第4話 覚醒

 一度瞑った目は二度と開けられないまま、左側の頭部に強い痛みが走った。

頭蓋骨が割れたのではないかと思うほど、強くガシャンという音が頭を通して全身の骨に響いた。

―――“ついに私は勇によって殺された。”

深い悲しみと衝撃の中、目が開いた。

頭が酷く痛み、腰や臀部は完全に痺れていて、膝などはすでに感覚すらない。

どうやら私は壁にもたれたままフローリングの床に座り込んで眠り、左にバタリと倒れて頭部を打ち付け、その衝撃と痛みで目覚めたようだ。

開いた目は前が見えないほどに涙が溢れていた。

あまりにも恐ろしいあれは夢だったようだ。

安堵したはずなのに嗚咽が止まらず、大声を上げて泣き喚いた。

“私はこうして無事に生きている。”

それを良かったと思えるのか。

数週間後に死を覚悟している人間が、そんなことに安堵していて良いのだろうか。

 夢の中の出来事だったあのストーリーは、どうりで設定が不自然なはずだ。

日本に土地勘のないデイビットがいくらスマートフォンのアプリを駆使しようとも、札幌市郊外の私の家を探し当てて来るというのは現実的ではない。

地名の漢字だって彼は読めないはずだ。

それに、勇がデイビットの存在を何故か知っていた。

勿論私は勇にデイビットの存在自体を伝えていないのだから、名前や顔を知っているのはおかしい。

ましてやデイビットが詐欺をはたらき、私から大金を奪ったことまで勇は知っていた。

さらに勇は日本語でデイビットに話し、デイビットは日本語を聞くことも話すこともできないというのに会話が成立している不自然さ。

随所におかしな点が散りばめられているにも関わらず、ただただシチュエーションの衝撃性と恐怖感とに翻弄され、疑う余地すらなくなってしまっていた。

相も変わらず自分は愚かな人間だ。

 フローリングに強く打ち付けた左頭部はまだズキズキと痛んだ。

硬い床に長時間座り続けたことによる臀部の痺れは、そうそう簡単に治りそうもない。

時計を見た。

“2018年3月20日(火) 19:12”。

つい先ほどまで眠っていたために灯りがともっていない部屋は真っ暗だ。

臀部や腰の痺れを少しでも軽減させるために床を転げたら、しばらく動いていなかった胃腸が動き出しグルルと鳴った。

一ヶ月前まではスタイルを気にして毎日体組成計に朝晩乗っていたというのに、死を決意してからはどうでも良くなってしまったのか体組成計に触れてもいない。

この6日間、固形物は一切摂っておらず、口にしたのは水とお茶とコーヒーだけだ。

腹部はえぐれたように凹み、衣服の腰回りの隙間が増えてスカスカになった。

今体重を計ったら何kg減っているのだろうか。

計る前から減っていることが明らかにわかり、それだけは少し誇らしい気持ちになれた。

―――“38.3kg”。

最後に計ったときには44kgだったのだから、6kgほど減ったことになる。

身長151cmで体重44kgというのは標準より少し痩せ気味のはずだ。

決して太ってはいないその体型から6kg減った自分の姿は、少しだけ体が薄くなったような気がする。

死ぬ前に痩せてきれいになれるなら喜ばしい。

残りの食料に手を付けずこのまま自分が衰えていくのを待ってもいいと思うが、どうしようか。

酷い悪夢から目覚めた後は、まるで本当に体力を使ったかのように胃腸が動き出し空腹感を覚えた。

“久しぶりに何か食べてみようか。”

何故食べるのか、何のために食べるのか判らないが、理由など考えずに食べてみることにした。

カップ麺の焼きそばや、レンジで温めるご飯があったが、6日ぶりの食事でいきなりそれらを口にするのは重過ぎる。

そのようなしっかりとした炭水化物が体内に入ってくるとは、私の体も予測していないだろう。

想定外に重いものを突然入れてしまうとうまく消化できないかもしれない。

正直なところ、それが怖かった。

ファミリーパックのアイスクリームもある。

口でスッと溶けてしまうアイスクリームであれば胃腸への負担も軽減できるかもしれない。

チョコレートコーティングされた一口サイズの小さなアイスクリームをおもむろに口へ放り込んだ。

冷たくて、甘い。

チョコレートのアイスクリームはこんなに甘かっただろうか。

久々に食べ物を口にしたせいか、味がより濃く感じられるようだ。

強い甘さと、歯にしみるような冷たさが頭に響く。

「美味しい・・・」

誰もいない部屋で、無意識のうちに一人つぶやいていた。

喉、消化器官、胃というふうに、アイスクリームがだんだんと通っていく経路がわかる。

たった一口のアイスクリームで、しばらく眠らされていた私の肉体が目覚めを迎えたようだった。

“食べ物が来たぞ。食べ物が来たぞ。食べ物が来たぞ。”

皮膚も消化器官も臓器も、髪の毛や爪の先もすべてが呼び覚まされて騒ぎ始めた。

生きるというのはこういうことなんだ。

感覚的にそれを思い知った。

体が稼動しだし活性化されてきたら、少し力が湧いてきたように感じた。

たった一口食べただけで元気が出てきたのが突然楽しくなり、アイスクリームをまた一つ口に入れた。

満腹感は一向に訪れず、次々と口に運び続け、気が付くと10個のアイスクリームを食べていた。

一口サイズのアイスクリームとはいえ、6日間の断食から突然10個も食べるのは無謀すぎやしないか。

しかし、もはやどうだって良いではないか。

私は死を覚悟していたのだから。

どんなに腹痛に苦しもうが、吐き気に襲われようが、知ったことではない。

気の向くままに、思いのままに振舞っていい。

 アイスクリーム10個を食べた後、体に何か異変が起きるのではないかと半信半疑で様子を見た。

3時間経過しても特に異変は起きていない。

“もっと硬い物も食べられるかもしれない。”

アイスクリームを口にしたのを機に、火が付いたように手元の食料を物色し始めた。

いわしせんべいを少しだけ口にしてみる。

甘いタレが塗ってあるいわしせんべいは、噛むと少し硬くてバリバリと音が出た。

物を噛むなんて、しばらく忘れていた感触だ。

「うん、美味しい・・・」

黙って食べれば良いものを、一人で感想をつぶやきながら口へ運ぶ。

いわしせんべいを貪り、気づくと半袋まで食べ進んでいた。

だんだんと顎が疲れてきたのとともに、頭がフワッとして軽いめまいがしはじめた。

6日ぶりの食事だったことに加え、短時間で詰め込みすぎたせいか、胃に血液が集中しすぎているようだ。

意識が朦朧としはじめた。

右手に持ったいわしせんべいを袋に戻す余裕すらなく、そのまま床に顔を突っ伏した。

左手のあたりにあったスマートフォンのバイブが鳴っているような気がする。

ブルブル、ブルブル、ブルブル。

電話を着信したときの鳴り方だ。

誰だろう、電話に出なければいけない。

意識の片隅にそれがあっても、体はすでに言うことをきかなかった。

いわしせんべいのタレがベトベトと右手についたまま、床に崩れてすぐに意識は肉体から離れていった。

主を失ったスマートフォンは淡々と「ただいま電話に出ることができません。」というメッセージ音声を流して応答していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る