午前2時の散歩

諸星モヨヨ

第1話 怪獣がそこにいる

 子供の頃はどこへだって行けた。

 浅倉あさくら 多紀たきの、頭の中には地図があったのだ。

 その地図を広げれば、世界中、どんな所でも一飛び。


 彼が幼少期の記憶を辿ってみると、行きつくのはいつも無機質で漂白剤の匂いが充満した真っ白い病室。

 記憶の突き当りにそれはあって、その部屋にはいつも寂しいという気持ちが充満している。


 レンサキュウキンセイイントウエン連鎖球菌性咽頭炎― 自分をいつまでもベッドの上に縛り付ける呪文のようなその言葉。

 窓の外を駆けて行く子供達を見る度に、猛烈な孤独に襲われた。

 望みはただ一つ。外へ出て遊びたい―ただそれだけでよかった。


 だから。浅倉多紀には地図が必要だった。

 頭の中にある地図。それを広げ、空想に身を躍らせれば、寂しさは和らいでいく。


 でも、大人になると、空想で寂しさは癒えなくなった。

 まるで、立て付けの悪くなったドアのように。

 程よい力と、ちょっとしたコツが無ければ焦燥感は無くならない。


 大人になった多紀にとって――は海岸線をバイクで走ること。

 だから、その夜も彼はバイクを走らせていたのだ。

 たった一人で。



   ◇◇◇◇◇◇



 まどろみの中で目が覚めた。

 起きているのは最低限の器官だけで、その他、神経各位はまだまだ物足りないと眠りを貪っている。それでいい、と浅倉あさくら 多紀たきは思った。薄く開けた視界から、眩い陽光が差し込み、すぐにシャットアウトした。

 今の彼には休息が何より必要だった。(心も体も両方)

 頬をゆったりとした風が撫でていく。四月過ぎの少し冷たい朝の風。カーテンがたなびいている様子が瞼の裏にありありと想像できた。

 大きく呼吸をすると漂白剤と消毒液の匂いが鼻を突いた。

 吐き気を覚えるその匂いと、ここ数日の事さえなければ、至福の時間だった。


「もう起きてくださいよ、浅倉さん」

 女性の声でやっと目を開ける。接着剤のように張り付いた目脂がバリバリと音を立てた。白い天井にはフックが三つぶら下がっている。


 病室だ。


 もっと正確に記憶を手繰り寄せていくのであれば、国道101号線沿いに建つ、ゐ尾市医療センター。12階建ての総合病院で、その東棟、7階の713部屋。個室で料金は9800円/日。多紀は言い聞かせるように頭の中で反復しながら身を起こした。

 入院して3日、起きる度に自分が入院していた事を忘れる。精神が現実から逃れる為に深い穴を降りて行ってしまうのだ。


「お身体はどうですか? 別段、お変わりありませんか?」

 朝食を配膳する彼女に多紀は相槌を打った。

 看護婦は厳しい婦長から隠すように、こっそり髪の後ろだけをカールさせている。手つきや言葉遣いがまだ垢抜けず、かしこまった感じも、他人行儀な感じもない。しかし、それがむしろ患者の警戒心を解いている様だ。

 年下かもしれないな、と多紀は思っていた。


 彼女は体温計をケースから取り出し、多紀へ手渡す。胸の前で名札に挟まったミニオンのボールペンが揺れる。名札には『大場おおば 結実ゆい』の文字。

 多紀は脇に体温計を挟みながらテーブルの上のiPhoneを取った。


「LINEの方はどうなんですか? 返って来たんですか?」

 スマホに落していた顔を上げる。多紀の驚いたその顔に看護婦―結実は微笑みながら続けた。

「彼女さんと喧嘩したんでしょう?」

 目の前の看護婦(人が良さそうで警戒心を解く術を無意識に身に着けている看護婦)に自分は洗いざらい話していた様だ。彼女と喧嘩し、そこから来る情けない焦燥感を癒す為、バイクで海岸線を走っていた事を。


―『よく聞き取れませんでした』―長押ししたホームボタンからSiriが喋った。

 一瞬、看護師はiPhoneに目を落とす。通知欄にはメッセージは一件も入ってなかった。

 ふぅっと息を吐くと、多紀は窓の外を見る。

「僕はあとどのくらいで退院できるんでしょうか?」

「うーん、そうですねぇ………頭の検査もありますし、あと一週間くらいは居てもらわないと」

 窓からはだだっ広い駐車場が見えた。車が数台止まっているだけで他には何もない。その駐車場から少し下った先に海が見える。眺めは良かったが、今の多紀にはそれは癒しにならず、ただ外界から隔絶されているという事を痛感させた。

「まぁ、そんなに気落ちしないでください。あんな事故を起こして、無事な方が奇跡なんですからね?」



 事故―

 そうだ、自分は事故を起こしたんだ―

 


