父の魔法、母のおまじない

 ふと目を開けた時には、わたしは床に転がっていた。

 喉を押さえてけほけほと咳き込む。鼻から喉から異臭が流れ込んできて、余計にむせてしまう。何とか息を整えて、そういえばイザクは、と辺りを見回す。


 イザクは少し先にいた。

 力なく床に座り込んで、肩で息をしていた。



「……最初からこうしてりゃよかった」



 空虚な彼の声が、やけに静かな部屋に落ちる。

 ……胸が、ざわりとした。



「そうすれば、母さんも遠くに行かなかった。……君も、そんな風に傷つけなくて済んだのに」



 くく、と彼の肩が揺れる。

 わたしは立ち上がることができず、イザクから下へと視線をゆっくり移す。


 傷だらけの、細い骨張った腕。

 血に塗れた手に握られたナイフ。

 異常なほど溢れかえる、夥しい量の血。


 ──床に横たわって動かない、誰かの足。


 見るまでもなかった。血と酒とガラス片の海で、イザクの父親が事切れている。



「くくく……ふふ、ふははッ、ははははは!」



 イザクは笑っていた。

 まだその目はギラギラと鋭かった。



「あっはっはっは、やっと死んだ。やっと死んだ! 本ッ当、どうしようもねえクソ親父だった。さっさと見切りつけて別の仕事就きゃよかったのに、いつまでも縋って囚われて。息子見るたびに魔法取られるんじゃないかってビクビクして。情けねえなあ、ホント、……」



 吐き出す血と一緒に罵声を浴びせていたが、不意にくしゃりと……イザクの顔が歪んだ。



「……馬鹿だなあ……」



 その一言だけ残して、イザクも血の海に体を沈めた。

 わたしひとりが、部屋の中で目を開けている。



「……ぅ」



 涙が出て来ない。声も出ない。何も考えられない。

 むせかえるほどの血の臭いと、酒の臭いと、初めて嗅ぐ何とも言えない嫌な臭いで頭がぐらぐらした。すぐさまその臭いが“死臭”であることに気が付く。


 目の奥にイザクの顔が焼きついて離れなかった。父親が憎くてたまらない、というふうでいて──泣くまいと歪んだ、辛うじて作った笑みが。

 わたしが殺したようなものだ。イザクの父に殺されかけたわたしを助けるために、彼はナイフを手に取ったのだろう。そして、唯一の親を手にかけて、戻れたかもしれない親子関係に終止符を打ったのだ。




