第4話 回想:落葉

 40歳。

自ら勇に離婚を切り出そうと考えていた。

鳥羽とのことを引き合いに出すと、離婚においては自分の立場が不利になるため、「以前からの不満が募った」という理由で話すつもりだった。

そう考えていた矢先、「どうしても頼みたいことがある。」と勇が言ってきた。

「由紀、最近ずっと携帯を気にしてばかりだよ。誰かとメールしてるんでしょ。頼むから、その相手が誰なのかだけ教えて。」

その言葉で突然背筋が凍り付いた。

勇は私の最近の様子をずっと観察し、気にしていたのだ。

「沙也加だよ。悩みがあるっていうから相談に乗ってる。」

「じゃあ、携帯のメール見せてもらってもいいよね。問題ないでしょ。」

自ら落とし穴にはまったことにはもう気づいていた。

鳥羽とのメールを見られてしまうことを観念しなければいけない。

しかし、メールを見せたくない気持ちはまだまだ強く、さらなる逃げ口上も考えたが、ここで携帯電話を隠しても容疑を拭えるものではない。

観念して携帯電話を勇に差し出した。

「ほう、受信フォルダまで作って保存するほど大事な相手か、この”ひろさん”とかいうやつは。」

“ひろさん”とは鳥羽のことだ。

鳥羽との過去のメールもすべて見られた。

「昨日行ったホテル、結構よかったね。また行こうね。」などと書いたメールまで見つかり、鳥羽とホテルに行ったことまで明らかになった。

「やっぱり浮気してたんだろ。慰謝料払って離婚してくれ!」

勇は私に暴力は振るわないものの、怒りをどこにぶつけたら良いかわからないようで、床を何度も強く叩いて奇声を上げていた。

 勇との離婚は、こちらも望んでいたことではあったものの、浮気が発覚しての離婚になるとはあまりにもお粗末で格好悪すぎた。

結婚生活には以前から不満が募っており、その責任は勇にもあるはずなのに、結果的に浮気が離婚原因となると、それまでの不満があった経緯などもはや言えない。

慰謝料はいくら求められるのだろう。

どんなことに思いを馳せても憂鬱なことばかりだった。

二人の関係が勇に見つかってしまったことを鳥羽に一言でも伝えたかったが、直接連絡をとることは当然ながら許されず、携帯電話も没収されてしまい連絡ができなかった。

鳥羽から何かメールがきているかも、と思うと気になって仕方なかった。

勇が私の携帯電話を使って誰かに電話をかけている様子が聞こえた。

「あんた、うちの嫁に手を出してタダで済まされると思ってるのか。」

勇が鳥羽にすごんでいる。

私に出来ることといったら、この会話に聞き耳を立てて想像するくらいしかない。

もちろん勇の言葉しか聞こえないが、おおよその流れは掴めた。

 「いいものを聞かせてやろうか。」

電話を終えた勇が差し出したのは、ボイスレコーダーだった。

たった今終えた鳥羽との電話の一部始終を録音していたのだ。

鳥羽とは思えない声が聞こえてきた。

鳥羽と思えなかったのは、あまりにも声が小さくいつものイメージとかなり乖離しているからだ。

どうやら泣いているらしく、時折ヒックヒックとすする音がする。

「す、すみません・・・大変後悔していて、もちろんすごく反省しています。ご主人にも申し訳ありませんでした。」

これは本当にあの鳥羽の声なのだろうか。

裏声も混じっているような、かん高い声で反省の言葉を述べている。

私を愕然とさせたのはこの言葉だ。

「こんなにうまい話が自分にあるはずはないと・・・そう思っていたのに、ついつい罠にはまりこんでしまいました・・・やめておけばよかった。」

“罠”とは何だ?

