4-3

「大変申し訳ございませんでした」



 同僚の男が床に両手をつき土下座している。

 シャワー上がりのオウルの髪から、ポタリと水滴が落ちた。











 ──遡ること一時間半前。


 先に目覚めたのはオウルの方だった。自分を抱きしめる長い腕から這い出してもクロウはピクリとも動かなかった。心配になって首に指を当てて脈を取ったほどだ。


 カラス面で目元は見えないが、微かに開かれた口から寝息が立てられていた。余程疲れていたのだろう、腕の中からオウルがいなくなったことに気がつく様子はない。

 これ幸いとオウルはシャワーを浴びることにした。




 しかし。



(うわぁ……あああ~っ……)



 ふとした拍子に、昨晩のクロウとのやり取りを思い出したのだった。

 よく眠れた。久々に、それはもうぐっすりと。そうして冴えわたった頭で改めて思い返すと、昨日の夜のクロウとのやり取りがどう考えても通常運転ではなかったことに嫌でも気が付く。



「あーあーあー、あたま。頭洗おう。落ち着こう」



 彼女にしては珍しくひとり言を口にし、花の香りのシャンプーで念入りに髪を清める。が、今度は頭を撫でる手を思い出してしまった。

 真っ赤になって体を洗い始めれば、自分を抱き留めて離さない腕が、自分のものでない胸の鼓動が、鮮明によみがえる。


 どうしたというのだ、自分は。

 これまで気にならなかったではないか。


 完全にパニックに陥ったオウルはシャワーの強度を最大にし、お湯ではあるが水行を始めた。早く無心になりたかった。シャワー室から一歩出てしまえば、リビングには一連の犯人クロウが、



「……ぅあー! あのカラスー!」



 ──結局、いつもの三倍時間をかけることになったのだった。




 ようやく冷静になった(というよりも疲れてしまった)オウルは、普段着のブラウスとスカート姿になり、髪を拭いていた。

 するとリビングからけたたましい衝撃音が聞こえ、慌ただしく足音がし、その物音の合間に低い叫び声やら呻き声が挟まり。



「大変申し訳ございませんでした」



 脱衣所の戸を開けて、土下座するクロウが目に入ったというわけである。











 双方動かなかった。オウルの髪からポタポタと雫が滴るのみ。

 パニックだったのはこの男も一緒だったのか、とオウルは妙に冷静になっていた。自分よりも動揺している者がいると逆に落ち着けるというのは、どうやら本当だったらしい。



「クロウ。あの」

「……すまんかった。さすがにやりすぎた、あれはなかった。いくら弱ってたからってやっていいことじゃなかった」

「……そうね」



 大層困らされたのは事実。そして先日オウルを酷く動揺させた前科も、彼にはある。

 オウルの薄い唇が少し上がった。



「何だったかしら。マントのシワは明日伸ばせばいいとか?」

「う」

「あなた勝手にわたしの面を取ったよね。それで髪紐は? とか寝ぼけたことを言うし」

「……ぐ」

「おまけになあに、わたしを抱き枕にして爆睡するなんて。さぞかしいい夢が見れたのでしょうね?」

「…………めちゃくちゃいい夢見れました」

「だまらっしゃい」



 でもまあ、とオウルは密かに息を吐く。

 少しいじりすぎた。誰かに意地悪をするのは何年振りだろうか。



「許してあげる。考えてみればわたしも前に同じことをあなたにしたもの」

「……お前がやるのとオレがやるのとじゃ、話の意味合いが違うだろ」

「そう思うのなら二度としないで。わたしだったからよかったものの、他の女の人じゃあこの程度では済まないでしょうよ」

「他の奴でこんなことしねえよ! お前だけだ! ……あッ」



 ……空気が凍った。

 勢いよく顔を上げた姿勢のまま、カラスが硬直する。



「…………こほん」



 オウルが一つ咳払いすると、クロウがビクリと全身を震わせた。

 これほど同僚は初めて見るわ、と彼女も少し戸惑っていた。



「……失言だった」

「みたいね。さあもう起き上がって、いつまでそうしてるつもりなの」

「あ、ああ。ってお前、まだ髪乾かしてなかったのかよ。道理でいい匂いがすると──」

「ク、ロ、ウ?」



 フクロウの一睨みでカラスは口を噤んだ。

 それがいいとオウルは満足して頷いた。今の彼の口は何を言っても災いの元となるようだから。






    ──◆──◇──◆──






「とうとう北の国ノルタニア南の国サウザも動き出しやがったな。関与してるってハッキリした証拠が出てきた。まあお前も“ネクロ・メモリア”で知ってるんだろうがよ」



 目覚めた後の一件を水に流し、朝昼兼用ブランチを二人で囲んでいた。魔力が不足がちだったためか、今ばかりはオウルもよく食べる。テーブルの上には、バスケットに山盛りのパン、ボウル一杯のサラダ、それからハムやチーズやジャムが所狭しと並んでいる。



