第5話 不義理
「由紀、今どこ?家にいないの?ちょっとした手土産を渡そうと思って近所まで来たよ。またかけるね。」
留守番電話サービスにメッセージを録音している声がかすかに聞こえる。
メッセージの主はどうやら勇のようだ。
数時間前に見ていた夢の中の殺人鬼のような勇は現実にはいない。
片手に持った包丁をふりかざすような勇は間違っても現実に存在しないということに今は安堵感を覚える。
私は手元にあった食料を闇雲に突然胃袋に詰め込んだ結果、脳貧血のような症状に陥り、床に顔を伏せたまま起き上がれずにいた。
猛烈な眠気に襲われているような、頭がフワフワとして定まらないような感覚だ。
“断食明けに無謀な食事をしたからといって、脳貧血で死んだ人は恐らくいないだろうから、私もきっとこれが原因では死なないだろう。”
そんなことをボンヤリと思いながら、冷たい床に顔をつけたまま頭に血が巡り始めるのを待った。
勇と離婚して5年が経つが、彼は未だに結婚時代に二人で借りた家に住み続け、自宅と最寄り駅とを行き来する途中、時折手土産を持って私の家に立ち寄ったりすることがある。
「今日、近所のスーパーで少し変わったものを見つけたから買ってきた。」というときもあれば、「今日は一人で小樽に行ってきたから小樽のお土産をあげる。」というときもあり、なんだかんだと言っても別れた元妻のことをいつも忘れないでいるのかもしれない。
“あいつ、いい奴だな。”
結婚生活には失敗し、すでに別れた相手ではあるが、それでも今もなお勇と結婚したこと自体は良かったと思える。
彼はいい男だ。私たちは夫婦としてうまくいかなかっただけ。
自分が結婚相手として選んだ唯一の人物が、良い人柄の持ち主であることを再認識するとともに、そういう男性と一時期でもペアになれたことを誇りに思う。
勇との結婚生活においては、数々の不満を持ったりもした。
挙句に、職場で知り合った鳥羽と浮気をしたりして、少なからず勇のプライドも傷つけてしまった。
今思えば鳥羽など一つも良い男ではなかったのに、何故あんなに心を寄せたのだろう。
離婚後に初めて、再びまた誰かと恋をしようという気持ちになれたとき、外国人の愛情表現の豊かさで自分はこれまでにない幸福を得られるんじゃないかと思ったが、それも虚像だった。
写真の中だけに存在していたデイビット・ワイズというアメリカ軍人は偽の将校であり、その正体は西アフリカの犯罪集団の一人だったではないか。
詐欺師と数か月にわたってメッセージで愛を語っていた自分があまりにも愚かで情けなくて哀しい。
毎日囁いたあの愛が嘘だっただけではない。
事実、私は150万円も騙し取られた。
地獄に堕ちるべきそんなクズ男に比べたら、勇は天上人ではないか。
まったく比べ物になどならない。
ボンヤリしていた頭がようやくクリアになり始め、床の上に寝転んだ体勢のままスマートフォンを手に取り、寝返りを打った。
先ほどの留守番電話を聞いてみる。
勇だということはわかっていたが、メッセージに残した言葉をはっきりと耳の近くで聞きたい。
「由紀、今どこ?家にいないの?ちょっとした手土産を渡そうと思って近所まで来たよ。またかけるね。」
やはり先ほどかすかに聞こえていた内容となんら変わりはなかった。
今改めてメッセージを再生して少しわかったことは、外を走る地下鉄の音が勇の声の後ろから聞こえること。
このくらいの地下鉄の走行音は、まさに私の家のすぐ下あたりだろう。
彼は私の家の下まで来て、手土産を渡そうとして電話をくれていたのだと推測した。
メッセージの内容は先ほど聞いていたものと何も変わりなかったのに、背後の地下鉄の音が聞こえたことによって、勇が電話をかけたときのシチュエーションが想像でき、胸が苦しく切なくなった。
溢れはじめた涙をぬぐいながら、勇に電話をかけた。
「もしもし、勇?ごめん、ちょっと突然居眠りしてしまっていて、電話に出られなかった。」
事実がまるごと嘘にはならない程度に、虚飾して言い訳をした。
「そうなんだ?家にいたんだね。寝てたっていうけど、具合悪いわけじゃないの?大丈夫?」
電話に出られなくて申し訳ないことをしたというのに、勇は体調を気遣ってくれている。
