第3話 午前2時の散歩
怪獣―
その言葉を何度自分の頭で検索をかけてみても、思い当たる節は何一つなかった。怪獣が特段好きな子供ではなかったし、深い思い入れも無い。
ともすれば、自分の抑圧された感情(例えば彼女への焦燥感とか寂しさとか?)が夢や幻覚として現れたのではと考えたが、それにしてはあの幻はリアルすぎた。
これまでに怪獣を見た事などただの一度も無かったので、それをリアルと呼べるかは分からない。だが、確かにそこに異物として何の脈略も無い物が立っているという感覚があった。
仮にもし自分の頭がイカレテしまっていたとすれば、もっと他の何かが見えたはずだ。(それこそ彼女とか)
少なくとも、怪獣の幻影は見ないだろう。
自分を納得させるためには理屈が色々と必要だったが、結局することは決まっていた。
不安なのは、それがいわば大きな博打であったことだ。
「子供の頃は好きだったのか?」
ベッド脇の椅子に腰かけ、頭を掻きながら月舘は言った。もう片方の彼の手は、白衣の中を弄っていた。
病院と言う場所は不思議なもので、陽が落ちると途端にその顔色を変えてしまう。日中でこそ清潔感と最新医療に満ちた白い城だが、夜には死と不安を内包した孤独の島になる。どこかで聞こえるうめき声やすすり泣く声。かと思えば、自分以外誰も居ないのでは、と思わせる不気味な静寂に包まれることもある。
消灯時間を遠に回った多紀の病室にも静寂と不安が漂っていた。窓辺では3個に増えた巻貝の折り紙が、月明りを受けて白く光り、僅かな読書灯だけがぼんやりと2人の影を壁に浮き上がらせていた。
「何がですか?」
多紀は窓の外を眺めながら言った。
「怪獣、が、だよ」
「いえ、特には」
慣れているのだろう、と多紀は思った。月舘に怪獣の事を話した時、彼は別段驚きも、そして嘲笑もしなかった。彼は腰を据えて、ノートを開くと多紀の話を一心にメモした。医者の顔は真剣そのもので、その奥には、「ついにきたか」という職人独特の輝きがあった。
そんな月舘でも、一緒に
惜しむらくは写真を取らなかったことだ。テレビでよく見る宇宙人や幽霊の体験談。それを見る度、論より証拠で写真でも映像でも撮ればいいのだ、と多紀は思っていたがその気持ちが少し分かった。ああいう理解できない状況で、常識的な判断をするのはまず不可能なのだ。
結局、月舘は多紀に説き伏せられ2人、夜の病室で怪獣をウォッチすることになってしまった。月舘としても、面倒な面接やカウンセリングをするよりもこっちの方が(色々と)速いという気持ちもあったのだろう。
「私が子供だった頃は世界中に怪獣が居たもんさ」
多紀は眉をしかめて月舘を見る。彼は口を開けて窓の外の月を見ていた。
「今はどうだか知らないが、昔は怪獣映画やテレビ番組がやたら滅多にやっててね。ゴジラとかガメラとか、ガッパなんてのもいたなぁ? 知らない? ガッパ」
多紀は首をかしげた。
「私も、子供の頃は怪獣っ子だった。ウルトラマンより怪獣。私なんかはみんなそうじゃないかと思うんだけどね。映画だって、テレビだって怪獣が見たくて見ている。私が担当している小児科にも一人、怪獣っ子がいるが、その子も同じことを言ってたよ。怪獣はパワーがあっていい、ってね」
「パワーですか?」
「そうだよ。普通の人は怪獣を悪意と暴力の象徴かなんかだと思っているかもしれないが、それは大きな間違いだよ。むしろ真逆だ。怪獣は自由とカタルシスの塊。彼らは誰にも縛られない」
これは何かの問診なのか?―多紀はふとそんなことを考える。窓の外は浅い闇が落ちて、拭いてきた風に何処からか桜の花びらが舞っていた。
「君も災難だったな」
多紀はチラッと月舘を見た。
「彼女と別れたんだろう? 看護婦から聞いたよ」
