第4話 しょうにびょうとう
何度その感触を巡ってみても、類似している物が思いつかない。全く新鮮で、どう形容していいのか分からない感触だった。だが、決して心地のいいものではない。
怪獣の足が間近、それもプリウスの上にもたげられた時、多紀は目を瞑らなかった。映画や小説であれば、グッと死から目を背けたくなるのだろうが、その時の彼にはそれすら出来なかったのである。
怪獣の足は車を、そして多紀の身体をすり抜けるようにして、地面へ接地した。隣でポカンと口を開けている月舘の顔がくすんで見える。ひんやりとした感触が肌を包み、胸の奥が少し寒くなって、鳥肌(これは恐怖による物ではなかった)が立った。
一睡も出来ぬまま、朝を迎えた多紀は直ぐに月舘の所へ向かった。
結局、一晩掛かった追跡は何の成果もあげなかった。怪獣はそのまま東へ、海岸線沿いへ進み、1時間ほどすると霧散するように消えてしまった。多紀が病室に戻って来たのは、朝焼けが見え始めた頃だった。
月舘とネームプレートの掲げられた医局のドアを開けると、彼は眼の下に大きな隈を作ったまま、自分のデスクに座っていた。
待ち構えていたように多紀を見ると、ソファへ座るよう促す。
「分かったのは、君の事故の原因だけ。ということか」
カーブを曲がった先に現れた怪獣に驚き転倒― 多紀は調査書にそう書かれているのを想像した。あの2人の刑事が真剣にそれを見ているのを思うと吹き出しそうになる。
しかし、脳ミソははっきりと覚えていた。今なら、壁のような黒い影に驚き、ハンドル切りそこね、ガードレールが横倒しになりながら迫って来る様子まで克明に思い出すことが出来た。
「夢じゃないですよね?」
月舘は『アリピプラゾール』と書かれた錠剤を口に放り込む。バリバリと錠剤を噛む音がした。
錠剤が入った瓶の隣には折り紙があった。巻貝の折り紙。
それは多紀の元に置かれていたものと全く同じだった。
折り紙の脇には「先生、しゆじつありがとお」と子供にしては丁寧な字でメッセージが添えられていた。
一瞬、怪獣の事を忘れ多紀はその折り紙とメッセージをポカンと見つめた。月舘は多紀の視線を追って、折り紙を爪で弾いた。ゆらゆらと折り紙が揺れる。
「偽物だよ。この折り紙と一緒でね。重さが無くて、投影された映像みたいに実体がない。映像だ、あれは」
映像― 病室に戻りながら多紀はそう呟いた。
映像のように焼き付けられた怪獣。意味不明な渦の中にいて、どんどん飲み込まれていくような気分が彼をゾッとさせた。
早くここから去って行ってしまいたい― そう思った。
そんなことを考えると猛烈に彼女に会いたくなった― そのはやる気持ちはすれ違う車椅子の人影にも気づかない程だった。
病室に戻ると、また折り紙があった。
またか― と思って手が止まった。折り紙が軽く揺れているのだ。それはたった今この場所に置かれていったという証拠に他ならない。
多紀は急いで廊下を覗き込む。子供用の車椅子が背を向けて、廊下を去っていくのが見えた。
あの子だ― 直感的にそう思った多紀は途端に駆けだす。
いつも通りに走り出そうとすると、右足が痛んだ。大した事が無いとはいえ、太もも肉はえぐれているのだ。鋭く刺すような痛みに足を止め、手で廊下の手すりを掴みもたれ掛った。
車椅子はこちらを振り返ることなく、角を曲がっていく。
呼吸を整え、速足で角を曲がるとそこはエレベーターホールだった。
3つ並んだエレベーターの右端が閉まりかけ、そこから車椅子の車輪が見切れている。多紀は足を押さえながら進み、ボタンを押そうと手を伸ばす。
「待ってッ」
一体、誰なのか、なぜ、折り紙を置いていくのか。そして何が目的なのか、多紀は聞きたかった。ただでさえ、頭の混乱する状況。1つでも解決したいという気持ちに駆られ、ボタンを殴りつけるように押したが既に遅かった。