私が詐欺師か何かになっている想定なのだろうか。

まだボイスレコーダーの鳥羽の声は続いている。

「これって美人局だったってことですよね?」

その鳥羽の一言で膝から崩れた。

勇が鳥羽に金銭を要求したらしく、私は美人局だったということになってしまっている。

ひとときでも私は鳥羽と本当に恋をしていた。

これは決して嘘ではないのだが、すでに鳥羽の中では私とのことは罠として片付けられている。

本当に心をゆだねて恋をしても、あっという間に手のひらを返され、こうして詐欺師呼ばわりされてしまう。

世の中に本当の愛や恋なんてあるのだろうか。

勇も鳥羽も、誰も信じられなくなった。

私が愛した男でさえクズだったのだから、世の中に希望なんてない。

奈落の底へ落ちていく自分の姿が、映画のワンシーンのように頭の中で見えた。


 41歳。

離婚騒動から1年が経過した。

あの時確かに勇との離婚を固く決意していたにも関わらず、未だ婚姻中だ。

 鳥羽との関係が発覚した時、勇は「離婚だ、離婚だ。」と強く言っており、もちろんその通りになるものだと思っていた。

許されるわけもないであろうし、こちらも離婚したかったのでむしろ許さないで欲しかった。

ところが、事件発覚後3日も経たないうちに勇が「俺、また二人でここから頑張っていきたいと思っている。」と言ってきたのだ。

離婚するつもりしかなかったこちらとしては酷く動揺した。

“私はもうやり直す気などなかったのに。”

内心そう思った。

しかし、妻の不貞を許してまで今後の結婚生活を継続していきたいと言うのだから、その意気込みがあるなら今後の二人はうまくいくのかもしれない。

私にはすでに意欲はないが、勇にそれだけの決意があるなら何かが変わるのだろう。

まるっきり他力本願で、私は再び結婚生活を継続していく意思を固めた。

不倫という罪を犯してしまった手前、どこか心の中では浄化されたい気持ちがあり、あんなに嫌だった結婚生活とまた向き合う努力をすることで自分が聖人になれる気がしたのだ。

「お父さん、私頑張っているよね。今からでもまだ私は天国行きのメンバーに入れるかな。」

斜め上の空を見上げ、亡き父にそう語りかけてみた。


 45歳。

あれほどの大きな波を乗り越えたのだから、勇との結婚生活は継続しなければいけないという固定概念もあり、この5年は度重なる不満にも目をつぶった。

「色んなことがあったけど、どんなことも夫と乗り越えたわよ。それが夫婦だものね。」

などという粋な経験論を他人に話す婦人になりたかったのだ。

しかし、私の運命はそんなに甘い落としどころではなかった。

鳥羽のことがあってからは、もう二度と他の男に興味を持つことはなかったが、その分自分の趣味に注力するようになり、体力づくりも兼ねてランニングを始めた。

 ランニングは時間があればいつでも一人で気軽にできるスポーツだ。

費用もかからないし、健康になる。

こんなに良い趣味が他にあるだろうか。

走れば走るほど、またさらに走れるようになり、自分がどんどん進化する。

これほど楽しいことはなかった。

より走れる体を作るために筋力トレーニングも取り入れた。

 そんな矢先だった。

「俺はアスリートみたいな女と結婚した覚えはない。筋肉が多い女なんて嫌いだ。」

勇にそう言われた。

やりたいことが見つかって、目標に向かっていき、体が絞られていくことのどこが悪いというのだろう。

少なくとも、ランニングを始める前の自分よりは明らかに磨かれている。

応援してくれないだけならまだしも、批判するなんてもってのほかだった。

スポーツをしたいという妻の応援もせず、批判する存在は果たして家族というのだろうか。

“そんなのは本当の家族ではない。”