「別れてはいません。ただちょっと……」
「ちょっと?」
月舘はポケットからブルーラグーンと書かれたタバコを取り出し、手の上で転がした。
「喧嘩しただけです」
「喧嘩しただけ、か。原因は君か?」
ますます問診めいた質問に多紀は答えず、また窓の外に目をやった。しかしどうだ? 言われてみれば喧嘩の原因は一体何だったのだろうか。思い出せない程、些細な事なのだろう、きっと。
「男女の喧嘩なんて、大体は取るに足らんことで始まるもんだよ。で、大抵は男の方が後悔する。あんなに罵り合ったのに、今は彼女の元へ戻りたいなんて思ってる」
図星だった。窓に映った月舘と目が合った多紀はすぐに視線を逸らす。
月舘は息を漏らしながら微笑し、
「男はみんなそうさ、大人も子供も。ずっと変わらん」
医者は迷った挙句、タバコをポケットにしまい込むと、ベッドサイドに置かれた電波時計を点灯させた。液晶には1時30分の文字が浮かんでいる。
「事故の多くは気の迷いが原因だ。皮肉なもんねでね、考え事をしている時に限ってバイクへ跨って何処かへ走りたくなる。君の事故もそれが原因だよ。人間、休息が必要な時が必ずある。大事なのはそんな時、しっかり心の底から休むことができるかどうかだ。人生は続くんだぞ?」
多紀は答えなかった。医者の諭すような言葉に多少心が動かされそうになった所為でもあった。
病室は再び沈黙に支配された。
遠くで誰かの呻く声が漏れ、微かにスリッパが床をする音が聞こえて来る。
時間はじっくりと進み、2時になった。
月舘の手が再びポケットの中を探し始める。彼はおもむろに立ち上がると窓辺にあった折り紙を掴んだ。
「これは………」
巻貝を丁重に持ち上げると月の中へかざす。
「君も、貰ったのか?」
「貰った?」
「プレゼントだろう? これは」
誰からの?―そう口が開きかけて、多紀はそのまま制止した。
ピンと病室の空気が張り詰めて、鋭い緊張感が走っているのが分かった。ぱさりと折り紙が床に落ちる音。
窓の外に怪獣がいる。
それはどうしようもない事実、突き付けられた現実であった。
窓辺にいた月舘はポケットを探る手を止め、喘ぎを押さえながら後退っている。それが何よりの証拠になった。見えているのは自分だけではない。やはりそこに、確かにはっきりと異形のモノが出現したのだ。
黄色く光る眼が窓の外で揺らめいて見えた。その奥にあるらしき、虹彩は幸運にも部屋の中の人間までは捉えていないようだ。怪獣の皮膚、怪獣の牙、それ全てがここに実在している。
多紀の心には左程恐怖は湧いてこない。怪獣も3日経てばなれるのだろうか。夢が現実であったという安堵が恐怖を隅へ追いやっている。
多紀は怪獣を捉えた
「み、見えてますか……?」
「ああ。ああ。ああ」
前髪をかき上げる医者の声が震えている。タバコとはこういう時に吸う物だ、と彼は言わんばかりに火を点けた。勢いよく燃え上がった穂先から煙が立ち昇る。彼は驚きと恐怖の入り混じった諦めに近い笑いを漏らし、状況を見つめていた。
「な、なんなんですかこれは」
「か、怪獣………だろうな」
間抜けな質問とその応答。しかし、今の彼らにはそれが精一杯だ。2人はどうすることも出来ず、ただ窓の外の怪獣を見つめている。
怪獣は首をぐーんともたげ、月を仰いだ。細く尖った瞼には寂しさが刻み込まれているようだった。
怪獣は数回、身震いすると、緩慢な動きで向きを変えるとゆったりと歩き出した。前傾姿勢で2足歩行。よたよたと、どこかおぼつかない足取りで、それは駐車場を横切ると東棟を背にして国道へ降りる坂を下り始めた。数分の出来事、しかし多紀と月舘にはほんの一瞬に思えた。緊張感と恐怖でその場に縛り付けられた様な気がした。
坂の両側に生えたヤシの木の間から、トカゲのような頭部が見え隠れしている。
