電子ファイルで添付させていただきます。
念のため、紙に印刷したものも追って郵送させていただく予定です。
ひとまずは執筆を無事に終えましたこと、ご報告させていただきました。
引き続き、宜しくお願い致します。”
橋本さんへのメールの返信でお礼を述べるとともに、追加原稿執筆完了の報告ができて何よりも安堵した。
電子ファイルで送信し、紙でも送って自宅にも予備があれば間違いないだろう。
私の大きなミッションは終わったのだ。
橋本さんへのメールを送信するときに、スマートフォンがメールを受信した。
スマートフォンのメールアドレスのほうに来たのは、橋本さんからではないのがわかる。
すれ違いのメールにならないことには安心しながら、届いたメールを開いた。
勇からのものだった。
“由紀、週末どう過ごしてる?ゆっくり休めている?
もし忙しくなくて、家にいるようだったらひとつ俺から提案があるんだけど。”
そう書いてあった。
提案とは、勇からはあまり聞いたことがない言葉だったが、一体何だろう。
“いままで少し用事があったけど、もう終わったところだよ。
体はまぁまぁ休めているかな。でも明日も休みだから大丈夫。
提案って何?私は家にいるし忙しくないから大丈夫。”
そのメールを送るやいなや、1分としないうちに即座に勇からメールの返信がきて、
“ビデオチャットしてみない?”
それだけが書いてあった。
“いいよ。やってみようか。”
返信を送ったら、SNSツールのビデオチャットで着信がきた。
勇とは初めてのことだった。
音声がクリアにつながる前に、勇の顔がカメラに映し出され、少し疲れているのか頬が垂れ下がって見える。
かくいう私はというと、最後に勇と会ったときよりもさらに痩せていることが明らかで、特にこの3日間は食べても嘔吐してばかりな上に原稿執筆に躍起で、酷い顔をしているはずだ。
痩せた上に疲れてもいて、ミイラみたいな顔になっているかもしれない。
突然勇に顔を見せて話すことになるとは想像もしていなかったので、何の準備もできていなかった。
不意打ちは本当にずるい。
「よぉ、由紀。元気かい?」
二人で初めてするビデオチャットに何だか照れて、互いにハハッと笑い飛ばす。
「うーん、ご覧のとおりでね、ちょっと疲れてるかも。」
「・・・由紀、またさらにすごく痩せてるけど、本当に大丈夫?病院に行かなくていいの?」
“病院には行かなくていい。何しろ退院したばかりだから。”
という事実は言えるはずもなかった。
「仕事の疲れもあって、また食べれてないから痩せているんだけど、明日一日ゆっくりするから元気になるよ。」
誤魔化しと嘘でしかなかったが、そう答えるしかなかった。
その話題が続かないようにと、別の話に自ら切り替える。
「勇は、今出張先でしょ?どうして急にビデオチャットをしようと思ったの?」
「出張先だよ、東京。4月だけど東京はもう暑いね。北海道民だからかな、暑く感じる。こっちは桜が満開で由紀にも見せたかったよ。・・・あぁ、ビデオチャットだけど、今週末本当は由紀と久しぶりに会えるはずだったでしょ、俺の出張が急に入らなければ。そう思うとね、やっぱりこの週末に顔を見て話したかった。それだけなんだ。」
本当にそのとおりだった。
本来ならばこの週末は勇と久ぶりに再会して話ができるはずで、退院するときにはそれが目先の一つの楽しみだったからだ。
勇の率直な言葉と、まっすぐにカメラを見て話す姿勢が心を揺らした。
「4月10日にまたそっちに帰るからさ、そうしたら本当に会おうね。由紀、それまでにちょっとふっくらして元気になれよ。」
カメラに向かってグータッチをする勇の仕草をみて、絶対に泣かないようにとこらえてグータッチをずっとカメラに押し付け、こちらの顔が映らないようにした。
「じゃ、そろそろ切るね。ゆっくり休んでよ。またね。」
明るい声で話しかける勇に、涙が見つかってしまわないように「うん、それじゃあね。」と威勢よく言い放ち、ビデオチャットを終えた。
今までの交際期間中も、婚姻中も、勇とこれほど心が通い合い、互いを求め合っているような会話はしたことがなかった。
私の生命がかなり危うくなっていると感じるここ最近になって、こんなに温かい関係になれるとは。
世の中には皮肉なことのほうが多いのかもしれない。
勇が帰ってくる4月10日に元気な顔で会えるのだろうか。
今の私には明日のことさえ遠く感じ、確実なことなど何も言いきれない。
―――そんな私の今の希望は、”まだ生きたい。元気になりたい。”
こんな状態になった今、そう願うのはすでに遅すぎた。
食べたい、食べられるようになりたい。
しかしそれとはうらはらに、体が正直に求めることは”もう何も食べたくない。”
食べないほうが楽だ、楽にさせてほしい。
二つの希望のはざまで葛藤を繰り返す。
たびとこれからも一緒に暮らしていきたいこと、これは確かだ。
勇との復縁の中でそれが実現できたなら、それは夢でもあり一番の希望だ。
希望はシャボン玉のようにパチンと割れ、最初から無かったように空に消えてしまうのだろうか。
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