そう思い始めてからは、確実に勇との距離が遠くなった。

勇は結局、私が何かに没頭したり、新しい世界を見つけてそちらに集中するととにかく気を悪くする。

特に、勇が介入できない世界だった場合、それが顕著に表れる。

「二人で一緒に過ごしたい」と口では言うものの、彼の興味があることややれることを私が一緒にやらないといけないふうになっている。

今後、私が出来ることは、彼が興味を持つようなことだけになってしまう。

果たしてそれで豊かな老後を過ごし、後悔なく死ねるのだろうか。

そう考えると、勇とともに暮らしていくのは無理だと思った。

自分の人生において、やりそびれた事や後悔を残したくない。

 ランニングが発端となり、勇との間に再び離婚話が持ち上がった。

勇からも何度も離婚を迫られていたため、こちらももう腹を決めていた。

もういい、もう終わりにする。

不倫事件を乗り越え、持ち直した結婚生活だったが、結局は何一つ罪でもないランニングが原因で離婚をすることになった。

何のために大波を二人で乗り越えたのか、まったく意味が解らない結末。

私の人生はここで落ちるのではない、ここから右肩上がりにすべき。

何とか自分を奮い立たせようと、自己暗示をかけて暮らした。


 49歳。

勇との結婚生活に終止符を打って4年。

離婚をしてから3年は本格的にランニングに精を出し、数々のマラソン大会で表彰台に上ったが、自身を追い込みすぎてしまったせいか心身ともに燃え尽きてきていた。

離婚後はもう男性との出会いを求めることなく、恋愛方面のことにはとにかく疲れていた。

あれほど好きになって結婚をした勇とも結局こうして破綻するのだから、もうどんな相手でも駄目になるような気がしてならないのだ。

挑戦する前から答えが分かっているように思えて、もう意欲も興味も持てなかった。

長らくそういった心境でいたが、50代を迎えるにあたっての心境の変化だろうか。

はたまたマラソン練習に精を出しすぎて、癒されたくなったからだろうか。

“このまま一人では死にたくない。老後は誰か愛する人と一緒に過ごしたい。”

そう思い始めていた。

陽だまりで穏やかに微笑む老人マダムの姿と、自分の未来のイメージとを重ね合わせた。

「若い頃はずいぶん色んなことがあって苦労したけど、今は穏やかで幸せよね。」

そういって微笑むような老人になりたいと願ったのだ。

 何かに急かされるような気持ちでマッチングサイトに登録をした。

実際に会う相手から呼ばれても違和感のないように、YukiというIDで。

一人の部屋で勝負服に着替え、普段はしないメイクをこのときばかりは気合を入れて施した。

決して太ってはいないが、それでもさらにスリムに見える斜めの角度を探して写真を撮る。

マッチングサイトでのプロフィール用写真だ。

プロフィール画像を登録し、自己紹介文を丁寧に書いたら、すかさず”足あと履歴”が増えた。

僅か1分の間にも、数多くの人が私のプロフィールを見ていく。

その中でも”いいね”のチェックをつけてくれる人は貴重だった。

実年齢よりも10歳は若く見える童顔で、学生時代からもてるほうだったので自信は少なからずあった。

私の足かせになっているのは年齢だけだ。

ポツポツと増えていく”いいね”の中で、ふと目にとまった男性がいた。

アメリカ人のデイビット・ワイズ、53歳。

逆三角形の鍛えられた肉体、厚みのある胸板、太い腕がTシャツの上からでもわかる写真の中で、彼は口を大きく開けて笑っていた。

二枚目な顔つきではないが、何しろ屈強な肉体と真逆のとろけるような優しい笑顔が印象的だった。

デイビットと個人的に連絡をとりたくなり、すかさず”いいね”ボタンを押してマッチングを成立させ、二人きりでのメッセージ交換が出来るようにした。

デイビットに「私に興味を持ってくれてありがとう」と送信し、心躍らせながらしばし待つ。

こんなにワクワクした気持ちになるのは何年振りだろう。

1分も経たないうちにデイビットから返信があった。

はやる気持ちで見てみると、「Oh! Beautifal girl!」と書かれていた。

翻訳機を使いながら英文が書ける程度の英語力である私と、日本語翻訳を使いながらカタコトの日本語を書けるデイビットとのメッセージ交換がそうして始まった。

 デイビットの職業は米軍人で、陸軍に所属していた。

カリフォルニア大学卒業後、米軍に入隊し、2013年から日本の座間キャンプに配属されて現在はアフガニスタンに駐留しているという。

デイビットが何故マッチングサイトで女性との出会いを求めていたのか。

彼は5年前に妻子を交通事故で亡くし、肉親もすでに他界しているという天涯孤独の男性だった。

「今年の7月にはアフガン駐留の任務が終わり、それを機に米軍から退く。今後は日本で家族をつくって穏やかに暮らしていきたいから、パートナーを探している。」と言っていた。

