血と酒とガラス片
卒業式が近かった。
クラスのみんなは浮足立っていた。何だか最近クラスメート同士の仲が深まって、今までで一番いいクラスなような気がしていた。そう母に話すと「卒業マジックよ」と一言。そんなものもあるのか、と斯く言うわたしも毎日が楽しくて仕方なかった。
イザクと離れるのは寂しいけれど、お揃いで買った万年筆がある。文通の約束もした。長期休暇にはお小遣いを使ってイザクに会いに行くつもりだ。わたしは自分の町を出たことがなかったから、イザクの家へ遊びに行くことも、見知らぬ土地へ足を伸ばすことも、楽しみでたまらなかった。
その日は、間近に迫る卒業式の練習で学校が早く終わった。
今日も家に母はいない。更に今日は帰りが遅い日だと、家を出る前にそう言っていた。だからいつもの癖が出て、少し遠回りして帰ることにした。
平日昼間の住宅街はとても静かだった。
三月の空はとうに春の色をしている。空気も日ざしも温かい。明るい白昼は心を浮き立たせて、人目がないのをいいことにわたしはスキップして歩いた。
そしてある家の前を通りかかった。
小さな一軒家──イザクの家。
(……何だろう)
イザクは今日も学校のはず。
彼のお父さんも、仕事で家にいない……はず。
なら、この変な音は何だろう。くぐもっていて良く聞こえないけれど、何だか胸騒ぎを覚えて、わたしは庭に回ってベランダをそうっと覗いた。
レースのカーテンは乱れていた。
だからその隙間から、一体何が起こっているのかが、ハッキリ見えた。
男の人が両手を血まみれにしていた。
その体の下には、よく見慣れた、大好きな人の姿が──
「…………イザク!」
気が付いたらわたしはカバンを投げ捨てて走り出していた。
焦燥感で沸き立つ脳みその端っこの方は辛うじて冷静で、ベランダは鍵がかかっていたから入れない、入るなら玄関からだ、と高速でシミュレーションしていた。もし玄関からも入れなかったら? その時は隣の家の人だ。
とにかく急げ、急げと玄関の取っ手を引っ張る。汗でぬめったけれど鍵はかかっておらず、子供の力でもすんなり開いてわたしを迎え入れた。
「イザク!」
玄関を入ってすぐ、半開きになったドアの隙間からリビングが見えた。ぐったりと力なく横たわるイザク目がけて、空き瓶を蹴り飛ばして駆け寄る。
「イザク……イザク、しっかり……」
膝をついて肩を揺さぶる。わたしの手がどんどん血に染まっていくのに、イザクは目を開けない。薄く開かれた唇から微かに、細く浅い息が吐き出されている、まだ生きていることに少しの安堵を覚える。
──その時イザクに影が落ちた。
「……っ、つ」
咄嗟に彼を抱えたまま横に転がる。床に散らばっていたガラスの破片が頬に腕に刺さった。
遅れて、ちょうどわたしがいた場所に酒瓶が打ちつけられ、床に破片と液体を増やした。大量に広がる血と酒が臭いを混ぜて酷く眩暈がする。
「クソガキが、生意気に女ァこさえやがったか? ふざ、ふざけんなよ、色気付きやがって」
ドアの影に隠れていた男がゆらりと部屋の明るいところへ出てきた。伸ばしっぱなしの髪も、痩せこけている体のラインも、すべてがイザクのそれとよく似ている。
父親だ、イザクの。皮肉な程にそっくりな男の人は、瓜二つの顔をしかし見たことのない形相に歪めていた。
「オレがァ! 死に物狂いで働いてるってのによォ! テメエは、この、……」
酒の臭いが満ちた部屋でも分かるほど、男からは異常なくらいアルコール臭がぷんぷん漂っていた。回らない呂律で罵りながら、長い手に今度はパン切りナイフを握りしめた。
(どう、どうする? どうしよう……!?)
