9、精神の重荷を下ろすためには

「喧嘩しちゃったの?」

「そう」

「じゃあ、しばらくやってないんだね」

「まあ、もともとそんなにやってなかったけど」

「お兄さん、今度は背中向けてくれる?」

 僕は言われるがまま、クルリと背を向けた。シャワーの音と僕たちの声には、安っぽいエコーがかけられていた。


 僕は結局、電車に乗り込み、躾の悪い胸の高鳴りと鼻息の粗さを抑え込みつつ、〈もうこうするしかない〉と、電車を乗り継ぎ、ソープに行った。電話で予約を取るという行動の前に、僕は店に辿り着いてしまった。街中で暴れださないようにと必死だった。

 ソープなんて10年ぐらい行ってなかったと思う。とりあえず、このムラムラしたものを解消したいし、僕の中にある晃子の存在感を少しでも薄めたかった。どうせなら、マシなところがいい。いや、そうでなくてはならない。手ごろなところでイマイチな思いをするなどというヘマをこいたら、よけいに晃子が愛おしくなり、狂おしくなってしまう。

 いざ、おそるおそる店舗に入ってから、ようやく、予約しないと可能性があることを思い出した。もうこの際、イマイチそうであれば、料金はかさんでもチェンジをしよう。そう考え、カウンターで当てにならない写真のパネルを見て、晃子とはまったく趣の違う子を指名した。

 待合室にはもう一人、まだ20代半ばのいわゆる普通の男がいた。僕もそうだが、ジーンズとシャツという私服だ。そう、今日は水曜日で平日だが、僕たちは出勤を免れ、たまたま休みなのだ。とすると客は少ないだろうし、指名した子が完全な残り物ってこともないだろう。そんな期待をして腕組みをし、ソファに背中を持たせかけた。

 一緒に待合室にいた彼が呼び出されたあと、すぐに僕も呼ばれた。出たときには彼の姿は(もちろん)なく、案内人の男と、僕が指名した(はずの)女がいた。やはりパネルの写真とは印象がだいぶ異なる。女は口角を上げて白い歯を少し見せていたが、目は僕を試すか値踏みしているようだった。彼女に手を引かれて部屋に入ったが、照明にオレンジだかピンクの色が付いていて、現実味がなかった。ソープってこんな感じだったっけな、まあそうだな……などと思った。


 彼女は純粋な日本人だとは思えなかった。彼女の出身はなんとなく、東南アジアか台湾あたりだろうと思った。日本語もややたどたどしかった。パネルには〈ユリ〉と日本風の名前で書いてあったが、それがむしろ胡散臭い。素直に自国風の名前でもいいだろうと僕は思ったが、それだと落ち着かない男が多いのかもしれない。少し騙されたような気はしたけれど、チェンジしようとは思わなかった。僕には十分きれいに見えていたし、たまには異国の女もいいだろうと思った。

 僕はそこで性的サービスを受けた。過去にもそうだったのだが、あの照明のせいか、たった一時間ほどの関係だからか、お互いの匿名性ゆえか、そこであったことは店を出るとすぐに幻のようになり、数日でほぼ忘れてしまう。ほんの少し、精神的な感触が残るくらいだ。結果、まさにほんの少し、一時的に晃子の存在が薄らいだが、翌日には反動でそれまで以上に濃くなってしまった。


 その後の一週間、晃子と職場で言葉を交わすことはなく、視線が合うこともなかった。日が経つにつれ僕の困惑は徐々に深まり、八方塞がりになった。晃子に対して何もできず、他の女に当たってみても報われず、そちらの方面に関しては手も足も出ない。

 それでも、というかそれにより、僕は日々の筋トレ(5分間)と瞑想(10分間)を欠かさず行っていた。そして昼は食堂でカレーなり定食なりうどんなりを食べる。もうそれしかできない。それらのルーティン(もしくは日課というべきか)によって、僕の精神は崩れ落ちずに、何とか均衡を保っていられた。

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