彼の言う7月までには、あと3ヶ月くらいあった。

“その間に二人の関係を育んでゴールインできれば”

そんな未来をも見据えるようになっていた。

デイビットから毎日送られてくる「I love you」の熱烈なメッセージに心が躍り、時折送られてくる満面の笑みの写真は冷えた心の温度を上げてくれた。

日本人男性はどんなに真剣に愛していようとも、言葉にして「愛している」とは言わない。

男女ともにそういった愛情表現を照れてしまい、特別な思いとして隠し持つのが日本の文化だ。

日本人男性との交際経験しかない身としては、外国人男性のオープンでストレートな愛情表現に心を奪われる。

一週間が経った頃にはデイビットの虜になっており、毎日のメッセージ交換だけが心の支えであり楽しみだった。

 デイビットとの出会いから1ヶ月が経過した頃、彼から昼間にこんなメッセージが届いた。

「今日はこれから任務に出かける。今日はいつも立ち入らない地域、アフガンの中でも紛争が一番起きている地域へ行くんだ。かなり離れた場所だし、基地に戻って来られるのは3日後くらいかもしれない。Yukiのことが常に頭にある。これまでに感じたことのない深い愛だ。Yuki、愛している。君は無事で元気でいてくれ。」

彼はそのメッセージを残して戦地へ出かけてしまった。

死と隣り合わせで働く彼を思うと、とてつもない不安とともに深い愛を感じ、涙が溢れた。

“また彼は無事に戻ってきてメッセージを交換することができるのだろうか。”

咄嗟にそういう不安が混じったのかもしれない。

彼が予告していたとおり、3日間はこちらからメッセージを送信しても応答がなかった。

4日後、「Hi, Yuki.」

デイビットから最新のメッセージが届いた。

彼が無事に基地に戻ったとわかり、安堵したせいか、気が付くとまた涙が出ていた。

「今日は君にとても大切な話がある。軍の機密事項になるから他の誰にも言ってはいけないよ。

君は僕の妻になる人だから家族として信用してこれを話すつもりだ。」

“妻”、”家族”というキーワードに心を大きく揺さぶられた。

「アフガン危険区域でのパトロール中に、僕らは捕虜となっていた中東人を命がけで助けた。仲間は被弾して今も治療を受けている。非常に危険だったことがわかるだろう。助けた中東人は僕らを称えてくれ、お礼にと莫大な金額、540万ドルを渡したんだ。軍に持ち帰って会議をしたが、これは報奨金として僕らが受け取ることになった。ただし軍の機密事項なので公にしたくない金額なんだ。今からこの金を君に届けるから、僕が日本に帰国する日まで預かってくれないか。これは将来の僕ら二人の財産だ。」

