第2話 80%は脳

 目覚めると、全身に汗を掻いていた。

 頭がずーんと重い。パジャマが張り付いて来る気味の悪い感触に顔を顰め、

 頭を押さえ、ゆっくり目を開けると白い天井があった。意識的に呼吸をし始めると、胸が激しく脈打っているのが分かる。ついほんの一瞬前まで、自分はあの恐怖の前に居たのだと自覚し、

「怪獣………」

と呟いてみた。ハッキリとイメージが出来るその姿。

 黄色い眼に荒れた鱗状の肌。乱杭歯の間からは涎と荒々しい吐息が漏れ、しゅーしゅーと音を立てている。月明りを受けて立つのその姿は正に怪獣と呼ぶにふさわしい成りをしていた。

 鮮明、あまりにも鮮明な夢だ。それに馬鹿げている。いい年をこいて怪獣の夢で寝汗を掻いてうなされるとは。

 夢であったという安堵から笑いが込み上げて来る。同時に心の方が大分やられているのではと不安にもなったが、すぐ考えないようにした。それよりも、あの折り紙の事を思い出したのだ。


 身を起こし、窓辺を見る。

 が、そこに折り紙はない。


 まさか、あれまで夢だったのか……?― 多紀は鼓動がまた早くなっていく気がした。


「あら、浅倉さん。今日は早起きですね」

 声に振り返ると、結実が地面にしゃがみ込んでいた。立ち上がった彼女の手にはあの、折り紙が握られていた。

 よかった― 多紀は目を瞑って息を吐く。もしもこれまでが夢であれば、真剣に頭の心配をしなければならない所だ。

 しかし、看護婦の方は拾い上げた折り紙を訝し気に見つめている。日の中で折り紙それははっきりと、巻貝になっていた。


「これ………は?」

 結実のひそめた怪訝そうな目が多紀を睨んだ。

「ああ、昨日、部屋に戻ってきたら机に置いてあったんです。てっきり、僕は大場さんが置いてってくれたのかと………」

 看護婦はあんぐりと口を開けて少し制止すると、

「えっ、こわ…………オバケ?」

 言いながら折り紙をポンと机の上に投げる。それ以上触れたくないように。

「え、なんです?」

 多紀が尋ねると結実は苦笑いして、口を開いた。

「いや、この折り紙…………少し前まで入院していた女の子がいたんですけど、その子がよく折ってたものだから…………」

 喋りながらも細められた彼女の目は、机の上の折り紙を凝視していた。


 多紀の眉がぴく付く。付けられた折り目や、伸ばした紙の皺が途端に気味悪く感じた。厭な予感が頭に走る。多紀自身、そう言う話が嫌いなわけではないが、別段好きでもない。

 心霊的な何かが身に迫っているのだとすれば、気持ちの良い物ではない。

 折り紙から視線を上げると、看護婦と視線がぶつかる。彼女の目が不安に塗れている。

 乾いた口を動かし、多紀はゆっくりと喋った。

「まさか、その女の子が………この部屋で…………しん―」


 そこまで言いかけると、突然看護婦の顔が柔らくなった。彼女はニヤッといたずらっ子のようにえくぼを作って笑った。

「浅倉さん。テレビの見すぎですよ。こーゆーところにいると、皆、すぐそーやって色んなことをオバケの所為にするんですから」

「じゃ、じゃあ………」

「2週間前ぐらい前に退院しました。それっきりです」

 多紀はため息を漏らすと、また折り紙を見た。溜息と共に、湧いてきた興味も流れ出て行くようだった。


「どんな子だったんです?」

「その女の子ですか? ………ムーンドロップって分かります?」

 頭を強く殴られたような感覚になったのは、その名を知っていたからだ。

「あの、岬の先にあるカフェですか?」

 それも、ただ知っているだけではない。国道を海岸線沿いに走った先にある、浜辺に面したカフェだ。

多紀はそのカフェに何度となく訪れたことがあった。それも彼女と一緒に。お気に入りのデートスポットだったのだ。ひとしきり、海岸線沿いをドライブすると、決まってそこでお茶をした。2時間程度話すと、ホテルへ行くのがいつものコースだったので、彼女が席を立つまで常にもどかしい気持ちだった。


