第3話 回想:紅葉

 35歳。

結婚適齢期をとうに過ぎた頃、勇との交際は変わらずに続いていた。

中絶はしたものの、一度は子供を身ごもったことがあるのだから、勇はもう少し私との将来を考えてくれても良いのではないかと内心では責める気持ちも出てきた。

交際4年目、35歳。

勇だって34歳。

十分に結婚を意識するような年齢であるにもかかわらず、ネットゲームに夢中になり、コントローラを握りしめたまま寝落ちする勇はあまりにも脳天気に見え、イライラすることも増えた。

なぜ結婚の話すら出そうとしないのか、今後のことはどう考えているのか疑問でならず、毎日が闇の中。

 そんな日々の中、勇がクリスマスに「プレゼントがある」と言った。

「何をくれるの?」

最近欲しかった商品の上位3位くらいまでを頭の中で思い浮かべた。

「もしよかったら、嫁さんになってくれないか。来年にでも。」

その言葉がクリスマスプレゼントだった。

「うん、いいよ。二人で計画を練ろう。」

照れや恥ずかしさや興奮で突然涙が出たが、勇の手前では笑い転げたせいで涙が出たように装った。

猛吹雪の景色から、突然トンネルを抜けて晴れ間を見たようなクリスマスだった。


 36歳。

暑さが落ち着いた9月の或る日、勇との新居へ引っ越した。

3LDKの賃貸マンション、家賃は8万円。

二人とも会社員で、収入も平均より高いほうだ。

折半して一人4万円ずつ家賃を支払うことは容易だった。

二人の生活が始まって間もない9月中旬、区役所へ行き入籍。

竹田由紀子になった日、自宅裏にある丘から札幌の街並みを見下ろした景色を忘れない。

夫となった勇と手を繋ぎながら見た、夕陽がおちる札幌の街並み。

この瞬間が、人生で一番輝かしかったのだろうか。

誰かが私の人生についての答えを知っているのなら、教えて欲しい。

 入籍後3ヶ月ほどは新婚生活の嬉しさもあり、勇とは喧嘩することもなく穏やかな日々を送った。

翳りを見せはじめたのは、結婚後初めての年末年始の頃だ。

勇の趣味の一つである映画鑑賞を、常に一緒にしなければあからさまに不機嫌な顔をするようになった。

映画鑑賞といっても、彼がコレクションしたDVDやブルーレイの鑑賞だ。

掃除、洗濯、食事の下ごしらえ、それらを朝のうちからしっかりしておかなければ落ち着いて過ごせない性分の私。

私も会社員として勇と同等の仕事をこなしていたが、家事全般は私が担当していた。

仕事が終わると寄り道もせずに帰宅し、買い物や家事全般を滞りなく行っていた。

休日も同様に、やるべき家事はまず先にし、残った時間で寛ごうとしたのだが勇にはそれが気に入らなかったらしく、「おい、俺がいつまで待てばその家事は終わるんだよ!」と怒り出した。

「一緒に映画を観ようと思って朝から待っているのに、もう2時間経ったじゃないか。俺の大事な休みをどうしてくれるんだ。」

朝6時に起床して、家事をしていただけで何故そこまで怒られるのか理解ができなかった。

しかし、「そうだったの?ごめんなさい。」

そう答えるしかなかった。

年末休暇の間に帰省した友人との食事会に出かけた晩にも一悶着あった。

「29日に沙也加が札幌に帰ってくるって言うから、一緒に晩御飯食べてきてもいい?」

数日前に勇にお伺いをたてた時には、「もちろん、いいよ。行っておいで。」と快諾してくれた。

29日当日になると朝から何か機嫌が悪い。

「で、今日は出かけるんだっけ?何時に出かけて、何時に帰ってくるの?その間、俺はどうして居りゃいいの?」

言葉の端々に苛立ちと嫌味っぽさを感じる。

「18時に出かけて、21時に帰ってきます。」

勇が求めているであろう回答だけを淡々と答えた。

18時に出かけるときには形式的な雰囲気で仏頂面をしつつも、勇は玄関まで見送ってくれた。

2年ぶりに会った沙也加とは、近況報告やほんの少しの愚痴も交えて話が弾んだ。

度々時計を気にしてはいたが、人と一緒に過ごしている間に何度も腕時計を見やるのは礼儀として良くない。

少し時計を見ずに会話を楽しみ、ふと気づくと21時になるところだ。

名残惜しいが帰らなければいけない。

そう思った瞬間に勇からメールが届いた。

通知画面に表示されるメール本文の冒頭が見えただけで、すでに嫌な予感がした。

“いまどこ?時間どおりに帰ってこないからメールしたよ。”