デイビットが死と隣り合わせだったこの4日間から一変、今度は540万ドルの持ち主となった現実。

地獄から天国まで一気に駆け上がるスピード感に翻弄された。

「Yuki、君の正確な住所と電話番号を教えてくれ。今から荷物に金を詰めてすぐに送る。」

日本円にして6億円が私の家に送られてくる。

生真面目な性格上、まだ会ったことのないデイビットであっても裏切るつもりなど毛頭なかった。

6億もの金を私に預けたら、デイビットは必ず帰国して私の家に来るし、そこから二人の生活が始まる。

大金が送られてくることが嬉しかっただけではない。

彼との未来が確実に保証されたと思えることが嬉しかった。

 デイビットに住所と電話番号を送った翌日、すぐにイギリスの配送会社からメールが届いた。

「Mrs. Yukiko Haga.」

送り主はデイビット・ワイズとなっており、アフガンからイギリスの配送会社に一旦集約されて日本へ配送されるという内容が書かれていた。

到着予定日は一週間後となっていた。

デイビットが言っていたことは本当に実行された。

6億円が送られてきて、デイビットも日本へ帰国したら、二人の暮らしはどんなに華やかになるだろうと想像し、四六時中頭から離れなかった。

 イギリスの配送業者からのメールに書かれていた到着予定日になった。

日本の宅配会社のように、自宅玄関まで届けられてサインをするものだと想像していた。

ところが、どんなに待っても自宅には誰も来ず、何も届かなかった。

真っ先にデイビットに、「おかしいのよ。あなたの荷物が届かないわ。」とメッセージを送る。

「何だって?それは変だな。僕からもイギリスの配送業者にメールを送ってみよう。」と、彼は言った。

ほどなくして、イギリスの配送業者から私に再びメールが届いた。

「Mrs. Yukiko Haga.」

日本の企業のようにへりくだって「ご迷惑をおかけしており、申し訳ありません。」などとは彼らは一言も述べず、「あなた宛ての荷物は現在中国で保留になっています。」と書かれていた。

“中国で保留って、どういうこと?!”

怒りと苛立ちがこみ上げてきた。

荷物が税関を通過する際、スキャンした内容物に現金540万ドルが梱包されて入っているとわかり、中国政府がそれを差し止めていると。

「このような莫大な現金を配送する際に、これがテロ活動に使われるものではないという証明書が必要になります。あなたはただちにその証明書を取得し、中国政府に提出する必要があります。」

そう付け加えてある。

“反テロリスト証明書:150万円”。

どのようなものなのか実際に目にしたこともない証明書に150万円支払えと言う。

証明書の類で150万円もする書類など、この世に存在するのであろうか。

50年近く生きてきた中でも常識的な範囲では考えにくく、信じがたかった。

ましてや、なぜ荷物を預かるだけの私がこれを支払わなければいけないのか。

慌ててデイビットにメッセージを送る。

「反テロリスト証明書を取得して中国政府に提出しなければ、あの荷物は保留のままになってしまう。

私はそんな大金は持っていないわ。あなたが軍の仲間に相談して、150万円を用意してもらえないかしら。」

うろたえた様子でデイビットがすかさず返してくる。

「どうやってそれを用意する?僕はアフガンにいるんだ。ここには現金はほとんど置いていないし仲間だって持っていない。あぁ、Yuki、お願いだ。この金を払ってくれ。僕を信用して貸してもらえればいいんだ。もちろん150万円は僕らの荷物が届いたらすぐに返すし、それ以上に君は近い将来、6億円を好きに使えるんだよ。」

好意を持っているとはいえ、まだ一度も会ったことのない相手のために150万円を立て替えるのはおかしな話だ。

そもそも例の6億円が手元にくる前に、私がまず150万円の身銭をきることが解せなくて仕方がなかった。

冷静に考えるとそれがおかしなことだとは十分わかる。

彼とはまだ会ってもいないのだから、お金を払わされる場面が出てきたらこれは危険なことだと考えて、この交際は破談にしようと思っていた。

そういう考えはしっかりとあったのだが、

「Yuki、君がそんな人だとは思わなかったから、僕はショックだ。僕がこんなに困っているのに助けてくれないなんて。君はどうしてそんなに人を信用できないんだ。」

深夜でもデイビットからそんなメッセージが届き、すっかり好意を持っていた私の心はズタズタに引き裂かれた。

“人を疑ったりする私がいけないのかもしれない。私がもっと人を信用すればすべてうまくいくのでは。”

