10、実際のところ現実こそが最善で唯一の道
僕は怠けていたのだろう。対応に全力を注ぐべきだったのに、その努力を怠っていたのだろう。〈こんなことになるとは思わなかった〉なんて、言い訳にすらなっていない。
原発に対する政府の対応と同じだ。癌とか糖尿病のような症状が出ているのに、見て見ぬふりをして命を縮めてしまう、臆病な病人と同じだ。どうせ負けると分かっているのに、武士道だとか忠君愛国だとか迷惑千万な美学を持ち出して、煙たがる人々も巻き込んで、あとは知ったこっちゃないと
いや、今僕は自分の非を少しでも軽くしようと、他人や社会の悪口を言い出していた。こんなことだからダメなのだ。こんなことだから、あんなことになったのだ。
つまり率直に言うと、晃子が職場を去ったのだ。喧嘩してから3か月後だった。3月の上旬で、まだまだ寒い時期だった。
それまで僕たちの関係は平行線だった。見事なくらい、僕たちは関わらなかった。何度か席が隣になったが、業務が忙しく、話す暇もなかった。周囲に不審がられない程度に挨拶は交わしたが、それぞれ視線をうまく避けていたので、コンタクトを取ったと言っていいのかさえ微妙なところだ。そんなふうにそっけない挨拶をするとき、頭の中で思い浮かべた晃子に対して独り言を言っているような気がした。晃子がその場にいないというという想定での、身体的にも無感覚になったうえでの言動――決して目の前の晃子にかかずらってはならない――虚しく、屈辱的だ。
僕は、喧嘩して以降の晃子の態度に怒りを覚えつつ、〈決してこちらから視線を向けてやるものか〉と意地になり、同時に晃子を恐れ、あちらから何らかのきっかけをつくってくれることを期待していた。情けない。完全な他者依存だ。幼稚だ。
この職場ではよくあることだが、知らないうちに同僚が去っていく。ある程度の役職に就いていれば、引継ぎもあるので1ヶ月ほど前からみんなに異動なり退職なりが知れ渡る。だが僕や晃子のような多くの一兵卒は、替えが効くので引継ぎもほとんど要らず、去っていくその日にみんながその事態を知り、置き土産を頬張り、業務のスキを見つけてお別れの挨拶を個々に行うというあっさりしたものだった。そして晃子もまたそうだったのだろう、たぶん……。僕はそれを目にしていない――晃子は僕の休みの日に、最終出勤となったのだ。
寒さにやや身を強張らせ、挨拶を口にしながら職場に入ると、レストスペースのテーブルの上に値の張りそうな箱詰めのクッキーが置いてあった。〈また誰かここを去ったんだな〉と思って箱に張られた付箋を見てみると、『短い間でしたが、お世話になりました 時崎』と書いてあった。
以前は見慣れていた手書きの文字を見た瞬間、胸が潰れたかと思った。息が止まり、体が固まった。何とかして動かなければ息さえできないと思い、ようやくそれに背を向けることができた。ひどい仕打ちだ――晃子の僕に対する残酷さに対して苛立ち、怒り、同時に
PCを指でカタカタパコパコ言わせていると、悲痛をなだめようとおせっかいな思考が割り込んできた――あれは夢だ。あのクッキーも付箋も、一昨日までの晃子のように、幻だ――いや、晃子はいた。僕が勝手に幻を作り出し、現実の晃子を無視していたのだ――もう現実でも幻でもどっちでもいい。この痛みを和らげるモルヒネがほしい。ヒロポンでもいい。
当座は目の前の仕事が薬物になりそうだった。ここでミスでもすれば、その対応でいっぱいいっぱいになって晃子どころではないだろう。だが、そんなに簡単にミスなんてしたくないし、やっぱりそれは避けよう。こんな混沌とした意識でいたら、放っといても大きなミスをしかねないし。いや、すでに僕は、〈晃子がここから去った〉という大きなミスをしでかし、それを抱えていた。だからそれでいっぱいいっぱいになっているのだ。
僕は午前中、客の名前を打ち間違えるというミスを2回やってしまった。軽微なものだが、チェックする者からの指摘があり、少しばかり凹んだ。そのミスのうちのひとつは、『陽子』と入力すべきところを『晃子』と入れていた。チェックした男に何か感じ取られたかもしれないと冷や汗が出たが、席に戻ったその男を見ると、そこまで気は回っていないようだった。彼にとって僕のミスは、ロシア文学の中の
ミスをなおして業務に戻ってから、2年ほど前に晃子と名前について語りあったことを思い出した。僕はそのとき、『時崎って珍しいね』とか、『〈ときさきあきこ〉って、〈き〉が一個置きにあって面白い』などと言っていた。そのときは、晃子も笑顔で話していた……。
そして昼休み、食堂で2週間ぶりにきつねうどんを食べていると、過去の思い出に浸って午前中ずっと逃避し、走って走って、すでに崖のてっぺんまで来てしまったことを知った。こうなると、先に行くにしろ逆戻りするにしろ、落ちていかなければならない。先に行っては狂う。死ぬも同然だ。僕は元の道を逆再生のように背中から落ちていく。マトモに生きることを再開するには、現実に堕ちていくしかない。僕の現実はと言えば――もう取り返しがつかない。晃子と一緒の職場で働くことはもうないだろう。晃子との仲直りは、手が届きそうで届かない、オリオン座のようなものになってしまった。それが現実だった。
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