23、闇との間断なき戦い

 7月になった。僕の40歳も、あと1ヶ月で終わる。平均寿命から言えば、今、僕は人生の折り返し地点にいる。折り返し地点を過ぎたのか、それともまだなのかはわからない。自分の寿命がわからないのだから、そんなことわかるはずがない。だがイメージとしては、ビルよりも大きな、山のような赤だか黄色だかの折り返し地点を意味するコーンの周りを、ここ何年間かずっと走っているような感じだ。そしてあと5年もすれば、折り返し地点を完全に過ぎたと感じるのだろう。そうして僕の人生もまた、終焉へ――いやポジティヴに行こう。もとい、へ向かうのだ。

 晃子と別れ、美紀と付き合うようになって、より年齢を意識しはじめたのはいなめない。正確に言えば、年齢そのものというより、だ。美紀と恋人関係になれたことは、世間からすればかなりの幸運だろう。僕もこの状況に感謝することに、やぶさかではない。だが物事には明るい側面もあれば暗い側面もあり、僕はその暗い側面を無視して明るさだけを享受するような器用な真似ができない。

 ハッキリ言って、美紀との付き合いは僕にとっては波が大きい。救いなのは、美紀がさほどメンヘラ気質ではないことだ――と言いたいのだが、むしろ美紀が明るいからこそ、いつ嫌われ、ボロ雑巾のように扱われてしまうのだろうかと、未来に起こりうるギャップに怯えていた。僕は根っから悲観的であり、心配性なのだ。この恐怖を捨て去るために、恋人と距離を置き別れてたことが何度もあった。その都度タフになり、自分からネガティヴになる必要はないのだとわかっても、次は更なる難関が来る、という具合だった。

 今回は、美紀との年齢差という新たな難関があり、これが僕をネガティヴにさせた。美紀がいつ年寄りで頼りない僕に冷めてしまうか、そもそもこんな付き合いは道徳的にいかがなものか、晃子が知ったらどう思うか、僕自身本気なのか、責任を取る気があるのか……。

 僕は美紀と付き合いだしてから、瞑想と筋トレをときどきサボるようになっていた。それまではカント先生をかたわらに感じていたせいもあって、毎日欠かすことはなかった。だが、最近は三日に一辺ぐらいはサボる。これは、ほど良く力が抜けていると言っていいのだろうか? 毎日やるなんて異常であり、僕は美紀によって、〈普通〉になったのだろうか?

 40が不惑とは思えない。だいたい僕は、30で而立じりつもできなかった。あれはあくまで、孔子が我がこととして語ったのだ。僕のような一介の庶民が、あの偉大な孔子のペースで人間的進化を遂げられるはずがない。もうしばらく、もしかしたら一生、惑うのだろう。僕は惑ったのまま美しく明るい美紀と清々しく情熱的に戯れ、何か底知れない無明の闇に溺れていく。『Dazed and Confused』という曲が、レッドツェッペリンにあった。ヤードバーズにもあった気がする。いずれにしても、ジミー・ペイジのものなんだろう。そう言えば、彼は14歳の子と関係を持ったらしい。それでもたしか、彼はまだ20代だった。30代だったらより罪深い。……自分よりひどい人間を見つけて安心しようとするのはやめよう。


 仕事のある日、昼に関してはしっかりと〈おきて〉を守っていた。掟とは、大学のキャンパスに入ってカップラーメンを食べるのではなく、飲食店なり社内食堂なりでしっかりしたものを食べるというあの決意だ。僕はそれを守れていることを誇りとしていた。誇りにしているというか、それにすがりついていた。もしその掟さえ守れていないとなると、僕はあの改心を志した日からして、堕落しきっていると認めざるを得なくなる。崇め奉り、大事に奉納したはずの決心を、ボロ雑巾のように扱っていることになる。まだそんなひどいことにはなっていない。

 だが今日、社員食堂でカツカレーを食べているとき、僕はまたネガティヴになった。あろうことか、ヒレカツにかぶりついていると、美紀の太ももを思い出した。たしかに僕は美紀の白く柔らかい太ももに、かぶりつくように口づけしたことはあった。頭のなかにいつも美紀がいるとはいえ、こうなるともうアル中やヤク中と変わらない。僕は突然湧いてきた情欲を抑え込み、食事に専念した。だがそのスキに極めて理性的な思考が働き、恐ろしくネガティヴな見解があることを僕に気付かせた。つまり、『お前が昼、大学のキャンパスに行かないで済んでいるのは、現に今、美紀という大学生と付き合えているからに過ぎない』という、客観的で信憑しんぴょう性のある解釈だった。僕はそもそも、女子大生を見たいがためにキャンパスに入っていたのではなく、安上がりで快適だからだった――僕自身はそう思っていた。するとさらに、『良かったな。お前の無意識に抱え込まれていた性的欲望は、こうして現実化し叶っているのだ』という声も聞こえた。『そうなると、お前が欲望に打ち勝って、自分の信念を貫いていることは、何ひとつないということになるな』と、冷笑を交えた残酷な言葉も湧いてきた。

 僕の、あのは粉々になり、風に吹き飛ばされて消えてしまった。それから久しぶりにカント先生が現れ、憐れむような表情で僕を見ていた。その顔は『不自由のようですね。かわいそうに……』と無言のうちに語っていた。

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