第22話 朝日を見ない者を生み出す夜明けの化け白猫……

 


 本能寺の変の前、丹波平定を任された明智光秀公が何故故に主君を弑逆しいぎゃくしたのか?

 丹波とは田庭と言い、「たにわ」が「たんば」へ転訛したという。

 丹波とは蝮捕むしよけとして強壮剤の蝮酒(焼酎の蝮浸け)を作る為に、まむしを獲る場所だった。

 蝮を田地火たじべとして表現する時、太刀火たじひは土神=蛇神としての天火明命あめのほあかりのみことが蝮捕りの名人の事で、仇無しや? という、蛇がいないか大丈夫か? という、農作業する時の蝮捕りが如何に重要であったかを表現する言葉だったのだろう。 

 超美男子の俳優で草刈正雄さんがまだ存命だが、草刈りをする為の草刈鎌は忍者の武器でもあった。

 草を薙ぐ為の足を使う戦国蹴球サッカーにおいて、斎藤道三公が蝮の道三と言われた事が、不破関とされた関ケ原の蝮を既に捕獲していた事は、関ケ原が東西の雌雄を決する場所である事を最初から認識していたからであったろう。

 丹波と但馬の関係で、柳生一族は大和守でもあったが、柳生石舟斎の五男であった柳生宗矩公は但馬守であった。

 但馬は太刀火=田地火であり、但馬は田道間守たじまのもりと言って、右近の橘で有名な橘一族の太祖であった。

 橘一族は縣犬養一族であって、聖武天皇(45代天皇)の妻である光明皇后と言う、らい病と呼ばれるハンセン病の疾患を患った患者の皮膚を舌で舐めて癒したという伝承がある女性だが、その光明子の父親は藤原不比等で、母親は縣犬美千代が改称し、橘三千代となったが、橘諸兄もろえを前夫の美努王みぬおうの妻だった時に産んでいる。

 キリスト教の開祖イエス・キリストの時代の11代目垂仁天皇陛下が、現在の茨城県に当たる常陸ひたちと比定=比類される常世国に、田道間守を派遣した記紀の記録があるが、田道間守は「あいだ」=間という、用命天皇のきさき間人はしひと皇后(聖徳太子の母)の名前で明らかなように、天と地の間にある存在としての柱を意味するのに違いない。

 現在でも茨城県守谷市に会田あいた一族がいるが、会田が間であって、田道間守が派遣された常陸=日高見王国に土着した一族かもしれない。

 会田と書いて、「あいた」「あいだ」と読む場合がある。

 茨城県守谷市の守谷は守る谷と書くが、谷はサンカを意味し、同和地区とも関係が根深いサンカ一族を守る谷としての守谷である可能性もある、

 谷はしゅくでもあり、宿営としての宿。

 サンカと忍者の関係は、白土三平の「カムイ伝」でも明らかだが、会田一族は清和源氏の滋野・海野一族の後裔ともされるが、海野一族は甲賀者でもある。

 信州諏訪には甲賀三郎伝説があって、自分の妹でもある女性が山中に誘拐された時、その山の洞窟から地下へ降り、妹を探し出したというイザナギ・イザナミ伝承にも似た説話が残されているのだ。

 諏訪の神とは諏訪大社の守屋山の事であり、ユダヤ人が訪れる礼拝の場所は、茨城県守谷市ではなく、信州=長野県の諏訪市にある諏訪大社の方である。

 諏訪大社の御神体である山は守屋(矢)山だが、アブラハムがイサクを奉献した山の名前が旧約聖書創世記に記述されているが、山の名前がモリヤ山と言うのだ。

 サンカという流浪の民を守る谷としての守谷であるなら、山を守る神と谷を守る神としての二面性を持つ、川守として(川守田英二さんと言う日猶同祖論研究家がおられたが、その研究本を自分は購入している)の川辺で共同体を営むセブリも、サンカの生活一形態でもあった。

 農地を持ち、米を作る農民を百姓と言い、ももかばねとしての部族ではなく、苗字を持たない一族が、サンカ、同和、被差別部落として現在でも複雑な要因を孕んだ社会的な問題だが、大体学校周辺の土地には同和地区が多い。

 守谷がサンカ、同和の方々を守る場所でもあるなら、ここで同和差別をするような一族こそ、村八分の対象になるだろう。


 大体の一族が、サンカの一族であるのだから……。



 明智光秀公が丹波平定を命ぜられた時、明智光秀公が主君信長公の命令に従わず、主君を弑逆しいぎゃくした事で、明智光秀一族(土岐源氏の名流)は、サンカ一族と全面戦争をすることなく済んだのだ。


 有沙ありさの母は、サンカ一族の踊り子だった。

 サンカ一族の踊り子であった女性を、イエズス会の修道士イルマンだった金髪の青年が助け、その二人の間に生まれたのが有紗であった。


 金髪のイルマンだった青年は、その後殺された。

 キリスト教の十二弟子の一人にバルトロマイがいるが、異教徒に十字架刑に処された時、生きながら生皮を剥がされた弟子であった。

 バルトロマイとはアルファロメオの事だ。

 有沙の父親の金髪のイルマンは、生皮を剥がされ、その金色の髪の毛は全部抜かれ、ある物が作られた。



 金色の毬。




「土屋様?」


 土屋様と呼ばれた男は後世、大久保長安と呼ばれる男だが、この当時まだ大久保姓を名乗っておらず、土屋長安として甲斐の武田家に仕える者だった。


「この金色の毬はいかほどする?」


「土屋様。この金色の毬には先約がおられます」


「ほうか……。どこぞの大名が高値で競り落としたのか?」


 土屋長安は顎髭に手を遣りながら腰を屈めた。


「奥州米沢の伊達殿です……」


 同和、サンカの方々は東北には少ないという統計がある。

 日本を戦国乱世へ繋げる原因を作った吉田神社の神官、吉田兼倶は8代将軍足利義政の正室日野富子に近づき、神祇長上を名乗った後で1465年に生まれた足利義尚の将軍継嗣問題を端緒に始まった応仁の乱作った、足利将軍家に自分が種を撒いた子供を送り込んだ首魁しゅかいとして、戦国乱世の影のフィクサーとなっていた吉田神道だが天皇家の神道は神祇伯白川家の白川伯家神道になっている。

 人に罪を着せ、渡来系の方々に日本の人間の罪を着せていた存在の言い分は、

「あいつらは人ではない、人外のもの者だ」

 

 東北に少ない同和、サンカの方々。

 吉田神道が罪を着せていた人外の方々は、東北へ救いを求めた。


 鬼の到来。


 王仁は「ワニ」であり、宝物の守護神であった。


 奥州金山。


 常陸入道念西を祖とする伊達家の統領になるべく、


 伊達藤次郎政宗は、五歳か六歳の童子だった。


 世には寵童と言う、主君に愛される美少年がいたが、それは誰からも認められる美少年であって、一人だけで思うものでもない。


 後世の人間が呼んだ、


 人呼んで、


 吉田の化けキヨ


 傀儡子くぐつしの中で、人を腑分けし、少女の体躯を寄せ集めようとした悪魔の傀儡子……。


 人呼んで、


 吉田の化けキヨが縁日に見せる興行で操る美少女の人形の正体を知らずに、嬌声を上げる民衆。


 醜悪な顔下半分を隠し、不気味な笑いを浮かべ、口角を釣り上げるその笑みを見たモノは明日の太陽を拝まないと言う。


 朝日を見ない者を生み出す夜明けの化け白猫……。




第22話 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る