労いの言葉があまりにも優しく、私の心には辛くなるほど締め上げる。
「具合悪くないよ、大丈夫。」
泣いていることが勇にわからないように、涙声にならないような声のトーンで言った。
「今からでもよければ、渡そうと思っていた手土産を持って行くよ。」
勇は今から再び来ると言う。
電話では泣いていることを隠せたが、今から会いに来たならそれがばれてしまうだろう。
そんなことも頭をよぎったが、勇の言葉があまりにも温かくて嬉しく、人に優しくされたくて
「うん、今からなら大丈夫。起きているから。」
即座にそう答えていた。
電話を切ってから5分後、インターホンが鳴った。
マンションのエントランスを映すモニターには勇の姿があり、すぐにロックを解除する。
部屋のチャイムが鳴り、ドアを開けると勇が立っていた。
「こんばんは、これ持ってきたよ。」
軽くおどけた顔をしながら勇がビニール袋を手渡してきた。
「わ、何これ。食べ物がいろいろ入ってる。」
つい先ほどまで泣いていたとは思えないような、ふざけたリアクションをして見せた。
中に入っていたのは、濃厚たまごのプリン、フルーツ寄せゼリー、一口チョコレートの詰め合わせ、いわしせんべい一袋。
少し前に半袋を一気に食べ、脳貧血になって床に倒れこむきっかけとなったいわしせんべい。
それとよく似たいわしせんべいを、また勇がくれた。
そんなエピソードを話せるわけもなく、「こんなにいろいろたくさん、ありがとう。」と礼を言う。
「由紀、こないだ会ったときより随分痩せたんじゃない?本当に体の具合は大丈夫なの?」
顔を覗き込むように勇が言う。
「うん・・・最近ちょっと食欲がなくて、食べられない日が続いたから痩せたかも。」
6kg痩せていたことを自覚しているのに、「痩せたかも」などという言い方をした。
「俺がいままで知っている由紀とは別人みたい。こんなに痩せた顔は見たことなかったな。以前くらいには体重を増やしたほうがいいよ。」
彼は心配をしてくれているようだった。
「あ、そういえば来月由紀の誕生日じゃない?何か欲しいものないの?」
「何もいらない・・・欲しいものはない。」
「何もいらないって言うなら、俺の勝手なチョイスで食べるものを色々買ってくるよ。だって、由紀にもう少し太って元気になって欲しいから。」
心底、欲しいものは何ひとつ無かったのだが、痩せた私の顔を見て彼は食べ物をプレゼントしたいと言う。
手元にあるこの食料がなくなったら死のうと思っていたというのに。
それから5日後のことだった。
帰宅して1時間ほど経った頃、勇からメールが届いた。
“由紀のところの宅配ボックスにプレゼントを入れたから、なるべく早く受け取ってね。”と書いてあった。
“なるべく早く”という言葉は、それが食べ物であることを表しているように思えた。
階段を下り、宅配ボックスを見に行くとデパートの紙袋が入っていた。
中には勇の手書きで、”よかったらこれ食べて元気になってね。”というメッセージが添えられている。
高級レストランのお持ち帰り用レトルトカレー、ポタージュスープの詰め合わせが入っていた。
私の誕生日は来月だが、それより早く私に食べ物を与えたいために急いだのだろう。
勇の気持ちは痛いほど心に沁み、何も言葉にはならず、紙袋を抱えたまましゃがみこんで泣いた。
階段を再び上り、部屋に戻るやいなや、勇がくれた紙袋ごとゴミ箱に捨てた。
それを機に、手つかずのままだった2日前のプリンやゼリー、チョコレート、いわしせんべいも、突然思い出したかのように勢いにまかせて一緒に捨てた。
涙を流すほど嬉しかったというのに、何故だろう。
何故、喜んでこれらを食べずに、私はこんなことをするのだろう。
「ごめん、勇・・・。私、食べられない。」
やはり、どうしても死にたかった。
予定どおり、9日後には手元の食料が底をつき、そのまま生涯を終えたい。
元夫が手を差し伸べてくれているというのに、それさえも振り払う。
誕生日プレゼントも、何もいらない。
次の誕生日を迎える前に私はこの世を去るのだから。
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