無我夢中で飛び込んだはいいけれど、わたしはこの男に対抗できるほど力も強くない。武器もない。何より、理性を完全にアルコールに溶かした男に恐怖して、手足に力が入らなかった。
でも、抵抗しなければ。わたしは持ち得る気力を振り絞って、手元に魔力を集めた。
どうにかして切り抜けないと、わたしもイザクも死んでしまう!
「ッ、『
「ガキのクセに舐めてんのか、あァ? たかが女のガキに、この俺が負けるとでも思ったかよ、舐めやがってクソが」
バチン、と生み出されかけた炎は消されてしまった。茫然と両手を見つめるも、もう魔力が戻る気配はない。
(魔力を取られた? そんなこと……)
どうする、どうしよう、武器もなければ魔法も弱い。子供の体格で敵う相手じゃない。でも、動かなければわたしもイザクもこのまま……。
と。
わたしの背後から、骨張った手が伸ばされた。
「…………『
伸ばされた手から鋭い光が放たれる。
それは男の胸の辺りに直撃し、吸い込まれていった。
「……ゥ、……!」
微かに呻いて男がぐらりと体を傾げ、片膝をついた。
その様を見て、イザクが口角を上げる。
「ざまァねえな、親父どの。こういう時のために、俺が何も準備してなかったとでも?」
彼が一言喋るたび、口からぼたぼたと血が溢れ落ちる。それを見て震えることしかできないわたしの、なんと無力なことか。
「イザク……イザク、もう喋らないで。動かないで。動いたら死んじゃうよ」
「大丈夫だよ。死なない。コイツは俺を殺せない。そうだよなあ、だって
これは誰だろう。
笑っているはずのイザクはいつもの柔らかい笑みではない。憎しみと殺意で目をギラギラさせた、笑顔と呼んでいいのかすら分からない笑みだった。
その顔が怖くて、でも本当はそんな顔をしなければならないイザクが悲しくて、わたしは何も出来なくて、動けない。血と酒の臭いで正常な思考が出来ない。
「焦ってんだろ。いつまで経っても“アンチ・マギカ”があんたの中に芽生えなくて。さっさと見切りつけりゃあいいものを、無駄にプライドが高いからそうやってしがみ付く」
「やめろ……」
「だから母さんが逃げたんだ。残った俺も殺せない、殺したらあんたの人生も終わりだもんな、母さんがいなけりゃ子供も作れねえ。もう寄ってくる女もいねえ。いい復讐だと思うよ、せいせいするよ、さすが俺の母さんだ」
「……ッ、黙れ……」
「俺の就職先が国に決まってビビったんだろ。いつか息子が魔法を奪いに来るんじゃないかって。馬鹿だなあ、あんたと違って不確かな魔法の存在に縋るような愚か者じゃ……」
「減らず口叩いてんじゃねえ!」
怒号と共に男が間合いを詰めてきた。
咄嗟に目を瞑るも、衝撃は襲ってこない。ハッと目を開ければ、男の足がイザクを何度も踏みつけていた。
「テメエが俺の魔力を吸い取ってんだろうがよ、忌々しいクソガキが! 分かるかテメエ如きに! その“マギカ・ロスト”だって俺から取り上げた
「やめて! お願いやめて、イザクが死んじゃう!」
「──ああそうだ」
据わった目がゆらりとわたしを捉える。肩を震わすわたしに大きく長い手が伸びて、首根っこを掴まれた。
「う、ぁ」
「このガキがいるから粋がってるんだよなあ。コイツを殺せば、ちったァ大人しく言うこと聞くか?」
──おとなはこんなに怖いのか。
イザクは怖かったんだろうな、ずっと。視界と意識が霞む中で、ぼんやりとそんなことを考えていた。
わたしの寂しさで彼を引き留めてはいけない。イザクはこの人と一緒にいてはいけない。早く断ち切って、新しい場所で生きていくべきだ。
「イ……ザク、逃げ……」
ちゃんと言えたかな。
目の前が真っ暗で、自分の声もよく聞こえない。
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