 事故の実感とは、どのようにして沸いてくるものなのだろう。

 得も言われぬ恐怖も、無事を喜ぶ安堵も、事故処理の面倒くささも感じない。あくまでも客観的に自分のしたことと、自分の置かれている状況を俯瞰している。

 きっとこれは実感ではないと多紀は思った。

 夢の中にいて、そこから抜け出せない感覚。


 その日の午後にやって来た、2人の刑事(誰が見ても先輩、後輩と分かる二人組で2人ともが不機嫌そうだった)が数枚の写真を見せても尚、それは変わらなかった。

 1枚目はカワサキのニンジャ。多紀が乗っていたバイクだ。しかし、言われなければそれはただの鉄クズにしか見えなかっただろう。

 前面が完全にひしゃげて、後輪のタイヤがべろべろに剥がれている。動物の死骸のようだ。奥に映る、大きく曲がったガードレールが衝撃の強さを物語っている。


「何があったんです? あんな場所で。見通しも悪くないし、夜間は車通りも殆どないし、当日は雨が降っていた訳でもない」

 形式的に若い方の刑事が話しはじめる。先輩らしき、もう1人は椅子に腰かけ、ポケットに手を突っ込んで天井を見上げていた。 

 多紀はその写真を手に取ると、まじまじと眺めた。まさか数日前までこれに乗っていたとは。悪い冗談のように感じられる。むしろ、この惨事からどう助かったのか、自分が教えてほしいくらいだった。


「場所は国道101号線。この病院の前の海岸線沿い。時刻は大体、深夜の2時ごろ。何か、覚えていないですか?」

 覚えていない。記憶はあまりに断片的で、明瞭に思い出すことができるのは、バイクから投げ出され地面に転がった所からだった。全身を襲う鈍痛と、鼻を突く異臭。立ち上がろうとすると激痛が走ってそのまま記憶は一旦、途切れた。


「見た所、スリップしてるんですけどね。大きく。覚えてないですか? なにか、注意を削がれたとか、よそ見してたとか」

 注意を削がれていたのだとすれば、心当たりはあった。

付き合って8年になる彼女との喧嘩。真夜中にそんな場所を走っていた原因でもある。

 喧嘩自体は珍しいものではない。今までだって何度もしてきた。

 だが、今回は何かが違っていたのである。お互い、もうすぐ30を迎えようという手合い。焦りと不安か?― 多紀は自分で自分に問いただす。

 あと一歩踏みきれ無い何かが2人の間で溜まっていて、爆発したのだ。(勿論、こんなことが原因なんて、口が裂けても言えなかった)

「でも君、病院近くてよかったね。自分で救急車を呼んだのは賢明だが、もう少し遠い所だったら出血死していたっておかしくないんだよ?」

 今まで黙っていたもう一人の警官が天井を見上げたまま、呟く。


 気絶したのは怪我が原因だった。太ももが抉れていたのだ。

 それだけで済んでよかったですよ―と医者が言う通り、太ももは肉が少し抉れただけで、多少痛むが入院するほどではない。

 問題は頭の方だった。

 2枚目をめくるとパックリと2つに割れたヘルメットが映っていた。自覚はないが、相当強く打ったらしい。脳の検査で入院と言うのも納得できる。

「本当に何か覚えてないですか?」

 多紀は首を振る。刑事の深いため息が室内に響く。

「ここ、タバコ吸っていいの?」

 もう1人の刑事が呟いた。

 

 そこから2時間ばかりの事情聴取を受けても、多紀に実感は湧いてこなかった。

 椅子から腰を上げた2人の刑事は呆れたような仕草で、多紀に念を押す。

「何か思い出したことがあったら、書き留めるなんなり、忘れないようにしてくださいね」

 頭の心配をしてくれているようで何よりだ― 多紀は頷く。

「ああ、あとコレ。君のでしょ?」

 先輩の方が取り出したウォークマン(画面は蜘蛛の巣のようにひび割れ、ボタンが中へ食い込んでいる)を見た時、多紀は背中に寒いものを感じた。受け取ったその指先からゆっくりと恐怖と現実が這い上がってくる。

 潰れたバイクよりも、このウォークマンが、自分が死の淵に飛び込む寸前であったことを教えてくれたような気がした。



 病室に戻って来ると、机の上に折り紙が置いてあった。

それは幾つかの折り紙を重ね合わせ、縫うように組み上げられた立体的なもので、一目見ただけでは何を模したものなのか、皆目見当もつかない。


 正体が分かったのは、夜になってからだった。

 消灯時間を過ぎた部屋の中で、月明かりが、窓辺に置かれた折り紙の影をベッドの上に伸ばしている。本から顔を上げて、フッとそれを目に止めた多紀は思わず感心の声を上げそうになった。

 それは見事な巻貝だったのだ。尖端の凹凸が影になると、まるで螺旋のように浮かび上がっている。折り紙と言うよりも、それは見事な技巧を凝らした調度品に見えた。

 あの看護婦の仕業か―多紀は直感した。

 慰めのプレゼントつもりなら、少し間違っているような気がしたが、かと言って悪い気もしない。しばらく見とれていた多紀は折り紙へスッと手を伸ばす。



 その時、



 窓の外に怪獣がいた。



 

つづく




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