Chapter 1- フクロウ少女とカラス男

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 黒いマントに身を包んだ背の低い影が、夜の森を駆けていく。

 任務を終えたばかりのオウルだ。


 彼女を襲う獣はいない。この森の獣、鳥、虫から植物に至るまですべてが彼女の支配下であった。国の諜報機関のエージェントである彼女が〈オウル〉──“夜の賢者”、“森の支配者”の名を預かる所以ゆえんである。




 やがて木々の間に姿を現した小さな小屋に、オウルは向かって行った。

 ポケットから鍵を取り出し、穴に差し込んで回す。カチャリとかすかな音を立てて、錠前は小気味よく回って主人を迎え入れた。


 玄関の戸を閉め、壁に打ち付けられた釘に脱いだマントとフクロウ面を掛ける。小さく呪文を唱えて灯りを点け、火のない暖炉に手をかざして炎を灯す。

 オウルはそのまま浴室へ向かい、シャワーを浴びた。普段使いのものではなく、任務後に使う花の香りのシャンプーで髪を洗う。死臭を少しでも消すためと、落ち込んだ気分を癒すためだ。


 シャワーを終えたオウルは、質素なワンピースを身につけた。

 仕事着の制服とマントに隠れて見えなかった、華奢で小柄な体躯。黒曜石のような瞳は憂いを漂わせる長い睫毛に伏せられている。少女というにはやや大人びた印象を与える彼女だが、実はもうすぐ十代を終えるる齢である。


 魔法で髪を乾かし、肩まで伸びる黒髪を後ろで束ねると、オウルは部屋に向かって片手を突き出して唱えた。



「『塵は外へ、汚れは水場へ。悪いものは此処よりね』」



 すると部屋全体が光を帯び、掃除が始まった。

 塵や埃は開けられた窓から外へ出ていき、テーブルに染みついた汚れはひとりでに浮かんで流しへと流れた。



(“悪いもの”はいないようね)



 様子を窺うオウルは心の中でひとちた。時々留守中に、いつの間にか呪いを仕掛けていく輩がいるのだ。

 監視目的かオウルの死が目的なのか、どのみちオウルにとって害のあるものでしかない呪いを、彼女は時々こうして“掃除”するようにしている。


 ものの数分と経たぬうちに、魔法を使った掃除は終わってしまった。

 窓を閉め、花瓶に花を生けて水を遣る。ここまでが、彼女の任務後のルーティンだった。



(いいえ、あともう一つ……)



 ちょうどその時、扉をドンドンと誰かが叩いた。

 一つ溜息を吐いて、オウルは扉を開ける。



「本当タイミングが良すぎるのよ。毎度毎度」

「そりゃ狙って来てるからな。喜べ、今日はカニ持って来てやったぞ」



 よく通る低い声の来訪者は、オウルの仕事着と同じものに身を包む、黒ずくめの長身の男だった。黒髪は後ろに撫でつけられ、細面ほそおもてと思われる顔は、半分がカラスを模した面に覆われている。

 そして、黒くて分厚い革手袋を嵌めた手には、棘だらけの手足をぶら下げるカニが。



「あれ、嬉しくねえのかよ。カニだぞカニ、超高級品」



 男はカラス面から覗かせる口元を意地悪く吊り上げた。

 長い長い溜息がオウルの口から再び吐き出された。呆れているのだ。



「クロウ、あなた……わたしの今日の任務知ってるでしょ」

「何だっけ。遺体の検死だろ」

「そうよ、それものね。やめてよ本当に、こんな日にカニ味噌なんて見たくないのに」

「脳みそぶち撒けられてたから?」

「バカ!」



 表情に乏しいオウルがとうとう、語気を強めて言い返した。

 クロウと呼ばれた男は満足げに笑った。笑いながら小屋に入り、カニを手にしたままキッチンへと向かった。




 この男は〈クロウ〉、諜報機関のエージェントで〈オウル〉の同僚だ。

 死体や動植物を介しての情報収集や記憶の改ざん、抹消を行うオウルとは違い、クロウは独自の情報網を駆使して国内外問わず様々な情報を集めてくる。“あちこちから情報をついばむ”ということで〈クロウ〉の名がついたのだと、オウルは誰かに聞いたことがある。


 決して暇人ではないとクロウは豪語するが、その実頻繁にオウルの元にふらりと現れる。特にオウルが任務を遂げた後は必ず、こうして嫌がらせともとれる手土産を片手に、掃除が終わって花を生けた頃を見計らって戸を叩くのだ。


 やっぱり暇人に違いない、とオウルは彼を見るたび思う。

 そして、嫌がらせには違いないが、妙に律義なところがある男だ、と評している。






 茹でたカニを適度に解体し、二人は卓について食事を始めた。

 パンと、カニ。遅すぎる夕食にはちぐはぐなメニューだが、元から小食のきらいがあるオウルと、ガサツな男クロウは気にしない。


 夕食の間、二人は口を開かない。この静かないつもの習慣を、暖炉の火が爆ぜる音だけが彩りを添える。

 クロウの嫌味ったらしい土産にすっかり慣れているオウルは、なかなか美味しいカニだ、と味を堪能していた。茹で加減もちょうどいい。オウルとしてはそこがまた小憎たらしくもあるのだが。



