2、ひどい喧嘩の翌日は目覚めたその時から世界が違っている

 晃子とひどい喧嘩した翌日、朝目覚めたときから、世界がいつもと違っていた。空気がぎこちなく感じられ、人も動物も虫でさえもが僕から顔を背けたように思え、僕は自分自身について、強く反省を求められているような気がしていた。


 今の業務に異動してから2年ほどたっており、だいぶ慣れたとは言え、出社が楽しいわけではない。晃子に会うにしても二人きりでないと、ほとんどコンタクトできない。それでも晃子と会うのが一番の楽しみだった。晃子がいなければ、異動希望を出して半年か一年でまた別の、もっと居心地の良い部署に異動していたかもしれない。だが、そんな晃子と取り返しのつかないくらいの喧嘩をしてしまった……。

 幸い、今日は晃子が休みの日だった。晃子に会うことはない。それでも今朝、Yシャツに腕を通すとき、綿のザラつきが妙に大げさに感じられた。僕の動きのすべてが重々しかった。

 アパートの玄関口で外に出ようと古びた革靴を履いたとき、自分の生活しているこの部屋がひどくみすぼらしく見えた。採光が悪いというわけでもないのに、外と比べたときの薄暗さが気にかかって仕方がなかった。

――この歳になったら、もう少しマシなとこに暮らしてると思ってたんだけどなあ――


 10代か20代、もしかすると数年前まで、自分が40歳でこんなに惨めな生活を送るとは思わなかった。いや、今日になって、朝から自分の惨めさにというのが正確なところだろう。貧しくとも、交友がほとんどなくとも、洞窟の中でひたすら座禅をしている達磨大師のように、不幸なんて感じていなかった。だが瞼を開けると、僕の足や腕は壊死していたのだ――。

 暴力的かつ無気力な満員電車に揺られ、僕はいつものように魂を殺していた。言わずもがな、無神経になるのが一番なのだ。こんなところで敏感になっていては、目的地まで乗車していられない。だからほとんどの人々は、無気力なただの肉になろうとしている。ある意味でここには達磨大師が無数にいる。だが、少しでも瞼を開くと苦しくなり、それに囚われてしまうと一気に暴力的になる。そんな人間が一部存在する。

 とまあ、僕なりの満員電車に関する解釈を述べたが、こんなことを脳内でハッキリと言語化したのは、その日が初めてだった。いつもは何も考えず、あっという間に1時間の乗車時間が過ぎるのだが、その日は考えずにはいられなかった――自分を取り囲む状況と、その状況の中の自分自身について。


 押し出されるように電車から出て、何事もなかったかのように階段を目指してカツカツ、ガサガサと音を立てながらホームを歩く。それは僕ばかりではなく、周りも同じだ。僕たちはスーツやコートを身にまとい、黒の集団として不気味な沈黙と憂鬱を共有し、行進する……。

 そんな、あまり好感の持てないイメージが湧いてくると、無意識に何か楽しいイメージを思い描こうと、ある種の逃避が始まった。階段をのぼりながら、〈我々はカラスなのだ〉と思った。〈カラスって素敵じゃないか〉なんてふうには思わない。〈カラスって面白いな〉という具合だ。だが、なんかより、の方が、僕の心は慰められた。楽しい気分になれた。

――そうだ、俺はカラスなんだ――

 そう思った方がいい……いい年こいて情けなく、我ながら残念な大人だと思うけれど、そういうに還るのが、一番の癒しであり救いなのだろう。僕(たぶん、他のみんなも)の魂にとって。

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