culmination
夏休みの間、過去の私のことと、寅次郎のことを考えない日はなかった。二つは星座のように密接に結びついて分かちがたく、時折その観測を阻むように、蜷川さんの家で聞いたあの言葉が紫色の雲となって空と私自身の間を阻んだ。
ある種の失敗からは何も学べない、ってことが、貴方にとってあるいは一つの教訓になるのかもしれないわね。
蜷川さんの教訓は、一字一句過不足なく刻み込まれていた。紙に書き起こして、何度も頭の中で反芻した。眠れない夜には、実際に口に出したこともあった。どんな手段を用いても、一人で繰り返す教訓は蜷川さんが言い放ったときのような説得力を帯びてはいなかった。暗闇の天井に向けて放たれた五十五音は、それぞれでは意味を為さない独立した文字となりちりばめられ、やがて消えてしまうのだった。
*
ある日の夜、私は思い立ってクローゼットの奥に眠っていた、明るいピンク色をしたエイトホールのドクターマーチンを取り出した。埃っぽいクローゼットに数分身を沈めていただけで鼻の頭に汗をかいてしまうほど、冷房をかけていない室内は蒸し暑かった。
誰とも被らないから、という理由で、中学二年生のときにお小遣いをはたいて手に入れたそれを履くことも、高校生になってからはなかった。捨てるのではなく、クローゼットの肥やしとしていたのは、私の弱っちい決意の表れではないだろうか。
ダメージデニムも、派手なペイントが施されたタンクトップも、レザーのジャケットも、フープリングも、同じ場所で一塊となって黙々と時を忍んでいた。数ヶ月振りに日の目を浴びたそれらすべてが私には懐かしく、あたたかい光を放っているように見えた。
私の決意は、薄っぺらい扉一枚分の脆弱なものだった。かつての私にとっての嗜好品と言っても過言ではないそれらのアイテムが日の目を見ると、私自身の中にずっと眠っていた原始的な欲求は、坂の頂上から押し出された車輪のように勢いよく回っていった。
時計の針は二時過ぎを指している。夜遊びなんてほとんどしたことはない。いつもならば眠っているような深い時間に怯みかけたけれど、窓の外では、街灯が孤独な光を放って私を誘っていた。それは、私を誘うためだけに用意された、世界でただ一つの光に見えた。部屋着を脱いで、一つずつかつての自分を取り戻していく。懐かしい匂いと色に、満たされていく。そうか。やっぱり私は死んでなんかいなかったんだ。ようやく確信することができた。
親を起こさないよう慎重に、玄関まで進む。ドアを開けると、夏のぬるい夜風が優しく吹き込んできた。風は、私を取り戻そうとする私を応援してくれているようだった。
飛び石を静かに踏みしめ、キイイ、と高い音を上げる門扉に飛び上がりそうになりながらも、どうにか家を離れることができた。緊張しているからか、ジャケットを着ているからか、もしくはその両方か、汗が身体中で噴出しているのがわかる。時の流れからはぐれたように静かな住宅街を、ドクターマーチンで進んでいく。少しずつ、自分の周りに散らばっていた破片が集まっていく感覚がする。それらがあるべき姿に戻ったとき、私はどこまでも歩いていける気がした。
あるいは、単純に時間の経過が傷を癒したという、ただそれだけのことなのかもしれない。蜷川さんという友達もできた。相手の言葉の裏を考えてしまうのは、かつて男の子たちが私にそうしたように、相手を過剰に意識し過ぎた結果に生じた、予定調和的な感情の機微だ。私は何一つ変わってはいないし、現実的な問題は何も解決してはいない。そもそも、何も問題なんてなかったのかもしれない。沈黙した世界を歩きながら、私は胸の裡の凝りを捨てていく。
寅次郎を想った。彼の不思議な顔と、当たり前の話を。他の女の子と比べて、私は彼の顔を等身大で見ることができる。いつも見下してそう、と揶揄されたこの身長のおかげで。
蜷川さんを想った。私よりもずっとハードな過去を持つ、蜷川さん。今でも屈託なく生きているタフな彼女に名前を呼ばれると、それは何よりの肯定になる。
そんな単純な理由付けで、私はまた一つ、二つと身軽になることが出来た。
学校を休んでまで敢行した、あの無意味で滑稽な個人的儀式の途中で、私は十五センチ髪を切った。特に注文を出したわけではないけれど、当時の担当美容師がそう言っていたのだから間違いないだろう。あれから何度かの後退を経て、今では三分の一ほどを取り戻すことが出来ている。
悔しいなあ、と私は鉛色のため息を吐きたくなった。ほどけかけたリボンのようなパーマの残滓は、今の私に似合わない。ずっと気に入っていたセミロングの黒髪。どうしてパーマなんて当ててしまったんだろう。寅次郎に話したら、笑われるだろうか。もしかしたら、憤慨するかもしれない。彼はパーマヘアに誇りを持っているようだから。
蛾のたむろする自販機を通り過ぎ、塗装の剥げかけたポストをすれ違いざまにポン、と叩いて、北に向かって伸びる階段を登っていく。途中で立ち止まって、私は空を見上げた。夜空には紫色の雲が広がって、上弦の月は心臓を冷やすような鋭角さで佇んでいる。「革命の夜だ」と私は声に出した。続く者は誰もいない。鬨の声は上がらず、世界は変わらない頑なさで沈黙を守っている。私は少しだけ口角を上げて、それ以上口を開かずに再び歩きはじめた。
私がかき集めた破片は、寅次郎と蜷川さんから貰ったものだと気付く。そして今、心の中で小さなプリズムを作り上げていた。私が放つ濁りの混ざった光は、プリズムの中で屈折し、鮮やかな虹色に生まれ変わっていく。きっとそれは、中学生の私には見ることのできなかった、特別な光景なのだと思った。
失われた十五センチを取り戻すまで、私は完ぺきな私を迎え入れることができない。しかし、いつかまた唐突に、忘れた頃にきっと帰ってくる。そのときは、まるで鏡に向かって謝るように、私は私に対して詫びを入れよう。「ごめん」と。「もう何があってもショートヘアにはしないよ」と。
だから、せめてその日が来るまで、私は未完成の私を守るために、にたりと笑う悪魔と闘わなければいけない。冷たい水の中をふるえながらのぼっていけ、という歌を思い出す。恥ずかしい話だけれど、私はこの歳になっても泳ぐことができない。だから代わりにこうして、何かを目指すように汗をかきかき階段を上っていくしかない。
夏休みが終わったら、寅次郎に自分の気持ちをぶつけよう。だって私は本来、直情的な人間なのだから。そして、私は貴方の名前が好きだと、はっきりと言ってやるのだ。
町を見下ろせる高台に着いた。屋根の付いたベンチと、腰の高さほどの柵がある。この場所に来たのは初めてだ。駅前の繁華街のネオンが、異世界のきらめきを放っている。
私が登った階段の分だけ、風は強さを増していた。私は顎を伝う汗を感じながら、とうとうジャケットを脱いでしまう。タンクトップ一枚になるけれど、何も気にする必要はなかった。火照った体が、明日に向かって伸びる髪が、自分が生きる世界に浸されていく。
その確かな実感は、一生忘れられない清々しさだと思った。
ミラーとプリズム 有希穂 @yukihonovel
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