epiphany
二週間ぶりの教室は、まるで違う星の世界だった。それこそ異星人でも見るようなクラスメートの遠巻きで遠慮がちな視線を一日中浴び続け、当初胸の中で燃えていた意気込みの炎は、完全に消えてしまっていた。
放課後になると自分に向けられた様々な感情や思惑が入り混じった視線から逃げるように教室から出て行き、俯きながら廊下を歩いた。
色んな映画を見て、本を読み、音楽を聴いて、髪型を変えて、ファッションスタイルを一新して、心に一つの核を用意しても、根本的な部分は何も解決はしていなかった。結局のところ、自分一人だけがよそ者であるかのような環境に委縮して、一日を通して一度たりともまともに会話が出来なかったのだ。クラスメートの誰が話しかけてくれても、その言葉の裏を読み取ろうとするのを止められなかった。そんな愚かしい習慣が、知らない間に根付いていることに気付いた。
自分は、人の言葉が信じられなくなっている。人が怖くなっている。その事実が悔しくて、悲しくて、恐ろしくて、私は歩きながら今にも泣きだしてしまいそうだった。
誰にも自分の顔を見られたくなかった。爪先ばかり凝視をしながら廊下を進んでいると、不意に小さな引力を感じた。
――それは大げさに言うならば、運命の顕現に近かった。理由もなく、自分の中に眠る原始的な本能を揺り動かされた気がしたのだ。私は抗いようもなく自然に、そっと顔を上げた。すると、向かいから歩いてくる男の子の姿が映った。
すれ違う直前に目が合ったとき、私たちは同じタイミングで声にならない声を上げて、同じタイミングで立ち止まった。
彼の目線は私とまったく同じ高さにあった。髪型は、前髪やサイド、襟足の長さと巻きの強さが私と瓜二つのパーマヘア。色白の肌、少し上を向いた鼻の穴、唇の薄い口許、二重だけれど鋭い双眸、存在感のある伸びたまつ毛。
そこにあったのは、まさに私の顔だった。自分の顔面を形作るおおよそすべての要素が、信じられないことにそっくりそのまま彼の顔面に貼り付けてあったのだ。
その時私たちが立ち止まっていたのは、ものの五秒ほどだったと思う。相手が何か口を開きかけたのはわかっていたけれど、私はたまらなくなって足を進めた。競歩の選手にでもなったかのように、かつてない速さで歩いた。脛が伸び切って痛い。それでも、歩くことをやめたらその場にくずおれて立ち上がれなくなりそうだった。それほどまでに、自分が見た男の子の顔は衝撃的だったのだ。
無茶なペースで長い距離を進めるわけもなく、私は早々に校舎の脇のベンチに座り込んだ。切れ切れの息をなだめながら、今しがた目にした光景を思い出す。そこにあったのは、まるで男の子の制服を着た自分の姿だった。もしかしたら、私は相当参ってしまっているのかもしれない。そうよ、あれは見間違いか何かで、ありもしない幻だった。
――そう信じようとしたのに。
「人の顔見て逃げるなんて、ひどいって」
彼は、春風に吹かれる綿毛のように軽やかに、私の前に降り立った。
私が見上げた先には、間違いなくさっきの男の子が立っていた。そして彼はやはり、私の生き写しのような顔をしていたのだ。
私はとうとう、その場で泣き出してしまった。二つの受け入れがたい事実に挟まれて、心がクラッシュしたのだ。放課後で人通りも活発な校舎の出入り口の脇で、私は声を上げて泣いた。その時、適切な泣き方がわからなかった。しゃくり上げすぎて、呼吸が滞ってしまう。そして、前に涙を流したのが、もう思い出せないほど昔だったことに気付いた。
男の子は私の手首を掴んで立ち上がらせ、そのまま歩き出した。周囲には多くの生徒がいて、こちらを見ていた。私は自由の利く左手で両目をこすりながらどうにか息をして、連れていかれるままに足を進めた。
校舎の角を二度ばかり折れて、気が付くと私は藤棚の下にいた。緑の葉が茂る隙間からいびつな形に四月の光が差し込んで、ベンチに並んで座る私たちをまだらに照らし出していた。少しだけ緑の匂いを乗せた風が優しく吹いて、フジの葉を揺らしていた。
「落ち着いた?」
私は俯いたまま、ほとんど勢いで二度首肯する。左手の甲にはメイクの跡があった。きっと今、私はひどい顔になっている。
「急に泣くんだもんなあ。焦っちゃったよ」
スピッと鼻を啜った私の顔を、彼は腰を低く落として覗き込んだ。三十センチほど先にある顔を見て、私は少しだけ落ち着きを取り戻した。彼の左目の目尻には、私の顔にはない泣きぼくろがあったからだ。
「……ごめん、なさい」
と私は言った。彼は最初目を丸くして、ゆっくりを頬を緩めていく。同じような顔の造りとは言え、今の私には真似できそうにない表情筋のスムーズな変化だった。
「やっと話してくれた」
「え?」
「顔見た時からずっと黙ったままだったからさ。もしかしたら喋れないのかと思った」
「喋れないわけない」
「分かったよ」
私と同じ顔をした男の子は、やはり私にはできそうにない笑い方をした。そして、私の目をしっかりと見つめる。
「俺たちは、たぶん似た者同士だ」
たぶん、という副詞に、私は違和感を覚えた。きっと第三者から見たって、私たちは文句のつけようのないくらいに似た者同士のはずだ。
「恐ろしく似通っていると思うんだけど」
「実はそうでもない。見たところ俺は君より口が少しだけ大きいし、君は俺より少しだけ鼻が低い。輪郭はきっと君の方が少しだけシャープだ。確かに俺たちは似ている。だけど、恐ろしく似通っているわけではないんだな。――ただ、凄いよな。髪型だけは文句なしだ」
奇跡的だよこれは。彼はそう言って目を細めた。私はその横顔に、ほとんど反射的に過去の自分を重ねてしまった。いつの間にかはぐれてしまった、単純で愚かしくも、屈託のないまま生きていた自分を。そこで笑っている男の子は、すでに死んでしまった私なのかもしれない、と、そんなことを本気で思った。
「それに、俺が言いたいのは表面上のことじゃあないんだよ」
「どういうこと?」
「わかんないならいいよ」
男の子は、トラジロウと名乗った。その名を耳にした時、私の頭には、渥美清の姿がポン、と浮かんだ。そのことを正直に話すと、彼はさっきとは違う、困ったような笑顔を見せた。
「歴史の先生にも同じことを言われたよ」
ブレザーのポケットから生徒手帳を取り出し、白紙の部分に寅次郎、と流れるような筆跡で記した。彼の白く、細い指先は私の中の寅さんとは真逆の印象を私に与えた。
「俺はね、この名前が嫌いだよ」
と寅次郎は言った。私は、おじいちゃんが浅丘ルリ子のファンで『男はつらいよ』シリーズをよく見ていたため、寅さんを目にする機会が多かったことを話した。何を伝えようとしたのか、自分でもよくわからなかった。けれど、最終的に私が口にする言葉は決まっていた。
「私も、自分の名前が嫌いよ」
不思議な感覚だった。それは、どこまでも追いすがって私を逃がさない過去の象徴のはずだったのに、すべてを言葉にして解き放ってしまうと、胸に澄んだ空気が流れ込んでくるようだった。
「やっぱり」
再び、死んだ私の笑顔が現れる。
――俺たちは、似た者同士だ。
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