デイビットが悲しむにつれ、だんだんと自分を責めるようになった。

 貯金もないまま離婚をし、一人で生計を立て直したところだった私は、やはり貯えなどはなかった。

ありったけのカードでキャッシングを申し込み、何とか140万円まで工面できた。

残り10万円は今月の生活費から捻出すれば150万円をつくれるだろう。

すでにデイビットのために150万円を支払うことに決めていた。

私は、イギリスの配送業者が提示してきた日本用の金融機関口座に150万円を振り込んだ。

これほどの愛情表現をしたのだから、すぐにデイビットに褒めてもらわなければ割に合わない。

「反テロリスト証明書の150万円、支払ってきたわよ。」

私のメッセージに、すぐに気を取り直したデイビットから返信があり、

「Oh! I’m very happy. I love you.」

それはハートマークがたくさん付けられたメッセージだった。

「あなたからの入金を確認し、反テロリスト証明書が発行されました。私たちはこれを中国政府に提出します。」

イギリスの配送業者からすぐにメールが届き、あとは6億円の到着を待つばかりとなった。

入金確認のメールを受け取ってからさらに一週間が経過しても荷物は届かず、配送業者から何らかの進捗報告もないままだった。

その時には既に嫌な予感が脳内の95%ほどを占めていた。

日々苛立ちは募り、デイビットにも不満をもらすようになった。

「荷物届いていないわよ。私は指示されたとおりにしたのにどうしてなの。」

彼自身が発送した荷物であるにもかかわらず、彼の応答はどこか他人事のような振る舞いで、それが余計に私を苛々させた。

デイビットにいくら愚痴や近況報告をしても埒があかない。

これまで何度もイギリスの配送業者とは直接メールのやりとりを交わしていたため抵抗感はなく、「私への荷物は今どうなっているのですか?」と少し責めるようなメールを書いて送信した。

「Mrs. Yukiko Haga」

どんな状況下でも彼ら配送業者は同じ冒頭のメールを書く。

毎度のことなのに、それがまた脳天気に思えて苛立った。

「あなたの荷物は、今日本まで到着しているのですが、実は日本の税関のチェックにより保留となっています。」

信じらがたい言葉が並べられていた。

支払いが必要になるのは中国の税関一回限りだと言っていたはずだが、次は日本で保留になっていると簡単に言ってきた。

“それでまた金が必要だって言うのか。”

メールの内容を最後まで読まずとも容易に想像がついた。

「このような莫大な資金を配送するとき、あなたは貨物取扱許可証を取得しなければいけません。」

“貨物取扱許可証”のために要求された金額は200万円だった。

“貨物取扱許可証”をインターネット検索で急いで調べる。

検索結果の上位から10番目までのタイトルをざっと見ても、ほぼ全てに

“貨物取扱許可証というものは実際には存在しない架空のものです。そういったものを要求されたら、間違いなく詐欺事件だと解釈して構いません。すぐに警察に相談をしてください。”

そう書かれていた。

一度目の反テロリスト証明書に怪しさを感じていたにもかかわらず、デイビットを悲しませたり、”Yukiは愛情がない”と言われることが嫌で150万円を支払ってしまった。

そして、もう二度と支払うまいと思っていた。

いや、正しく言うなら、仮に今度の200万円を支払いたい気持ちになったとしても、もうどこからもそのような金額を工面できなかった。

150万円でさえ、借金をして用意したのだから。

その夜、デイビットにこんなメッセージを送った。

「あなたの荷物は今日本で保留になっているわ。今度は貨物取扱許可証が必要で、それには200万円かかるみたい。あなたには悪いけど、私はもう本当にお金がないのよ。先日の150万円はありったけの貯えだったのだから、もう払えないの。ごめんなさい。」

150万円も立て替え払いをした私がなぜ謝らなければいけないのか、心の底では酷く理不尽に感じていても、まだデイビットには嫌われたくない一心で良い人を演じた。

こんな聖人君子の私をデイビットは決して責められないだろうと予測した。

しかし返ってきたメッセージはこうだ。

「Yuki、君がそんな人だと思わなかったよ。非常に残念だし、裏切られた気持ちで一杯になっている。僕のファイトマネー、540万ドルはどうなるか知っているか?君が頑張ってくれなければ、莫大な金は政府に没収され水の泡になる。君はその責任がとれるのか。」

150万円を立て替えて、なぜここまで責められなければいけないのか。

怒りと苛立ちがとめどなく溢れた。

「デイビット、あなたと私はまだ一度も会っていない。そのことをよく考えて欲しい。一度も会ったことがない人に金品を要求したりするのは、日本では詐欺事件のケースとして非常に多いのよ。多くの日本人女性がその被害に遭っていることを私は知っている。”結婚詐欺”や”ロマンス詐欺”などと言われているわ。デイビット、あなたを疑うつもりはないけれど、これは全てそういったケースと同じだと私は思っている。」

