22、浮いては沈む
もうそろそろ、湯船ともお別れになるな――僕は夏になると風呂にお湯を入れず、シャワーを浴びるだけだ。こうして湯船につかるのが好きなのだが、暑くなるとそんな好きなことも
僕は中学だかの卒業間際に感じたような、いずれ去りゆくものへの名残惜しさを感じていた。明日は休みだ、ゆっくりつかろう――ぬるくなってきたところへ蛇口をひねってお湯を足した。ほどよくなってきたところで蛇口を閉めると、ちょうど足音が聞こえてきた。誰かが壁の向こうの外廊下を歩いているのかと思ったが、それほど近くではないようだ。アパートの脇の通りを、女性が歩いているのだ。この足音は男ではない。高いカツカツという音。ハイヒールの音だ。
その音が消えると、隣の部屋の住人の鈍い足音が聞こえた。戸を開け閉めするガタガタいう音も聞こえた。こんなのは安アパートの常だ。同じ時間に風呂に入ると、薄い壁を通してガタンガタンと音がかなり聞こえてくるので、銭湯で隣り合って体を洗っているような気分になる。
何も考えないでいると、頭の中で断片的な光景がランダムに映じた。近所のスーパーのエスカレーター、トランプ大統領の不敵な笑み、ATMと通帳、銀座の夜景、奈良の大仏、会社近くの横断歩道……。
その日、病み上がりの若い社員が、先輩社員に「調子はどうだ?」と訊かれてていた。僕は近くにいて、傍観というかたちで彼らの話に中途半端に加わっていた。先輩と言っても、僕や若い彼より先にこの職場にいるというだけで、年齢はまだ20代後半だ。僕はその状況の中にいつつ、〈若者同士のやり取りを見ている中年男性〉という客観的な構図をメタ認知した。そんなときはいつも、寂しげな風が吹いた気がする。そう、お前は若くないのだと知らせる風だ。
若い彼は、「だいぶ良くなりました」と答えた。マスクの中にまだ体調の悪さを隠しているように見える。
「一人暮らしでも、きちん栄養取らないとダメだよ~。節約ばっかしないで、ときどきは外食でいいもん食わないと」
「そうですね。あ、それで僕、朝は白米じゃなくて、シリアルにしました。もちろん牛乳かけて」
先輩社員と僕は困惑した表情で、お互いの顔を見た。そしてようやく先輩社員が「シリアルかよ」と笑って言ったが、僕も先輩社員も何が正解なのかわからなかった。若い彼のほうも、朝食を変えたことを意気込んで伝えたのに思ったような反応が来なかったので、やはり少し困惑していた。僕たちは三人ともモヤモヤとした気持ちを抱えて仕事に戻った。
――そんなことを思い出し、お湯で顔を拭った。今となるとかなり滑稽だし、愉快だ。それから社内における晃子の不在に気付いたが、無慈悲と言っていいくらいに、晃子のことは瞬間的にしか考えなかった。もはや晃子が今どこで何をしていても、僕にはどうでも良かった。今や美紀という〈次の女〉が存在しているおかげで、晃子との別れをすんなり受け入れてしまえたのだ――こんなもんか……
もし美紀がいなければ、未だに晃子にすがりつこうとしていただろう。そして、僕は永遠に、世界で一番晃子を愛しているのだと信じて疑わなかったのだろう。きっとそうなっていた。それがわかるからこそ、自分の心の不確かさが、おぞましかった。当てにならない自分の信念や信仰。そんなものに人生を捧げるのは、客観視なりメタ認知なりすれば、偏執そのものだ。この世に絶対と言える正しさはないのだろう。あるときに正しいと思って選択した信念や価値観が、ほどなくして揺らぐことがままあるが、それが自然なのだ。状況によって、正しさは変わりうる。
僕はたぶんそこで、その何度目かのお湯で顔を拭ったときに、カントと距離ができたのだと思う。別の見方をすると、僕は自分の不甲斐なさに、うまい言い訳を完成させただけかもしれない。カント先生のように、信念をもって立派に道徳を貫くことができそうにないと知り、さらにはカントと対極にあるような美紀という女の快楽に溺れて、僕はもうそちらに沈み込んだだけなのかもしれない。堕落だ、堕落……。
だいたい、『純粋理性批判』を読んでも、ほとんど理解できていなかった。読んでいるあいだにずっと抱えていた、素朴な疑問があった。人間たるもの何かしら自分にとって〈快〉をもたらすものでなければ、そちらへは向かわないようなのだが、カントは
考えているうちに、僕自身のことにも疑問が湧いた。僕がストイックを極めたがっていたのは、何が根本的な原因なのか? だが肉体はもう風呂からあがりたくなっており、見ると指もだいぶふやけていた。
こうして僕は風呂からあがって寝支度をし、カントや僕自身に対する重要や問いへの思考はほとんど進められず、うやむやになってしまった。これは身体的状況を理由に、クリエイティヴに思考を回避したともとれる。自身の大いなる改善につながるはずの思考ができるはずだったのに、一方ではその変化に怯え、ここでもまた何らかの理屈や言い訳(この場合、長湯でのぼせてしまっているという身体的状況)をでっち上げて、それを中断したのだ――。やがて活動の制限時間が訪れ、眠りに沈み込み、問いそのものの存在さえ消えてしまうのだった。
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