fable

 その日、私たちは藤棚の下で多くのことを語った。そして、寅次郎の言った通り、私たちには外見上に限らず、多くの共通点があった。兄弟がいないこと。ご飯よりもパンが好きなこと。ビートルズが好きなこと。初めて聞いたアルバムは『revolver』で、一番好きなナンバーは『Here, There and Everywhere』。朝はわりにすぐ目が覚めること。眠れない夜が多いこと。キツネが好きで、イタチが嫌いなこと。


 そして、彼の話を聞いていくうちに、私は彼に対してやはり過去の自分を投影せずにはいられなかった。蛍光色やエッジの効いたデザインを服装や小物に取り入れるのが好きなこと。何事も包み隠さず話すようにするのを信条としていること。今はもういない私が彼に宿っているようだった。


 私が見捨てた私。私が殺した私。それらが鮮明に息づいている寅次郎から、ずっと目が離せなかった。私は、過去を打ち明けた。会って間もない相手だけれど、自分と似たような顔をしているからか、寅次郎のことはほとんど無条件で信頼してしまっていたのだ。


「君は、俺が醜いと思うかい?」


「思わない」


 それは嘘ではなかった。


「だったら、過去の自分を殺した、だなんて思わなくていいんじゃないかな」


 その言葉に、何も言い返すことが出来なかった。



 次の日も、その次の日も、私は学校に向かった。無愛想で無口な私にそう何度も話しかけてくれるお節介はいなかった。クラスメートたちの視線も、気付けばなくなっていた。教室には大小様々なコミュニティが成立していて、みんなその内側ばかりを向いている。自分がそれらが放っている膜のようなものの外に弾き出されているのを、私ははっきりと感じた。


 五月に入り、六月が過ぎても、取り巻く状況が良化するはずもなく、孤独の日々は続いた。私の世界は、音楽と本と映画で――つまりごく個人的な範囲で完結する世界で――成り立っていた。教室では一言も話さず、許される時間は常にイヤホンを外さなかった。誰にも干渉や関心を向けられなければ、一人で過ごすことは大した苦痛ではなかった。中学校時代だったら、決して受け入れられない状況だと思う。やはり、私は生まれ変わったのだ。生まれ変わることが、できたのだ。


 そんな風な、気の遠くなるような時間噛み続けたガムのように味気ない季節の移り変わりの間にも、寅次郎とは顔を合わせば時折話をした。私が学校で話す生徒は、彼一人だけだった。渡り廊下で、中庭で、お互いの近況や世間話をした。パーマが緩くなったり、前髪が短くなっていたりと、髪型は日を追うごとに些細な変化を遂げていき、私たちが初めて出会った時のような奇跡的な一致が再現されることはなかった。それが原因なのかはわからないけれど、二人の間に生じていた親密な空気も、あの日をピークにどんどんと薄まっているのではないかと私は思い始めた。私が遠くから一方的に眺めている寅次郎の傍には、いつも仲良さげにしている男の子がいる。女の子と二人で廊下を歩いている所を見たこともある。私は彼の苗字を知らない。クラスも知らない。連絡先だって。知っているのは取るに足らない共通項だ。


 彼にとって、私はどんな存在なんだろう。


 私にとって、彼はどんな存在なんだろう。 



 七月の半ば、期末テストが終わって夏休みまであと一日、というその日、ある変化が起きた。入学して初めて、友達らしい友達ができたのだ。


 きっかけは、私が愛用している音楽プレイヤーを落としたこと。それを拾ってくれたのが蜷川にながわさんだった。


「私も好きなの、ガンズ・アンド・ローゼズ」


 蜷川さんはクラス委員をしている、眼鏡をかけたボブカットの女の子だった。派手な外見をしているわけでもなく、目立つような子ではなかったけれど、誰とでも堂々と話をするし、普段から背筋がピンと伸びているため、周囲よりも年上に見えるとずっと思っていた。そしてその日に知ったことだけれど、彼女は事実留年しているのだった。


「知らなかったの、クラスで貴方くらいじゃないかな」


 と蜷川さんは呆れた。


 私たちはガンズ・アンド・ローゼズを仲介とし、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンを潤滑油として、加速度的に仲を深めていった。彼女と話している間、入学式の時に感じたあの不快感は一度たりとも蘇ることはなかった。そのことに、どれほど安堵したかわからない。


 今日が一学期最後の日であることに、私は落胆した。すると蜷川さんは、こともなげにこう言った。


「何言ってるの。夏休みも会えばいいじゃない」


 連絡先、交換しましょ。


 私は、もう少しで泣いてしまう所だった。


 終業式の後、寅次郎に声をかけられた。自販機で同じ炭酸飲料を買って、私たちは中庭の木陰に移動した。頭の上でツクツクボーシが鳴いている。頭上を確認し、おしっこのかからぬ場所を見極める。


 寅次郎は、半袖の開襟シャツから伸びた腕をさすりながら、もう夏だね、と当たり前のことを言った。彼はいつでも、その時の季候や時事に沿った定型句でトークの口火を切った。私はそんな当たり前の話がそれなりに好きだった。


「そうだね」


 と私が言うと、寅次郎は白い歯を見せる。ほとんど脊髄反射的に、私の視線はそこに誘導された。


 寅次郎は緩くなったパーマを再び引き締めていた。髪型だけが、四月の半ばのあの日に戻ったみたいだった。私の方はといえば、美容院では毛先をカットしてもらっているくらいで、徐々に襟足がうなじを隠し始めていた。


