27、案ずるより産むが易し

 さほど急がずに帰宅し、着替えを済ませると、僕はソファに腰かけて浅く息をついた。約束の6時半まではまだ20分ほどあった。地下鉄で帰宅中、中上に『6時半に会おう』とメールをした。〈急いでもその時間〉というようなニュアンスを持たせたのだが、実際には急いでいなかった。中上と会うことに躊躇ためらいと、少しの億劫おっくうさがあった。だから、時間にだいぶゆとりを持たせたのだ。

 中上と会う直前になるとかなり億劫になっていた。仕事上がりはやはり疲れを感じていたので、このまま部屋でゴロゴロしたかった。その辺は40だからというよりで、いざ会ってしまえばそれなりに楽しく過ごせるのだが、会う直前はたいてい面倒に感じる。普段しない何かをするときもそうだ。

 そのうえ、ここのところ美紀のような子と頻繁に会えているせいで、中上も含むその他の人間にも催し物にもほとんど興味が起こらなかった。ただ今回は、誘われたとき、中上と温泉に行くのもいいだろういう思いが、頭をかすめたのだ。

 僕は落ち着かず、ソファから立ち上がり、スマホを手にし、YouTubeでおすすめの動画をただ網膜に映して部屋のなかをうろうろしながら時間を潰した。するとあっという間に20分が過ぎ、ちょうど中上から、到着したとのメールが入った。


 僕がアパート出ると、階段下の道路脇に中上のエクストレイルが停まっていた。僕は助手席側の窓から中上に手を振った。中上は笑顔を見せ、ドアのロックを開けた。

「どうも」僕は助手席に乗り込みながら言った。やはり気持ちが強張っていた。

「疲れてないか?」中上はエンジンをかけて言った。

「いいや、そんなには」

「悪いな、バタバタさせて」

「いいや……」僕は後ろめたい気持ちになった。

「じゃあ行こう。ゆったり温泉につかろうや」


 僕たちは、栃木の鬼怒川温泉に向かった。こんな遅い時間に、それなりの距離のところへ行くのは非合理に思えたが、中上はネットで見た鬼怒川の渓谷と温泉に惹かれており、今日はわずかしか時間がなくとも明日の昼間たっぷり楽しむつもりのようだった。

 ドライヴは高速を使っておよそ2時間の予定だ。気ままにお互いの日常について話していると、さっきまでのが嘘のように消えた。案ずるより産むが易し。そんなものだ。

 やがて中上が晃子のことを訊いてきた。それは避けられないだろうと思っていたが、ドライヴが始まって30分間その話をしてこなかった中上も、久々に会う僕に遠慮していたのだろう。もしくは、僕が中上の女についていつものようにすぐに話題にしなかったので、中上がいぶかしんで警戒し、避けていたのかもしれない。

「今はどう? うまくやってる? 結婚の準備とか?」中上はぎこちなく、牽制するように言った。

「いやあ……、冬に別れたよ」

「ええ⁉」

 中上は本気で驚いていた。そして、僕があえて女性関係を話題にしなかった謎が解けたように感じたのだろう、表情がだいぶ緩んだ。だがすぐに硬い表情になり、眉をしかめた。

「何があったんだよ?」

「まあ簡単に言うと、年末に喧嘩したんだ。いつもより派手な喧嘩だった」

「派手って?」

「皿投げたり刺したりとかじゃないけど」

「そんなことはしないだろうけどさ」中上は笑って言った。どんな喧嘩なのか、想像がつかないといった表情で車を停め、信号待ちになった。前方のプリウスの赤いテールランプが、中上のしっかりした骨格の顔を、闇に浮き立たせていた。

「まあ、かなり声が大きくなって、本気で怒ってたな。お互い」

「そうか……」

「お前はどう?」僕はすかさず中上に訊いた。

「ああ、俺は何とか続いてるけど……。もともとセフレみたいなもんだから」

「そのくらいでいいんだよな。俺はのめり込むからさ」

「いや、ちゃんと付き合ったほうがいい。俺みたいなのは結婚できない。する気にもなれない。言わば馴染みのソープ嬢のようなもんでさ。メシやらプレゼントやらという料金を支払って、ときどき同伴ありっつうのかな……。ま、それに本気になりゃ別だけど――」

 僕は何も言えなかった。中上が左折のために上げたウィンカーの音がやけに大きく響いた。気まずい沈黙だった。僕は中上と中上の恋人の三人で、銀座を歩いたことを思い出した。二人は普通の恋人のように見えていた。

「あれ? 朱美ちゃんていったよな、お前の彼女。朱美ちゃんだろ?」僕は中上に訊いた。

「そう」

「お前、朱美ちゃんには、まあまあ惚れてたんじゃなかったっけ?」

「そんなこたねえよ」中上はニヒルに言った。「惚れたも何もねえよ。基本ただのセフレ。だいたい、30過ぎてからそんなにのめり込めねえよ……いや、そういう人が見つかればいいんだがなあ」

 中上は最後の言葉を、僕に配慮していったのだろう。僕はたしかに、自分でも変かなと思うくらい、未だに純粋に恋に落ちる。しかし年がら年中ではないし、この10年ほどで晃子と美紀だけなのだから、中上にそういう機会がないだけだ。

そんなのは10年に1回あるかないかだ。若いときは、玉石混淆こんこうの東京にいて玉と石の区別がつかず、丸くて硬ければ惚れていた。そして石に出くわしてとんでもない目に遭っていた――。

「本当にいい女に出会って惚れるのなんて、10年に1回あるかないかだよ……」僕はごく自然に、そう口にしていた。

「そうなんですか。ハハハ……」

 中上の笑いで、僕は我に返った。急に恥ずかしくなった。

「な、なんとなくそう思ったんだ。運というか、偶然というか――」

「お前、また誰かに惚れたな」

「え? バレたかな……」

「2年ごとって、かなりの頻度だぞ」

「いやあ、ここんとこ多いだけで、10年で見たらたった2回だよ」

「さっき言ってたのの2倍じゃねえか!」中上は愉快そうに笑った。僕も笑った。

 やがて信号が青になり、中上はアクセルを踏んだ。

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