「ウチの国は何だかんだって魔法大国だ。これ以上力つけて変なことにならねえうちに潰しておきてえってな思惑らしい。……ゴクン。お前の方から新しい情報はあるか?」


「国境近くの国民が、隣国に移住とか亡命とかしているみたい。それもかなりの数が。アングラな組織が出国コーディネートをビジネスにし始めていて、上層部の処理が追いつかないのよね」


「今、普通の機関もオレら暗部も、どこもかしこもみーんな出ずっぱりだからなあ。そっか、手ェ足りてねえからオレが異常に忙しかったわけだな? 暗殺任務やら追跡任務やら立て続けに舞い込んで、オレのカラスたちがもうへとへとでさ。休ませてやりてえのは山々だがそうもいかなくってよ」



 カラスは食べるのが早い。見る間にクロウの分の食べ物が半分になってしまった。パンにサラダを大量に詰め込んで挟み、大きな口がかぶりついた。

 オウルは表情を動かさなかったが、その目が何か言いたげであることはカラスにはよく分かる。



「──ゴクン……何だい、そんな熱い目でオレを見つめて」

「もっとゆっくり食べれば」

「いつ呼ばれるか分かんねえからさァ。こんなに“休憩時間”出来るのマジで久々なんだよ」



 豪快なサンドイッチは瞬く間に胃袋に消えた。

 新しい魔法だわ、とオウルは現実逃避している。



「……なあ、この間の」



 水で残りのパンを流し込み、急にクロウの声色が神妙なものに変わった。

 上品にチーズとハムのサンドイッチを齧るオウルは首を傾げた。



「ほら、その。お前を随分驚かしちまったアレ」

「……ああ」



 ばつが悪そうにクロウが頭を掻く。オウルは口に入っているものを飲み込んでから、頷いた。



「わたしもあの時は取り乱しすぎたわ。落ち着いてみればあなたはカラスだもの、何を知っていてもおかしくはないのよね」

「……怒って、ないのか」

「怒ってもどうもならないでしょう」

「そうか……そうだな。お前はそういう奴だよ」



 また頭を掻いて、クロウは目を──いや顔を、少し横に逸らした。



「オウル」

「なあに」

「“”、手筈が整った」



 口にサンドイッチを運んでいた手が止まる。

 顔を見せない同僚は、今度こそオウルに真っ直ぐ向き直った。真面目な声のまま、纏う空気も軽くしないまま。



「先日イーグルから連絡が入った。王がとうとう“研究品”を完成させたってな。だからここ最近はずっと、任務の合間を縫って急ピッチで計画を進めていた。ようやっとホークをに引き込めたし、各地のエージェントの協力も取りつけて、細かいところまで詰めて、国内の舞台も整った」



 カラスは淡々と告げる。

 フクロウは瞳に鋭い光を灯した。任務中でも見せない、一度も灯したことのないその色を浮かべたまま、薄い唇がハッキリと笑みを作った。

 笑顔と呼んでいいのかも分からない、ギラついた笑みを。



「そう。ありがとう、クロウ」

「言いだしっぺはオレだからな。まもなくクライマックスだぜ、派手にやってくれよ。──“賢者オウル”殿」






    ──◆──◇──◆──






 食事を終えた後、出動要請が掛けられた〈鴉〉はオウルの森を出ていった。



(手筈が整った……か)



 静かな室内で、オウルはクロウが告げた一言を思い返していた。

 ソファーに座る彼女の手の中には、イザクの手紙。


 考えるように視線をくゆらしていたが、やがて黒曜の双眸が持ち上げられた。

 手紙を入れているサイドテーブルの引き出し、その一番奥から細長い箱を取り出す。蓋を開けると、上品な黒をしたボディの万年筆が現れた。


 そして、白紙の便箋に言葉を選びながら文字をしたためていく。

 いつの間にか顔を忘れてしまった、もう会うことのない、思い出の人を瞼に浮かべながら。




『拝啓 イザクさま


 あなたの手紙を受け取っておきながら、これまでお返事を書かなかったことを、どうかお許しください。


 きっともう書く機会はこれきりでしょうから、最後にこの万年筆を執ります──』

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