「夏休み、何するの」


 と寅次郎は私に訊いた。


「何って言われても」


「バイトとか、原付免許取りに行ったりさ」


 友達と海に行ったり、というようなことを口にしなかったのは、彼なりの優しさなのかもしれない。


「貴方は、休みの間、何するの」


「俺はバイトをしたり、原付免許を取ったりするの」


 小さな白い歯が覗いた。本当に、私はいつも寅次郎の歯ばかり見てしまう。


「免許取れたら、後ろ乗せてやろうか」


「いい。大体、原付って二人乗り出来ないよ」


「大丈夫だって。セカチューでもやってたんだし」


 フィクションの中の出来事を引き合いに出されても困る。困るけれど、そこまで言われると断る理由も見つからなかった。嬉しいのか、戸惑っているのか、よくわからない。


 今日、友達が出来たことを話した。連絡先を交換したこと。もう少しで泣きそうだったこと。すると寅次郎は「よかったじゃん」と肩を叩いてくれた。早くもぬるくなり始めた炭酸飲料を啜りながら、私はうん、とか、ありがとう、とかそんなことをぼんやりと口にした。


「夏休みも、会うことになってるんだ」


「よかったなあ。それはもう、立派な友達だよ」


 こういう時、男の子は簡単に「俺とも会おうよ」と言ってくれるものではなかっただろうか。中学校のときには、黙っていても男の子は周りに寄ってきた。彼らは私の言葉から在りもしない真意を汲み取ろうとし、笑ってしまうほど的外れなことばかりを言った。あのとき私は、出来の悪い生徒の答案用紙を答え合わせしているような気になっていた。その解答は間違っている。それはここが足りない、という風に。


「それじゃあ、お互い、日焼けには気を付けようぜ」


 じゃあな、と手を振って、寅次郎は行ってしまった。四十日余りの別離は、彼にとってはそれほど重大なことではなさそうだった。


 *


 夏休みが始まって三日ほど経った日、蜷川さんから連絡があった。図書館で、一緒に宿題をしないか、という誘いだった。


「恋って、わりに地味な服を着るのね」


 その日私は紺のサマーニットに同じく紺のフレアスカートという組み合わせだった。蜷川さんはくすんだピンク色をしたオフショルダーのカットソーにタイトジーンズという、どちらかというとイメージにそぐわない服装で、普段と違ってコンタクトをしていた。


 私たちは黙々と公式を解き、英文を和訳し、次の実力考査に出るという活用形を暗記していった。図書館は静かで、夏を忘れさせるほどの冷気に満ちていた。


 一時間ほど取り掛かった後、私たちは冷えに負けて図書室を出ることにした。しかし外に一歩出ると、コンクリートによって鍛え上げられた熱気に襲われる。


「私の家に来る?」


 と蜷川さんは言った。


 私たちはそれぞれ日傘をさして歩く。十分ほどで着いた彼女の家は簡素なアパートだった。一人暮らしをしているそうだ。中は当然のように整頓されていて、エアコンが回るとやがて中庸な温度が私たちをほぐしていった。


「蜷川さんはどうして留年したの?」


 私は気になっていたことを訊ねてみた。そして口に出してから、まるで以前の自分のようだ、と思った。頭の中で浮かんだ言葉をそのまま掴んで放り出す。こう言った資質のようなものは、簡単に捨てることは出来ないのだろうか。だとしたら、私が手放したはずの私は、まだ心のどこかで生きているということになる。ひっそりと、しかし確実に。


 ――過去の自分を殺した、だなんて思わなくていいんじゃないかな――


 ずっと心であたためていた寅次郎の言葉が、今になって浮上してくる。もしかすると私は。私は……。


「旅行」


 蜷川さんの言葉が、内を向いていた意識を引っ張り出す。


「旅行?」


「そう。どうしても十六のうちにアメリカに行きたくってね。親に頼み込んで、留学させてもらってたの」


 向こうで蜷川さんは、ヒップスターにかぶれたボーイフレンドを作り、マリファナを吸い、クラブにも通った。大人しそうな風貌からはにわかに信じられないけれど、どれも本当のことだそうだ。


「その諸々のことが親にばれてね。強制送還させられた。私はあっちでの生活をかなり楽しんでたから、もう何もやる気でなくて。こっちに帰って来てろくに勉強しなかったから、単位もぽろぽろ落としたわね。気付いたら学校もサボりだして、無事に留年よ」


 それがついに親の逆鱗に触れてしまったらしい。おまえの顔なんて見たくない、というようなことを言われ、半ば勘当される形で家を追い出されてこのアパートをあてがわれたということだった。私は部屋を見渡す。CDラックには、ガンズ・アンド・ローゼズ、クリスティーナ・アギレラ、ボニー・レイットが並んでいた。


「どう? 引くでしょ」


 引きはしないけれど、ただただ凄いなあ、と思った。私には真似できない。


「先に言っとくけど、この話に教訓はないからね」


「え?」


「これは勘だけど、貴方が私の失敗談に何かを求めてそうだと思ってね」


 どうだろう。確かに私は、蜷川さんの留年というエピソードから、今後の糧や滋養となる教訓のようなものを引き出そうとしていたのかもしれない。


「ただ、そうねえ」


 ――ある種の失敗からは何も学べない、ってことが、貴方にとってあるいは一つの教訓になるのかもしれないわね。

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