 結実は頷く。

「そうです、そうです。そこの子供ですよ」

 看護婦はそう言いながら、スマホを取り出し、多紀に見せた。

 写真はプライベートで撮ったらしく、数人の女性と中央に1人の少女が映っている。彼女が折り紙の主なのだろう。

「退院後にみんなで、パンケーキ食べに行ったんですよ。知ってます?ここの、ラズベリーのパンケーキが美味しくって―」

結実の言葉が耳からフェードアウトして行く。

 口の中にラズベリーの気色悪い感触が戻ってくる気がした。

 窓辺に視線を投げ、海岸線を見つめる。カフェのある岬は丁度小高い丘と、防風林に遮られ見えなくなっている。

「でも誰が置いていったんですかね、これ。私も教えてもらったんですけど、難しくって。とても子供じゃ折れないと思うんですけどね………」

 不思議そうに看護婦は折り紙を見つめていた。




 「人間を構成している物。その80%は脳なんだよ」

 検査を待つ多紀に話しかける医者の名札には、月舘つきだて 太一たいちという名前と証明写真が添付されていた。

 写真に写った男は黒髪で、顔も強張っている。

 多紀はもう一度、医者の顔へ視線を戻した。この写真がどれくらい前に撮られた物なのかは分からないが、幾らかの月日が経っているのは明らかだった。

 黒髪は全て白髪に変わり、50を過ぎかけたその顔は余裕と安堵を醸し出している。


「もちろん、厳密的なことをいえば、水分なんだがね。だが、その水分も脳が無ければただの水だ。そこに頭があってこそ、になるんだよ」

 多紀がいる部屋からは隣室に置かれたMRIがガラス越しに見えた。機械は駆動中を示すランプが灯り、筒の端から微かに足が見える。

 多紀の手にはじっとり汗がにじみ出ていた。筒の中に入っていく圧迫感と全身をくまなく調べられているという感覚が妙に落ち着かないのだ。


「慣れないだろう?」

 月舘が隣室を眺めながら言った。検査が終わったのか寝台がゆっくりと迫り出してくる。そこにいたのは10歳前後の少年だった。

「誰だって最初は怖いもんさ。でも大丈夫だ。みろ、あんな子供でも静かにできる」

 寝台から現れた少年は看護婦が持って来た車椅子へ、器用に着地する。

 正直なところ、見てもらうべきは他の所だと多紀は思っていた。例えばそれは、憔悴しきった心とかだ。(こんなセンチな事を考える自分が恥ずかしくもあったが)

 彼女からは返信どころか、既読すらつかない。

 事故を起こしたという事を伝えようかと思ったが、やめた。心配で同情を買うほどには腐っていない(と、自分では信じている)。それに、このタイミングで事故の事を切り出せばそれこそ脅しだと取られかねない。

 彼女との折り合いをつけるのは少なくとも、頭の異常がないと明確に診断されてからだ。

 口の中にはラズベリーの感触がまだ残っていた。


「まぁ、念には念を入れてだよ。脳は超精密機械だと聞いたことはないかね? 少しの誤作動が、大きな故障に繋がる。今は無くても、その内妙な幻覚を見たり、幻聴、果ては記憶喪失なんてことにもなりかねん。だから、自分の為だと思ってもう少し我慢してくれ」

 長く医者をやっていると、多紀の表情から感情までを見抜くことが出来るのだろうか。

 今からMRIを撮れば脳にはパンケーキが映っているのだろうか?―多紀は頷きながら思った。




 しかし、その医者の忠告は真実だったのかもしれない。

 多紀は逃げるようにして、窓辺に並んだの折り紙を見た。(検査を終えるとまた机の上に置いてあったのだ)

なにか、異常なことが起っているぞ― 心が鳴らす警鐘を必死で押さえ込もうとした。口を開けば喉から心臓が飛び出していくのではないかと思われた。

 折り紙から、目覚まし時計へと滑る様に視線を流す。

 時刻は午前2時。病室、そして病院全体が静まり返って闇の中へ沈んでいる。

 眼は止まらず、再び窓の外へ戻った。

 やはり、それはそこにいた。

 見間違いではなかった。多紀は何度も何度も両手で顔を摩る。頬を撫でる指のひんやりとした感触が伝わってくる度、耐え難い現実を自分は受け入れなければならないという不安が胸を圧迫してくる。



 どうやら自分は本当に、頭がおかしくなってしまったのかもしれない―



 そうでなければ、2日も続けてを見るなどあり得ないからだ。




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