閉まった扉は開くことが無く、分厚い鉄板の向こうでぐぉぉぉっと言う駆動音が響いて来るだけ。多紀は大きく息を吐くとうなだれるように顔を上げた。
エレベーターの階数を表示するディスプレイが連続で点灯し、12階で止まった。
12階、小児病棟だ。
非常用階段を登り切った時、多紀の頭にはまだ間に合っているという確信があった。多紀の居る7階から約5階。力を入れる場所さえうまくコントロールすれば、太ももの痛みは何とか誤魔化すことが出来た。
自分ではそれなりに早く登ったという自負もある。
病棟内へ進む。一見するとそこは同じ建物の中とは思えない違いようだった。壁に大きく、ようこそ、しょうにびょうとうへ、の文字が張られ、タートルジャックやトーマス、アンパンマンの切り絵がデカデカと張り出されている。その壁も下とは違い、黄色い温かみのある色に変わっていた。
ナースステーションにいたスタッフが全員、息も絶え絶えになって現れた多紀を危ぶむような目で睨んでいる。既に数人の男性スタッフは立ち上がり、ステーションから出てこようとしていた。
多紀は一瞥をくれて、廊下を見る。
いた― 車椅子に乗った少年が背を向け奥へ進んでいく。
「き、君ッ!」
少年は車軸を掴む手を一瞬止め、振り向かず再び進み始めた。
追いかける意思を見せた所で、多紀の身体は強い力に押さえつけられた。
「ちょっと、あなたッ!」
耳元で怒号が聞こえ、多紀は反射的に振りほどこうと動いた。
「離してくださいッ! 僕は、僕はあの子にッ!」
動けば動くほど、多紀を掴むスタッフの手が増えて来る。流石、暴れる患者を制圧するのには慣れているようで、腕の関節や腰、上手く振りほどけない場所を的確に掴んでくる。
「ここは小児病棟ですよッ」
廊下の向こうでは少年の車椅子が向きを変え、病室へ消えて行く。代わりに、騒ぎを聞きつけた子供達の顔が次々と扉からこちらを覗き込んでいた。
中年の女性看護婦が子供達の前に立ちふさがり、部屋へ戻るよう先導する。
「離してッ! ………くそッ……ッ」
多紀は既に組み伏せられるようにひざを折られ、地面に倒れ掛かっていた。
丁度その時、
「浅倉さん……? 浅倉さんッ!?」
背後から聞こえて来た女性の声は聞き覚えがあった。
多紀を掴む腕が突然弱まり、多紀はその場に腰をつく。目の前にはあの看護婦― 大場結実がいた。手にはシーツと畳まれた病院のパジャマを持っている。彼女は周りのスタッフをいなし、手に持ったリネン類を傍にいたスタッフに手渡すと多紀に話しかけた。
「大丈夫ですか、浅倉さん」
多紀は頷き、差し出された手を握り立ち上がる
「ここは小児病棟だから、勝手に入っちゃダメですよ」
周に気を使い、小さな声で語り掛ける。多紀は掴まれた感触の残った腰を摩って首を振る。
「違うんです………あの、あの折り紙を………」
ドッと疲れが押し寄せて来るのを感じた。階段と、もみくちゃにされたことで息が切れ声を絞り出すのもやっとだ。多紀の様子を見た結実は看護婦たちに説明し、多紀の背中を押え少し離れた廊下の隅へ誘導した。
「大丈夫ですよ。話だったら私が聞きますから」
結実の優しい声がする。
息を整えているともうどうでもいいような気がして来た。なぜ自分は折り紙の主を追いかけて来てしまったのだろうと思った。
壁には子供描いた無邪気な絵が並んでいる。クレヨンの匂いが鼻を掠め、多紀はぼーっとしながらそれを見つめていた。何でもない絵が、はやる気持ちを抑え、好機の目に晒された心を落ち着けてくれるような気がしたが、それは逆効果だった。
そこにはまた、
つづき
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