 わたしが。

 イザクを、親殺しにさせてしまった。




 果てはイザクも死んでしまう。

 わたしが自分のしたことに押し潰されているばかりに。






 その時だった。

 リビングに、誰かが入ってきた。


 ゆるりと緩慢な動きでそちらを見やると、黒い影が立っていた。

 影はマントだった。フードを被って、顔があるべきそこにはフクロウのお面がついていて、目元を隠している。



「ああ……なんてこと」



 影が小さく呟いた。その声にどこか聞き覚えがある。

 小さくかぶりを振ったフクロウはわたしに近づいて背に手を置いた。



「……怪我はない?」



 コクリ、と頷く。ああ、わたしはこの手も知っている。

 フクロウは次に、血の中で横たわる二人に歩み寄った。いろんなものが散乱するこの部屋で、足音がまったくしない。



「そう……〈ハイエナ〉、あなたとうとう……」

「……?」

「安心して。男の子の方は無事だわ。……これからが大変でしょうけれど」



 よく見れば、イザクの体は僅かに呼吸しているように上下していた。けれど、徐々に生命力が流れ出しているのが分かる。


 イザクの首は痣ができていた。わたしが来るまでに、首を長いこと絞められていたようだった。

 更に顔にも腕にも手にも、胸や腹にまで、大小様々な刺し傷や殴打の跡、火傷があった。今についたものだけではないのだろう。


 フクロウがイザクを抱き起こして怪我の状態を確かめるのを、まだ痛む首をさすりながらぼんやりと眺めていた。



「……なにしてるの、お母さん」



 そんな言葉が口をついて出た。フクロウがピタリ、と動きを止める。



「お母さんでしょ。どうしてそんな恰好してるの?」

「…………」

「イザクのお父さんと、知り合いだったの?」

「…………」

「……ねえ、答えてよ……」



 ゆっくりとイザクを床の綺麗なところに横たえ、フクロウ──母はわたしの前に膝をついた。黒い手袋を嵌めた手で、わたしの両頬を挟む。



「ここに居るのがあなたでなければと、これほど思ったことはないわ」



 ハッキリと母の声になり、深く悔いるようにそう言う。



「ああ……あなただけは、巻き込みたくなかったのに」

「どういうこと?」

「でもまあ、遅かれ早かれってことだったのかしらね。そうでしょう、〈イーグル〉」



 母がわたしの肩を透かして後ろに呼び掛けた。いつの間にやら、そこにはもう一つ背の高い影が立っていた。

 その影は、母とは違う低い声で言った。



「娘か」

「ええ。かわいいでしょう、自慢の娘よ」

「……気の毒に」

「……そうね」

「よくこれまで王の目を欺けたものだ。我々の情報力をもってしても居場所を突き止められぬとは」

「そりゃかわいい娘と少しでも長く居たいもの。お母さんがんばっちゃった」

「“母は強し”、か」

「ふふ。強かったら、もっと上手いことどうにかできていたわ」



 イーグルという男とそんなやりとりを交わしながら、母の手がいとおし気にわたしの髪を撫でる。乱れていた黒髪を、ゆっくりと、惜しむように。

 その手つきにわたしは安堵しなかった、むしろ胸にさざ波が立って渦を巻く。



「……ねえ、もうちょっと伸ばせないかしら」

「無理だな。お前の体に限界が来ている以上は。もう魔力回復では追いつかないのだろう? “ネクロ・メモリア”を早く継承せねば、王は次に何をするか」

「それだけは勘弁ね。あーまったく、人の夫を奪っておきながら、今度は娘との幸せまで。酷い王もいたものだわ。……ちょっと、今のオフレコよ」

「言えるか。私の首が飛ぶ」



 ──とてつもなく、胸がざわつく。

 このまま時間が止まればいい。お願いだから。

 でもこの世のどこにも、時間を操る魔法は存在しない。



「イーグル。娘を頼むわね」

「承知」

「お母さん……どういう、何、なにを」

「最期に娘と二人きりにしてくれない? 逃げないし、すぐ終わるから」



 イーグルと呼ばれた影は、すうっとその場から消えた。陰に溶け込むように。

 母がフクロウ面を外して膝に置いた。フードを取り去った。豊かな黒髪を湛えた母の顔は──随分とやつれて見えた。



「ごめんなさいね。

「お母さん?」

「いい、時間がないから、『よく聞いてちょうだい』。……あなたのお父さんはね、国の暗部で働いていたの」






 母は早口に説明した。

 父の固有魔法“ネクロ・メモリア”はとても便利だった。死んだ人の秘密すらすべて暴いてしまう魔法を、魔法独裁政権を敷く王が欲しがらないわけはなく。日夜分かたず無理やり死体を“読み取”らされた父は、大量に出入りする魔力に体が耐えきれなくなってしまった。


 しかし当時、固有魔法の継承権を持つわたしはまだ幼く、大きすぎる魔法を宿すには早すぎた。このままでは“ネクロ・メモリア”が失われてしまうと危惧した王は、その妻──つまり母に、無理やり魔法を移し替えたのだった。



「それでお父さんが死んで、私が代わりに暗部で働くことになったの。情報を改ざんして、娘はいないと思わせて」



 けれど、本来“ネクロ・メモリア”を有するはずでなかった母の体は徐々に蝕まれていく。使う都度魔力を回復していたが、それも長くは持たず……そうこうするうちにわたしの存在を突き止められてしまった。



「しばらく居場所も誤魔化してたのだけど、イーグルに見つかっちゃったらもうどうしようもないわ」

「……ねえ」

「うん?」

「……お母さんは、どうなるの」



 母は悲しそうに微笑んだ。わたしの前では一度も泣いたことのない母が、琥珀色の目に涙を浮かべていた。この先の言葉を聞きたくなかったけれど、先ほど母が使った『よく聞いて』という“おまじない”が耳を塞ぐことを許さない。



「卒業祝い、まだだったね」

「いや……」

「最期に最悪なプレゼントを残していくなんて、私は母親失格だわ。思う存分罵ってちょうだい」

「お母さん」

「ねえ、“おまじない”覚えてる? 小さい頃に私が封印した、あの」



 手袋を外した母の手が、再びわたしの頭を撫でる。頬に触れる。目元に親指を添えて、お父さんそっくりの目ね、なんて囁く。

 そして額が触れ合った。魂に刻まんとするかのように。



「誰にも知られてはダメよ。あなたはしっかり者だから大丈夫ね。本当に自分を裏切らない人にだけ教えること。私にとってのお父さんみたいに」

「……あ、あ」

「『言霊ロゴス、解放』」



 体の奥で温かい光が息を吹き返した、そんな感覚がわたしを包んだ。魔法を使う時とは別の、もっと強い力。小さい頃「あなたもおまじないを受け継いだのね」と言われたことを思い出す。



「私は“ロゴス”と一緒に、あなたの中にいる。それを忘れないで」



 それを聞いて、大人でもどうにもできないことなのだと悟る。


 この世の誰にも時間が止められないように。

 死んだ人を取り戻せないように。


 上手に料理ができても、盛り付けだけは上手くいかないように。



「そして、これから渡す力は元はお父さんのものだから。あなたの中で、お父さんも私も生きている。一人じゃない。……ね?」

「……うん」



 諦めた。

 逃げることもできない。先ほどの会話からして、この国の王様はとても怖い人なのだろう。そして、どのみち母の命は長くはなかったのだと、母を目の前にして思い知らされた。

 家にいる時は魔法で誤魔化していたのかもしれない。母の顔色は既に死人と紛うほどのものだった。わたしを一人にしたくない、その一心でずっと闘っていたのだ。



「もういいか、〈オウル〉」

「ちょうどいいところに。……この子を傷つけてご覧なさい、夫を連れてあの世から復讐しに来ますからね」

「悪い様にはならないだろう。“ネクロ・メモリア”がこの子のものになれば、あの王といえども丁重に扱うはずだ。王の犠牲になるような憐れな子を、私も乱暴に扱ったりはしない」

「そうね。あなたは誠実な人だもの」



 抱きしめられた。長いようで、一瞬だった。この温もりを、匂いを、記憶の一番深いところに焼きつけて、わたしは頷いた。




 “固有魔法”とは親から子へ継承されるものだと、学校でも教わった。

 前の所有者が絶命すると、魔法の使用権が子へ移る。徐々に子に吸い取られるパターンもあるらしいけど、わたしに新しい魔法の気配がないことからして、母の持っているものは前者なのだろう。




 だからこの後何が起こるか、さすがのわたしももう分かっていた。


 さようなら、愛してる。

 それからわたしの名前を最期に囁いて、母の腕から力が抜けた。


 かわりに体の奥底の方で、新しい──それでいてどこか懐かしい光がふわりと宿るのを感じた。











 わたしは、ひとりになった。

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