第3話 悪夢
屈強な男が5メートルほど先にいる。
短く刈った栗色の髪、太い首や腕、クルクルと巻いた胸毛と腕毛がTシャツから見えている。
笑った表情ではないのに目がとろけそうに甘い優しさを醸している。
身長は180cmくらいだろうか。
一見太っているようにも見えるが、首の太さと胸板の厚さのせいだろう。
上半身の比重が多いために太ってみえるようだが、それはアメリカ人に多い体型だ。
彼はデイビット・ワイズなのだろうか。
写真でしか見たことのない彼に酷似している。
彼は詐欺だったのだから、本物の写真の主は今頃アメリカのどこかで家族とともに穏やかな生活をしているのではないだろうか。
自分の写真やプロフィールが異国の詐欺集団に使われているとは知らずに。
私が知っているデイビット・ワイズは、いわば架空の人物。
私の5メートル先になどいるはずがない。
デイビットに酷似した男に近づいて話しかけたもう一人の男がいた。
170cmほどの背丈、ふくよかな体型とよく通る声の持ち主。
とても良く知っている後ろ姿、どこか懐かしい気持ちにさえなる。
元夫の勇だ。
「お前がデイビットっていう奴か。由紀を随分傷めつけたんだろ?」
その言葉がはっきりと聞き取れた。
「Ah, I’m David.」
その男はデイビットだと言っている。
そして何故か勇が話す日本語の意味を正しく理解して答えているようだ。
まさかこんな形、こんなシチュエーションでデイビットと初対面するとは想定していなかった。
“僕はYukiを傷つけようとしたんじゃない。本当に愛していた。だが、結果的に哀しい別れをすることになっただけだ。”
そういうニュアンスのことを英語で勇に話している。
明らかな言い訳でしかなかったとしても、その言葉をデイビットの口から聞けたことが嬉しかった。
嘘でもいい、私を愛していると言って欲しかったのだ。
「綺麗ごとばかり言うな。結局お前がやったことは国際ロマンス詐欺だろう。」
勇がたたみ掛ける。
「HAHAHA・・・」
首を傾けながら、”こりゃあ参ったな”といった顔をしてデイビットが笑う。
アメリカ映画でよく観るようなリアクションだ。
デイビットは頑として自分が詐欺を行ったことを認めない。
本物の詐欺師とはそういうものだろう。
絶対に自分の罪を認めない。
「由紀は真面目でいい子なんだ。どうしてそんな子から大金を奪える?お前は頭がおかしいのか?」
まるで私の心を代弁するように勇がデイビットに詰め寄ってくれるが、私の本心はこうだ。
“あなただって私を幸せにしなかったでしょう。”
長きに亘って付き合ってきた勇との関係だったが、結果的には私を正しく理解することなく、様々な言葉を思いのままに投げつけ、彼は私を捨てたのではないか。
その彼がデイビットをそこまで糾弾するのもどこか筋違いに思える。
しかし、私の立場を尊重してデイビットを責めていることについては純粋に嬉しかった。
もう愛していない男性からでも、私が大切にされれば自尊心が満たされる。
それはそうと、何故こんな場所でデイビットと勇が対面して言い争っているのか。
私の住むマンションからわずか10メートルほどの場所、しかも歩道の上だ。
人通りのある道路で、このような込み入った話をするのはどう考えてもナンセンスだろう。
私は近所のスーパーやコンビニへ買い物に行こうとして家を出て、すぐに彼らが目に飛び込んだ。
そのまま呆然として立ち尽くし、彼らから5メートルと離れていない場所で会話を聞いているのに、彼らは私のほうに一度も目を向けない。
こちらに気付いていないのだろうか。
ここは札幌市郊外の住宅地。
何故デイビットが偶然にして私の住むマンションの近くを歩いているのだろう。
もしかして偶然ではなく、私の住所を探してここまで来たのだろうか。
それにしても、日本をほとんど知らないデイビットが札幌市郊外の私の家を探し当ててくるとは、これまた信じがたい。
何をどう組み立てて考えても解せないことだらけだ。
彼らのその後の会話や成り行きが気になったが、かといって私がこのまま二人の間に入るのも避けたかった。
彼らがこちらに気付いていないうちに、私は踵を返し何事もなかったかのように去ったほうがいいだろう。
もし彼らがこの後掴み合いの喧嘩になったとしても、そんな修羅場に私は出くわしたくない。
去ってしまおう、彼らが気づかぬうちに。
彼らに背を向けた瞬間、それは聞こえてきた。
「由紀、どこ行くの?俺らは今大事な話をしている途中だよ。」
一瞬のうちに鳥肌が立ち、背筋に冷たいものが走った。
やはり私の存在は彼らに気づかれていたのだ。
もうここからは逃げられない。
彼ら二人の諍いでは済まされなくなってきた。
声をかけてきた勇に、私はどういう答えをすれば一番良いだろうかと頭の中は空転していた。
「あら、勇?どうしたの、こんなところで。」
これまで全く気付いていなかったふりをして、そんなことを言えば良いのか。
「ちょっとトイレに行こうと思っただけ。どうする?この後私の部屋にあがって、話の続きをする?」
いかにも自分も最初から会話に加わっていたかのように、そんなことを言えば良いのか。
空転する頭の中で2パターンの答えを考えたものの、実際のところ結局は声すら出なかった。
仕方がなく、また勇とデイビットがいる方向に踵を返す。
再び彼らを見るのが怖かった。
恐る恐る、そっと彼らの顔を見ると、これまでとは全く違う形相になっていた。
勇の顔も、デイビットの顔も、普段の倍くらいに目がつり上がり、顔色は真っ赤になっている。
先ほど声を掛けられたときは、もっと優しいニュアンスの声に聞こえたというのに、顔はというとマグマが噴出した火山のようで、淡い期待がひどく裏切られた気分だ。
“私は殺されるかもしれない。”
咄嗟にそう感じた。
ただでさえ噴火している彼らをこれ以上怒らせたくないのに、動物的な直感が先立ち、私は再び踵を返して走り出していた。
“彼らの怒りの矛先が私に向いて、きっと殺される。”
交差点の赤信号すら無視して全力で走って逃げた。
「由紀!」
数メートル後ろから呼んでいる声がするが、振り返る余裕などあるわけがない。
曲がり角を走って逃げるときに、追ってきた彼らの姿が目の端に映った。
二人とも片手に包丁を持っている。
彼らはいつから包丁を握っていたのだろうか。
“これはもう絶対に殺される。”
逃げる足のピッチはますます速くなった。
その瞬間だった。
着地した足の感覚が何かおかしい。
平地ではない、段差になっていたのか。
膝が抜けるような感覚があり、前方向へ何度も何度も回転した。
後頭部と膝の同じ箇所を何度も打ち付けている。
転んでいる場合などではない、そうこうしているうちに殺されてしまう。
もう逃げられないと自ら悟ってしまったからだろうか、涙が溢れていた。
前転する勢いがようやく止まって体を起こし、再び走り始めようとしたとき、着ていたシャツの首元を背後から掴まれた。
「由紀、覚悟しろよ!」
振りかぶって包丁をかざしている勇の形相が見え、その背後にデイビットも構えているのも見える。
声にならない声を出して泣き喚いた。
“私は今日ここで死ぬんだ。”
そう覚悟するしかなく、逃げていた足は1cmたりとも動かなくなり、涙で満杯の目を静かに閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます