11、幻想のオリオン座とより強固な実体としてのオリオン座

 なぜ、晃子に連絡を取らないのか――自分のことなのにわからなかった。なぜ勝手に、〈オリオン座〉にしているのか? 何を恐れているのか? 電話番号もメアドもLINEもSkypeもわかっているので、その気になればこちらから連絡はできる(それらを変更していなければ)。……待てよ。『それらを変更していなければ』というのは、丸括弧かっこ書きぐらいのもので、よほどのことがなければそんなことはない、あくまで但書ただしがき程度のことだと思っていたが、そうではない……!

 連絡できない理由のひとつがわかった。、わかった。〈晃子が僕を嫌悪するあまり電話番号やメアドなどを変えた〉という、死にたくなるような事実を突きつけられるのが恐ろしいせいだ――な~んだ、それだったか。

 他にも連絡できない理由はあるのかもしれないけれど、奥に隠れていた悪性腫瘍を取り出したようで、だいぶスッキリした。僕が連絡をして、それを拒否されたり、通じなかったりしたときの精神的衝撃が怖かったのだ!

 わかってしまえば怖いものなしだ。暗闇が恐ろしいのは、そこに何があるかわからないからだ。同じようにお化けや幽霊も不審者も、正体がわからないから恐ろしいわけで、将来のことや初めてのことも同様、人間は〈未知〉を恐れ、警戒する。既知になってしまえば、恐るるに足りない!


 帰宅後、寝転んで悶々と考えた末、そういう理屈を導き出し、急に体が軽くなり、20代に戻ったような気がした。そうなると迷いはなく、不安を感じなくなる薬でも飲まされたように、無鉄砲になる。僕は、第三者から見たら不気味で何をしでかすかわからないような笑みを浮かべていただろう。自分こそが不審者だった。

 今の勢いづいている自分を頭の片隅で自覚しつつ、無鉄砲と言えば、『坊っちゃん』だなとか、無鉄砲は英語で reckless だな、などと考え、知らぬ間に晃子に電話をかけていた。普段電話をするときはイヤホンマイクをつけるのだが、それすら忘れて旧式の電話作法――つまり電話をそのまま耳に当てていた。僕はとことん楽しく、浮かれた気分だった。

 呼び出し音を耳にして少しばかり我に返り、まっとうな緊張を覚えたが、それでも、〈以前はたくさん話していた仲じゃないか、気にすることはない〉という気持ちが勝り、不安は『オズの魔法使い』の竜巻にでも吹き飛ばされたようだった。

「――はい」

 晃子はあっさりと電話に出た。その瞬間軽い目眩めまいが起こり、うっすら汗をかいた。ということになかなか現実感を持てなかった。僕がシミュレーションしていたのは、幻の晃子だった。シミュレーションとはそういうものだが、を想定していなかった。それが現実の晃子で実現してしまって、慌てているのだ。

「どうしたの?」晃子の声は北極のシロクマを思わせた。あえて、わざわざ念のために言うと、〈北極のシロクマ〉は僕がそのときに見た幻だ。

「いやあ、久しぶり。元気?」僕の頭の中はシロクマの腹のように真っ白で、口についたありきたりな挨拶しか出てこなかったが、それでも何か言えたというだけでかなり安堵した。

「うん。どうしたの?」

「どうしたのって……、お前こそどうしたんだよ?」

「どうもしてないよ」

 ――このままだと「もう切るね」と言って電話を切られてしまう。僕は何か中身のあることを言わなければならない。だがどうやら僕を完全に許してはいないようだし、下手なことは言えない。

「あのとき以来だな、話すの」

「……」

「もうやめようぜ、お互い」

「何を?」

「いや、こんな……俺は仲直りしたいんだよ」

「仲直り?」

「いや、大喧嘩しちゃったじゃない。もう去年だけど。あれはすまなかった」そう言った瞬間、簡単に軽率な謝罪の言葉を言ったことは、いろんな意味で失敗だったと思った。それを補填しなければならない。「え~と……お前と話せなくて、辛かった」

「別に、喧嘩はしてない」

「喧嘩してない……?」

「……」

「あの……あれ、あの夜さあ、12月に西新宿で――」

「あそこで別れたっけね」

「別れた?」

「……」

「そう、喧嘩――じゃなくて、それはしてなくて、まあそこで別れて、でもいい感じで別れてないじゃない?」

「別れるときってだいたいそういうもんでしょ」

「え?」

「……」

「ちょっと待って。お前の言ってる『別れる』って、その場で一時的に別れるってことじゃなくて、恋人じゃなくなるとかってこと?」僕は〈まさか〉と思い、ちょっとそれは極端だよね、そんなわけはないよね、というニュアンスで言った。

「私たち、別れたでしょ?」

「え!?」

「それで、どうしたの?」

 僕はショックで次の言葉が出なかった。せめて、晃子が退職して寂しいとか、次の仕事は何なのかとか訊いて話をし、仲直りのきっかけをつくりたかった。だがハッキリ『別れた』と言われ、そんな認識はまったく、微塵みじんもなかった僕は、どうしていいかわからなくなっていた。僕は別れたなんて思っていなかった。別れてはおらず、一時的な、少し長めの仲違なかたがいであって、あくまで僕と晃子はだと思っていた。コインの表を見ているとき、裏は決して見えない。邪魔があったり暗かったりでよく見えないとかはあっても、表を向けている以上、裏が1%だけ見えるなんてことはない。僕はコインが表を向けていると思い込んでいた。だが、晃子は裏を見せているつもりだったようだ――。

「あの……、職場にお前がいなくなってたから、挨拶しようと思って」

「そう」

「うん…………じゃあな」

「うん、じゃあ」

 スマホを耳から離し、電話を切れたことを確認したのと同時に、僕の両頬りょうほほを涙が伝った。

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