『純粋に君が心配になっただけだ』という雰囲気を醸しつつも、実は勇が言いたいことの本音はそういうことではない。

“いまお店を出たよ。これから地下鉄に乗って帰る。遅れてごめんね。”

返信をしたが、それについての返信はなかった。

快い返信がないこと自体が、すでに嫌な予感を増幅させた。

 帰宅したのは結局21時30分だ。

約束の帰宅時刻から30分遅れたら、勇はすでに布団に入っていたが、寝入ってはいないように見え、「今帰りました。遅くなってごめんなさい。」と声をかけた。

「うーん。遅いからもうだいぶ眠ってたよ。」という返答だった。

30分遅れたことについて、「その間にもうだいぶ眠った」という表現をするあたりが、『だいぶ眠れるくらいあなたは遅かったのです』ということを示している。

勇はいつもそういう表現を選んだ。

何かにつけて、勇は思い通りにならないと嫌味っぽいことを言うことが多かったが、せっかく好きになって結婚した相手なのだから、喧嘩はしたくなかった。

“できるだけ平穏に仲良く過ごしたい。”

その思いが常にあり、どんな時でも私は一方的に折れて謝って治めた。

 その晩、私が就寝しようとして部屋の灯りを消すと、「おい、何も言わずに寝るのか」という勇の言葉が聞こえた。

「えっ・・・さっき、帰ったときに”ごめんなさい”って・・・」と、戸惑う私の返答に覆いかぶせるように、

「あんな一言の挨拶で済む話じゃないだろう?もっと俺に言うべき謝罪の言葉があるはずじゃないか!」

勇の逆鱗にふれた。

疲れて眠ろうとしていたのだから、当然私は体力の限界を迎えているのだが、勇に正座をさせられこんこんと説教を受けた。

一方的に勇が怒って話しているだけなのだから、聞いているだけのこちらは眠気もさす。

正座をしながら睡魔に襲われてぐらつくと、「真剣に聞いてるのか?寝るな!」とさらに勇の怒りが増した。

ちらりと時計を見ると24時だった。


 37歳。

勇の独自の価値観に合わないといつも説教をされ、正座をさせられたり、私が泣いて謝罪の言葉をあれこれ述べるまで許されないという日々が続いた。

古き日本の丁稚奉公を詳細に知らないが、私の頭の中では『まるで丁稚奉公じゃないか』と思っていた。

奉公先の意地悪な姑にいじめられているようなイメージと重なった。

私は愛されて結婚したと思っていたのだが、気のせいだったのだろうか。

何故ここまで執拗に毎日傷めつけられるのか、理由もわからなかった。

 結婚後一年が経過する頃には、私は帰宅するたびに激しい動悸と眩暈に襲われ、トイレにこもって嘔吐することが多くなった。

悲しくもないのに日常生活で突然涙が溢れ出すことも増え、心療内科の門をたたいた。

診断結果は重度のうつ病。

「うつの治療にはご家族の理解や協力がないと難しいのですが、ご家族に話すことは出来ますか?」

主治医にそう言われ、帰宅後に意を決して勇に伝えたが、

「うつ?自分を楽にするために心療内科に逃げ込んだんだろう?そんなことぐらいで俺のスタンスが変わると思うなよ。」

容赦ない言葉だけが返ってきた。

処方された胃腸薬と抗うつ剤を服用する毎日が続いた。


 38歳。

9月の或る日、実姉からの入電。

「洋二叔父さんが、お父さんと連絡がとれないから心配しているらしい。お父さんは、洋二叔父さんからの電話に出ないことは一度もなかったから、きっと何かがあったんじゃないかって。電話をしても出ないから、家に直接行って様子を見てこないかという誘いがきた。」

