第6話 拒絶

 元夫である勇がせっかく差し伸べてくれた手を振り払うようなことをし、人の温かみ、厚意そのものをすぐにゴミ箱へ放り込むような自分はやはり生きている価値などないとつくづく思った。

勇から受け取った食べ物の数々を再びゴミ箱から拾い上げることもなく、2日が過ぎた。

断食明けの状態でアイスクリームやいわしせんべいを思いのままに胃に詰め込み、脳貧血のような症状で倒れこんだのはちょうど一週間前の出来事だ。

消化することに体内の血液を使われすぎ、一時的に脳に血液がまわらなくなったのだが、結果的にはそれだけではなく、その日から2日間は酷い下痢に悩まされた。

それまで6日間も休ませて空き家になっていた胃袋に、予告もなしに食べ物を次々と押し込んだのだから、胃腸の準備がやはり整わず受け入れられなかったのだ。

形にならない、水のような下痢が延々と続き、既に腸が空っぽになっているような状況でも横腹の痛みが時々襲い、数滴の水のような便を出すために何度もトイレに籠った。

“これほど酷い腹痛に襲われるなら食べなければよかった。”

食べないまま過ごしたほうが楽だったかもしれない。

そのまま楽に死へ近づくことができただろうに。

 その下痢の後は当然のごとく以前にも増して食欲を失い、勇が宅配ボックスに食べ物を置いていってくれた日も朝から何一つ食べずに過ごしていた。

本来ならば空腹でいて、それほどのご馳走を思いがけずプレゼントされたなら、何も深くは考えずに無計算でそれらの食べ物に片っ端から手をつけるだろう。

そうであるなら私はまだ健康だと言えるのだろうが、まったくそんな気配すらない。

もう食べ物に興味もなく、口へ運ぶことにも嫌悪感すら芽生えており、本格的に体が壊れているように思える。

あれから結局一週間も飲まず食わずでいるというのに、一向に空腹にならないのが不思議だ。

すでに私の体は何も食べずにいるほうが楽なのかもしれない。

それならそれでもいい。緩やかに楽に死に向かっていけるなら。

勇が与えてくれた数々の食べ物は一切口にしていないのだから、勇からは当面連絡がこなければいい、むしろそうしてくれたほうが助かると内心思っていた。

 そんな矢先に一通のメールが届いた。

“由紀、あれからどう?置いていった食べ物はどれか食べたかい?前よりも少し元気になっていればいいな。”

勇から連絡がこないことを祈っていたにも関わらず、そういうときに限って勇からだった。

彼が2日前に宅配ボックスに置いていった食べ物を私が食べたかどうか、そしてその感想を聞きたいのだろう。

すぐには返事をせず、どうすればうまく誤魔化せるかを頭の中でグルグルと考えた。

「食欲がなくてまだ一つも食べていない」と答えたとしたら、まだここにあれらの食べ物がまるまる残っていることになり、下手すると「じゃあ、今からそっちへ行くから一緒に食べよう」と勇に言われても困る。

「全部食べた」と答えたとしても、「あのカレーの味はどうだった?このスープは?」などと細かく味の感想を問い詰められたら困る。

「全部人にあげてしまった」と答えたら、それは勇をあまりにも傷つけるだろう。

一通りの答えを考えた挙句、私が勇に送ったメールはこうだ。

「眠れないときがあったから、部屋でお酒を飲んで、その後にもらったカレーやスープを食べたよ。」

そう答えれば、味をしっかり覚えていなくても「酔っていたから味をよく覚えていない」という言い訳をしても違和感がないだろうと。

次に勇から返信がきたら、カレーやスープの感想を聞かれるかもしれないと予測し、その答えのパターンまであれこれ考えていた。

だが、すぐに届いた返信は「今、家にいる?」という、それまでのやりとりとは脈絡のない内容だった。

“一体何なんだろう。”

そう思いながら、「いるよ。」と素っ気なく返した。

 ほどなくして、マンションのエントランスからのインターホンが鳴った。

インターホン前のカメラに映し出された姿は勇だ。

何故また急に訪ねてきたのかはわからないが、「家にいる」と返信してしまった手前、居留守も使えない。

無言のままロックを解除してオートロックを通した。

部屋のチャイムが鳴り、ドアの外に向かって「開いてるよ」と答えた。

「この時間なら家にいるかなぁと思ってさ、急だけど来ちゃった。」

衣服にかすかに外気のにおいを漂わせながら、勇がそう言って苦笑いをした。

「あげたやつ、ちゃんと色々食べてくれたんだね。よかった、よかった。食べたら元気になるよ、絶対。」

彼は今、純粋に私の体のことを気にかけてくれているだけなのだろう。

数日おきに、これほど頻繁に突然訪ねてくるのはおかしい気もするが、彼には真っすぐな心がある。

単に心配だというだけで、ここまでしてくれるような人ではある。

「ちゃんと食べてるよ。大丈夫。」

気だるさが残る中、できるだけハキハキとした口調でそう答えたつもりだった。

だが、そういうつもりだったのは私の中でだけかもしれない。

「・・・ん?本当?本当にちゃんと食べてる?」

一度は私の顔から目を離した勇が、二度見するように再び私の顔に目を戻して、今度はじっと見つめながらそう聞く。

「ちゃんと食べてるって。どうして?」

むきになって答える。

「だって、由紀、何か変だよ。こないだよりまた痩せてるみたい。目がますますくぼんでる。今、何kg?」

勇は疑って矢継ぎ早に問い詰めてくる。

「体重?知らない。計ってないから。」

ぶっきらぼうに言った。

優しいのはありがたいが、もう放っておいて欲しかった。

「もうすぐ死んじゃいそうだし、ガリガリすぎておかしいよ。病院に行ったほうがいい。」

私が痩せたこと、食べていないことに関して口を出されるのは本当にイヤだ。

相手が誰であろうと我慢がならない。

“うっとうしい”

そういう言葉しか思い浮かばなかった。

体重を計っていないと言ったが、そんなのは嘘だ。

本当は今の自分の体重を知っている。

―――今朝は34.0kgだった。

日々着実に減っていっていることも知っている。

だからこそ勇には言えなかった。

34kgなどという体重は、小学生の頃以来見ていない。

体は薄っぺらく、少し強い風が吹けば勢いに負けて歩けなくなる。

自分の体の異変は自分が一番よく知っているが、もうこのまま死に向かわせて欲しい。

「病院に行ったほうがいい。いや、今から一緒に行こうか。」と、勇がまだ言い続けている。

あまりにもしつこく、私のやりたいことや望むことを妨害されているような気がして、ついに言った。

「もう放っておいて!自分のことは自分で出来るからいいの!もう帰って!」

 「俺は由紀のことが心配で・・・」と、勇はまだ言葉をつないでいたが、彼を強引にドアの向こうに押し出し、部屋の鍵をかけ、ドアロックまでした。

閉めたドアの向こうで勇が悲しげに何かを言っていたが、どんな言葉を言ったのかも知りたくないし、聞きたくもない。

玄関を部屋を仕切るドアも全て閉めて、勇の声はできるだけ聞こえないようにし、部屋の奥で布団にくるまって丸くなった。

悪いことをしているのは分かっている。

しかし、もう誰も私に意見をしないで欲しい。

もう誰も何も言わないで、このまま予定どおりに死なせて欲しいだけだ。

勇の声が聞こえなくなったと思ったら、すぐにメールが届いた。

誰からのメールかは、もう確認しなかった。

きっと勇だろうと推測できたからだ。

メールのタイトルや本文の冒頭すら視界に入らないように、スマートフォンの電源を長押しして強引に切った。

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