ついに本心を告げた。

「HAHA…君はとんでもない女だ。君みたいな人間のほうが嘘つきじゃないか。アフガンで死と隣り合わせになっている僕に向かって、よくもそんなことが言えるな!」

デイビットからの返信には、次々と蔑る言葉が並べられた。

とてつもない悲しみと、絶望感にさいなまれ、もう生きていること自体に嫌気がさした。

案の定、その日以来デイビットからメッセージが届くことはなく、私から送信したメッセージに既読マークがつくこともなかった。

 それから10日が過ぎ、デイビットとの恋愛は虚像だったのであろうと諦めがつき始めた頃、携帯電話に見知らぬ電話番号から着信があった。

市外局番からすると、これは関西方面のようだ。

留守番電話にメッセージが残されており、恐る恐る再生する。

「もしもし、ハガユキコさんの携帯電話で間違いないでしょうか。こちらは京都府警刑事課です。いくつか確認させて頂きたいことがございまして、お手数ですがご連絡いただけないでしょうか。番号は〇〇〇―××××、刑事2課の岡本です。宜しくお願いします。」

なぜ京都府警が私の名前と携帯番号を知っていて、確認したいことがあるのか。

自分が想像できるストーリーと、京都府警とはまだうまく結びつかなかった。

刑事2課の岡本宛てに電話をかけると、

「あぁ、ハガユキコさんですか。お忙しいところお手数おかけしてすんません。実は、3日前にこちらで逮捕された外国人詐欺グループが持っていた通帳からハガさんの名前が出てきましてね。あなた、20日ほど前にムフオヤ・ワーレンという名義の口座に150万円を振り込んでいませんか?」

“ムフオヤ・ワーレン”。

イギリスの配送業者が、日本用の振込口座として指定してきたのが、そういった名義だったのを覚えている。

振り込んだのは間違いなく私だ。

「それは私ですね・・・振り込みました。”外国人詐欺グループ”ですか?」

確認するために聞き直した。

「えぇ。日本で数十件、同様の手口の犯行をしていたようです。規模が大きい詐欺グループでしてね、ああいうのはチームでやっていることですから、あなたと同じように日本人女性が数十人被害に遭われていました。その捜査のため、質問に答えていただきたいのです。」

膝から崩れ落ちた。

おおよそ想像はついていたことだが、はっきりとそれがわかると衝撃が大きすぎた。

 デイビット・ワイズ、53歳という米軍人は存在しない架空のものであり、偽の将校だった。

陸軍にも座間キャンプにも所属などしていない。

ましてやアフガンにも駐留していない。

まったく別の国出身の犯罪者が、私に愛を囁いていただけだ。

架空とはいえ、愛を失った私に残されていた最後の希望、

「あの・・・犯人は捕まったんですよね?私が振り込んだ150万円は返金されますか?」

大きな穴が開いた懐だけでも、せめて埋まってくれればと思った。

「それがね、被害者の方皆さんに返金できればいいんですけどもね、その口座からはもうお金が下ろされてしまっています。残高が残っているなら返金の可能性もあったんですが、もう使われてしまってなくなっているものは返金できないんですよ。」

期待は虚しく、宙を舞った。

仮に被害届を出していたとしても、犯人の口座からすでに出金されている場合はもうどうやっても金が戻ってくることはない。

警察の捜査には出来る限りの協力をし、電話を終えた私に虚無感が襲いかかった。

偽の愛で翻弄されただけではなく、事実として150万円を騙し取られ、酷く虚しさが残ったのだ。

 50歳まで人生経験を積んだ私が、一体何をしているのだろうか。

学問的な意味では、決して私の頭は悪くはない。

外見上も中の上くらいで、それなりに持てはやされてもきた。

一人の男性と愛し合い、将来を誓って、10年の結婚生活を送ったこともある。

学歴、容姿、信頼をそれなりに築いてきた私が、50歳でこんなことになろうとは。

愚かな自分が情けなく、恥ずかしく、とにかくこの世から一刻も早く消えてしまいたい。

 様々な過去を振り返った上で今思うことは、”とにかく死にたい”。

ただそれだけだ。

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