叔父の洋二というのは、父の弟だ。

この時、姉と私は実父との喧嘩が絶えず、電話がかかってきてもとらないことが多かった。

父はアルコール依存症で、昼間から酒を飲んでは人に暴言を吐くようになっており、姉と私はそんな父を敬遠するようになっていたのだった。

父とは3年以上、会ってもおらず電話でも話していなかった。

人に嫌われるような行いをし、孤独になってはさらに暴言を吐く父だったが、叔父の洋二は人格者で稀にみる穏やかさだったのもあり、唯一父と連絡をとり続けていられたのは叔父の洋二だけだったようだ。

 姉夫婦の車に同乗し、私は父が住む洞爺湖町に向かった。

父方の叔母達も集まり、3台の車で連なって出かけたが、叔母達は何とか前向きになろうとし、

「お兄ちゃん、旅行に出かけてるだけだったりとか、とにかく何ともなければいいね。」

というようなことを道中も話し続けた。

車が父の家に到着し、外から姉と私が「お父さん、お父さん。来たよ。」と大声で呼びかけてみるも応答がない。

家の鍵は閉まったままで、同行者の誰も合鍵など持ち合わせていない。

「窓をぶち破って入るか。」

叔父の洋二が勢いづいてそう言ったが、

「いくら家族の家でも、無許可で入ったら駄目だよ。」

叔母や姉や私の意見に諭され、地元警察の立ち会いで住居に侵入してみることにした。

 父の家から一番近い警察署に出向き、事情を話すと、

「あぁ、羽賀さんのご家族ですか。」

何やら以前から父を知っているような口ぶりだった。

「父は以前からお世話になっていたのでしょうか。」

姉がすかさず探りをいれると、

「お世話っていうほどではありませんけどもね。お父さん、だいぶ具合が悪いみたいでしたよ。」

詳しい出来事までは語らなかったが、以前から体調が悪かったせいで警察のお世話になったことがあるようだった。

すでに不穏な空気は漂っていた。

 再び父の家を訪ね、同行した警察官が窓ガラスを割って中へ侵入した。

警察官が侵入するよりも先に、割った窓ガラスから大量の蠅が黒い塊となって外へ飛び立った。

それだけではなく、過去に嗅いだことがないような異臭が鼻をついた。

警察官と叔父の洋二が侵入し、1分もしないうちに戻り、

「居た。お父さん、居たよ。娘さんは悪いけど入らないで。」と、警察官は言い、

涙を浮かべながら言葉を失っている叔父を見て、これは最悪な事態だと把握した。

「居た。間違いなく兄貴だと思う。亡くなっている。」

叔父の言葉に耳を疑ったが、同時に姉と私は声を上げてわんわんと泣き出した。

ほどなくして、救急車がやってきた。

救急車から搬出されたのは、過去に見たこともない担架の色だ。

生存している人とそうでない人とでは、担架の色が違うのだとその時初めて知った。

父の家から運び出されたのは黒いシートがかかった担架だ。

人間が一人横たわっている厚みには見えない。

そのことから、父の亡骸がとてつもなく小さくなっていることがわかった。

あの黒いシートの下に父が眠っていると思うと、また悲しみがこみ上げ、声を出して泣いた。

 洞爺湖町から近い警察署で、今回の出来事の背景や経緯などの聴取を受けた。

警察の調査によると、父は死後3ヶ月以上経過しているであろうとのこと。

住居内は争った跡や事件性もないため、これはおそらく病死であろうという見解らしいが、詳細は司法解剖をしなければ断定できないとのことだった。

また遺体が父本人であることを根拠づけるために、DNA鑑定用に姉と私の唾液や口腔内の粘膜を採取した。

 警察署で調査結果を聞くと、次々に私たちが知らなかった父の近況がわかる。

父は一年以上前から糖尿病と肝硬変と食道がんを併発し、3ヶ月も入院生活を送っていた。

しかし、闘病生活に耐えきれず、無謀としか言いようがないが父は病院を飛び出すように退院している。

「薬だけで治すから、俺はもういいんだ。」