口に咥えたままになっていたタバコの灰が、月舘の革靴へ落ちた。しゅぅという小さな音が、引き金のように2人の緊張感を説く。
ハッと気づいた2人は、思い出したかのように心臓の奥へ酸素を送り続けた。
絶え絶えにして、口を開いたのは月舘の方だった。
「どこへ行くんだ?」
怪獣はまだそこにいた。
取る物も取らず、プリウスに乗り込んだ2人が追いかけるとそれは確かに居た。坂を下り終えたところに佇んだ怪獣は首を左右に振って、何かを見ている。
50m以上離れた場所で月舘は車を止め、ライトを消した。下から見上げてみるとその大きさは人一倍だった。山のような巨躯に、岩のような皮膚が月明かりに照らし出されている。点滅する信号がまるでおもちゃのように見える大きさだ。病室で見るのとは比べ物にならない恐怖が体を支配し、筋肉がこわばって来る。
怪獣は何かを確認し終えると、ゆっくり足を持ち上げた。体は東へ向かっていた。
低速のまま国道へ出ると丁度、湾曲した半円の先に岬が見える。
幸いなのは全く、車通りが無い事だった。人通りは愚か、どちらの車線にもヘッドライトの欠片すら見えない。暖色の道路灯だけが規則的に並び、闇の中に道を照らしている。
街を破壊するでもない。誰かを襲うわけでもない。ただ歩いていく。
時折立ち止まっては、月を振り仰ぎ、きょろきょろと辺りを見回す。最初はその度に心臓に走る鋭い痛みを感じていたが、30分もすれば恐怖は次第に薄れて行った。
「まるで、散歩だな」
月舘が言った。
ぴったりの言葉だ、と多紀は思った。あてども無く、ぶらつく。闇夜に身を浸して夜風に当たりたいだけ。怪獣が歩いていく様子は確かにそういう風に見えていた。
はじめはずっと怪獣を捉えて離さなかった多紀の目も、手持ち無沙汰に窓の外の海辺へ投げられていた。水面に月が泳いでいるのを見ている内、彼の頭の中に唸るようなエンジン音が響いて来るのを感じた。
タイヤがアスファルトを削る擦過音と風をつんざくエンジン音。それは紛れも無いバイクの音だった。手にはアクセルを握る感覚がやにわに蘇り、無意識にシートを掴む。
ここだ、あの夜もここを走っていたんだ― 時刻もそして、場所もほぼ同じ。事故を起こした夜も雲一つない快晴で、月が大きく浮かんでいた。追体験する様な状況がみるみる内に彼の記憶を呼び覚ましていく。
多紀は海から視線を上げ、ガードレールを見た。
大きく変形して歪んだガードレールが目に入る。傷だらけで、路面にはスリップした跡が大きく走っていた。
「怪獣だッ!」
電撃が走るような衝撃に頭を押さえた瞬間、多紀の身体がつんのめった。シートベルトが肩に食い込み、辛うじてダッシュボードへの激突は免れた。
車は止まっている。
月舘は右足でブレーキを踏み抜き、ハンドルを強く両手で握りしめていた。
表情は恐れに染まり、瞼がぴくぴくと痙攣している。
彼の目は真っ直ぐ、フロントガラスの向こうを見上げていた。
そしてその黒目にくっきりと浮かぶ二つの黄色い点を見止めると、多紀は頭に過った嫌な予感を拭うように自分も、前を覗き込んだ。
ヤシの木が海風でばさばさとたなびいている。
黄色く光る眼がプリウス、そしてその中にいる2人の人間を見つめている。
純粋無垢な顔。理性のない獣の顔だった。車の気配に気が付いたのだろうか? だが、今はそんなことどうでもいい。大事なのは数十メートルの物体が、そしてその足が、ゆっくりとこちらへ向かってきているという事実。
多紀の頭の中に新聞の見出しが浮かんだ。
『男性2人、怪獣に踏み潰され即死か』
この新聞はきっと売れるに違いない。
つづく
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