「ふう、ごちそうさん。カニ味噌食わねえの?」

「結構です。あなたが買ってきたものですので、一番おいしいところはご自分で召し上がりなさいな」

「そうプンスカすんなって。かわいいお顔が台無しですよ、ッと……フォーク投げつけるんじゃねえ、行儀のなってねえ奴だな」

「……ふん」



 オウルは不満げに鼻を鳴らす。ダーツの如く鋭く投げつけたフォークをいとも容易く躱されたからだ。壁にあたって床に転げたフォークを魔法で手繰り寄せ、オウルも最後の一口分のパンを頬張った。

 咀嚼して飲み込み、水を流し込むまで見守って、クロウは満足げに頷いた。



「よし。んじゃあいつもの始めますか」

「……今日はいい。そんなに魔力使ってない」

「嘘つけェ。飯食っても顔色悪いぞ。死体の読み取りがキツいってのは知ってんだよ。オレとお前の仲だろうが、今更何を遠慮することがあるかね」

「言葉選びに悪意あるんだけど」

「ハイハイ。いいから早くこっち来い」



 そう言ってクロウは食卓を離れ、ソファーを我が物顔で陣取って両腕を広げた。

 これから待ち受ける行為のわりに甘さがまったく漂わない。オウルは溜息を抑えきれなかった。


 仕方なしに、オウルも彼の隣に腰かける。

 そしてそのまま、すっぽりと腕に閉じ込められた。


 目を閉じる。制服も手袋も厚いのに、温もりが伝わってくる。

 彼の体温のせいではない。を通してクロウの魔力を注ぎ込んでもらうのだ。



「今日は言う程減ってないから大丈夫なのに。眠れば自己回復できるよ」

「そうは言っても、がオレの任務なんでね。言うこと聞いてもらわねえと〈イーグル〉に叱られんのはオレなんだぜ、協力しろよ」

「……ん」

「それにな。やせ我慢してるようだが、そこそこ減ってるぞ」



 様々な魔法が溢れる中でも、オウル固有の魔法“ネクロ・メモリア”は貴重だ。彼女にしか使えないこの魔法を国が失うわけにはいかず、こうして任務後には必ずクロウを寄越し、魔力欠乏を防ぐために回復させる。

 これはオウルにとってはただの回復だが、クロウにとってはれっきとした任務であるので、彼はエージェントとしての服装のまま毎度この家を訪れる。そういうところが律義なのだ、とオウルは思うのだった。



(わたしは素顔を晒してしまっているけど……クロウの素顔は、知らない)



 自分よりも高い体温を感じながら、オウルは思いを馳せる。

 一度「カラス面の下を見てみたい」とクロウに言ったことがあった。だが拒まれた、「任務とプライベートは分ける主義だ」と。

 じゃあわたしも面を……と手を伸ばすと、それはそれで止められた、「お前はプライベートだろ」と。



(……不公平だわ……)



「ああ、そういや今回は預かり物がある」



 パッとオウルが顔を上げると、間近にカラス面があった。

 面はオウルの少し向こう側を向き、革手袋を嵌めた片手にオウルを抱いたままもう片方の手で懐を探る。

 取り出されたそれは手紙だった。封蠟で閉じられた手紙を見るなり、オウルの幼さを残す顔いっぱいに喜色が広がった。珍しく表情を出す瞬間だ。



「今見ても?」

「おう。ポジティブな心理状態の方が回復も早いし」



 返事を待たずにオウルは体勢を変えてクロウの足の間に収まり、受け取った手紙の封を開ける。その手つきはごくごく丁寧で、大切な宝物を扱うようである。



『お元気ですか。こちらは朝晩の冷え込みが深まってきました。君への手紙を書いている今も手が震えて仕方がない。さっき薪を足したから、そろそろ暖まるだろうけどね。

 君もどうか温かくして、風邪をひかないでいてほしいと思う。体に気を付けて。 ──イザク』



「へっ。いつ見てもキザなセリフだぜ。読んでるこっちが歯ァ浮きそうだ」



 首を後ろによじって面の男を睨む。クロウは呆れたようにひらりと手を振った。

 オウルはもう一度手紙に目を落とし、乾いたインクの文字を指でなぞる。目を閉じると彼──イザクの、細くも骨張った男らしい手が、万年筆を走らせる様が瞼に浮かぶ。



「文通相手ってだけの奴に、よくそうも執着するもんだな」



 尚も面白くなさそうにクロウが言いつのる。

 どうしてクロウが不機嫌そうにするのか、オウルはよく分からない。よく喋る口がペラペラと動くのを、下から目だけ上げて見ている。



「もう何年も会ってねえんだろ? 相手も相手だ、返事もくれない奴によくもまあちょくちょく寄越すもんだ。つーかその送り主本物かよ」

「いいんだよクロウ」



 手紙を封筒に仕舞い、そっと胸に押し当てる。

 遠い過去の、もう戻れない日々に思いを馳せる。胸が締めつけられるように苦しさを訴える、その痛みすら掻き抱くように、手紙を大切に抱える。



「本人じゃないとしても、言葉がたとえ嘘だとしても──これはわたしにとって、光なの」

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