3、美しき童心と然るべき成長をこじらせた結果生じる気持ち悪さと

 幼児性を取り戻す――童心に帰ると言えば聞こえはいい。それが必要なときもあるし、迷惑をかけなければそれは悪いことではない。しかし、まず第一に、その良きものとして扱われている〈童心〉とは何か? 何をもって〈童心〉と言っているのか?

 昼食のカップラーメンを食べながら、また朝のように考え込んでしまった。だいたい、カップラーメンで昼食ってことにしている、こんな自分がダメだと思えてきた。明日から、せめて弁当を買おう。値は張るが、仕方ない。本当は自前の弁当がいいのだが、一気にそこには辿り着けないだろう。最終的なゴールは、愛妻弁当だ。中学や高校の同級生たちは簡単にそれを手にしているが、僕にはそれが果てしなく遠く感じられた。


 そう、問題は山積みなのだ。僕のいい加減な食生活、優柔不断さ、大人になりきれていない精神性、そして童心に帰るというときの〈童心〉とは何かという問題……。

 繰り返すが、『童心に帰る』という言葉は、一般的には良い意味で使われている。大人の殺伐とした心持ちでいたところから、何かの機会で素直で豊饒な子どもの心を思い出したときのノスタルジックさを表現した慣用句だ(僕は勝手に、この昼時、そう解釈した)。

 つまり、大人になって失ったのことなのだ、ここでいう〈童心〉とは。子どもの持つ臆病さや我儘さのことではない。そんなところに帰っても、自分も周囲も癒やされない。そして僕は、童心は童心でも、そんなを保ち続け、ポジティヴなほうの童心はすっかり失くしていた。潤いを失くし、殺伐としているだけでなく、臆病で我儘なままだったのだ――だから今、こんなところでカップヌードルを食べているのだ‼ ――飛躍した論理だろうか? いや、かなり直接的だろう。


 昼になると僕は、オフィスビルの食堂には行かず、ビルを出て道路を挟んだはす向かいの大学のキャンパスに入って、売店でカップラーメン(日によって違うものにしている)を買い、適当な空き教室(こちらも日によって違うところにしている)に入って過ごす。昼の大学の教室は意外なほど人が少なく、場合によっては僕一人になることがあった。まさに都会のオアシスだ。

 しかし、一人前の、責任感が強く自立した大人であれば、いくらオアシスとは言え、遠慮するのだろう。僕は久々に自分を客観的にとらえることができていた。そしてそのせいで、僕の背筋は少なからずゾクゾクした。自分がいかに変な人間かを、イヤというほど思い知らされたからだ。

――そう、ここは大学であり、学生のための場所だ。門外漢の安っぽいスーツ姿の中年が、空調も効いてて過ごしやすいからという理由で過ごす場所ではない。それも毎日、カップラーメンをすすりながら。だいたい、学生でさえ、多くは外食しているのだ。だから教室内に人が少ない。ここにいて、僕と同じようにそれぞれ独りでカサカサパサパサの昼食をとっている学生たちは、質素で慎ましい好人物なのかもしれないが、もしかしたら自分で稼ぐのも友人付き合いも億劫で、こんなところにいるのかもしれない――

 そんなことを考えていると、自分でも気付かなかった自分の卑しさが浮かび上がってきた。その中に特に恐ろしいものがあった。それは、大学のキャンパスには若々しい女子大生がたくさんいるということも、ここに通っている理由のひとつだという事実だった。それに気が付いたとき、我ながら気持ち悪いオッサンだと思った。今までは感付きもしなかったが、後ろ指を指されていたことだろう。僕はやはり、若い女に飢えていたのだ。

 そして晃子も、本音では僕を気色悪い変人だと思っていたのだろうかと考え、げんなりした。もしそうだとしたら、よく我慢していたな……。


 僕はカップヌードルを食べ終えると、さっさとキャンパスを後にし、オフィスビルの食堂に直行した。コップ一杯の水を持って席に着き、イヤホンを着け、YouTubeでお気に入りにした音楽をランダムで聴きながら時間を潰した。ローリングストーンズ、ミスターチルドレン、バッハ、サザンオールスターズ、チャーチズ、ショパン、キス、椎名林檎、ビートルズ、トッドラングレン……。脈絡のない音楽が続いて脳内は混乱したが、おかげで余計なことは考えずに済んだ。大事なことは、明日からここで昼食を取ることだった。それさえ忘れなければ、この昼は僕にとって〈合格〉だった。

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