父は主治医にそう言っていたそうだ。

薬だけで治るような病状ではなかったのだが、本人がそれを望むのだから病院側も無理強いをしなかった。

結果的に、父は病院から処方された薬を真面目に飲むこともなく、帰宅した後は好きなだけ酒を煽って死期を早めたのだろう。

 司法解剖の結果が出て、「おそらく食道静脈瘤の破裂が死因でしょう。破裂後、一時間ほどで意識が朦朧とし亡くなってしまいます。」と聞いた。

享年68歳だった父が最後に見たもの、最後に聞いたものは何だったのだろう。

そして、何を思っただろう。

晩年は仕事をする意欲もなく、洞爺湖町に購入した一戸建てを一人でリフォームして住み、支給される年金だけで暮らした。

離婚後、娘二人とも疎遠になっていた父は、日々酒を煽ることしか楽しみがなくなっていた。

父は頭脳明晰で運動神経も良く、万能だった。

何故68歳の若さで孤独死を迎えなければいけなかったのか。

父の多才さは様々なことに活かされるべきだった。

 父とのあまりにも寂しい別れに、私が得た教訓。

父はきっとこう言うだろう。

“お父さんの人生も生き様の一つ。でもお前たちは幸せに生きろ。やりたいことをやれ。”

人間はいつか必ず死ぬ。

だから後悔しない人生を送るために、少しでもストレスやつまらないことなどから解放されたほうが良い。

生きている間に、辛いと感じる時間などは少なければ少ないほうが良いのだから。


 39歳。

父の死から、私は大きな課題を得たと思う。

ストレスに負けたり、心身ともに弱ったりしながらでも、真面目で勤勉な会社員を貫くほうが人として折り目正しいのではないかとこれまでは考えてきたが、他人から見て勤勉か真面目かなどという尺度のことは、もはやどうでも良くなってきていた。

とにかく、生きている間で体が元気なうちに何でもかんでも楽しんでみることだ。

 義父があのような壮絶な亡くなり方をしていたというのに、勇はその後も何一つ変わらなかった。

悲劇的な父の死を経験した私を少しでも可哀想だと思うのなら、少しくらい優しくしてくれても良いのではないか。

私の淡い期待すらも、勇はあっさりと裏切ってくる。

そうこうしているうちに、私の心情は勇への不満などという軽いものではなく、すでに彼の人間性すら疑い始め、とてもじゃないが愛しているとは言えない存在になってしまった。

誰よりも勇を心の中で憎しみ、恨みはじめた。

私が今悲しくて不幸なのはすべて夫の勇のせいであると。

 家庭はひどくつまらなく不愉快の根源になっており、仕事上の顧客として知り合った4歳年上の鳥羽博という男性と二人でよく食事をして帰るようになった。

一流企業の課長職である鳥羽は単身赴任をしていたが、金まわりはよかった。

家族と離れて暮らしている分、一人の生活では様々なことを自由にさせてもらっているのかもしれない。

毎日のように鳥羽に食事をご馳走になって帰宅しても、私の金銭面には何一つ影響も出ず、優雅な気持ちになれて満足していた。

鳥羽は聞き上手で話しやすく、私が夫・勇への不満をついつい漏らすと、親身になって熱心に聞いてくれた。

不満や愚痴の聞き役になってくれるだけで十分ありがたかったが、つけ加えるように鳥羽は必ず

「俺が由紀ちゃんの旦那だったら、絶対にそんなことにしないのに。すごく可愛がるし幸せにする。」と言った。

私を励ますためのリップサービスだとは思いつつも、内心嬉しい気持ちになり

“本当に私と一緒になってくれたらいいのに”

そう思うようになった。

 鳥羽とは明らかに恋をしはじめていた。

休日に自宅を抜け出し、鳥羽と待ち合わせてドライブに出かけ、海沿いのホテルに入った私たちは急ぐように体の関係を持った。

鳥羽に抱かれて天井の模様を眺めながら、既に勇と離婚することを固く心に決めていた。

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