イザクとわたし

 学校から帰ると、母の書き置きがあった。



『ごめんね、今日も帰りが遅くなります。

 オムライスを作っておきました。温めて食べてね!


 今週末の休みは絶対に死守して見せる!

 動物園に行く準備、忘れないでね。

  ──お母さんより♡』



 キャラクターのメモ用紙の横には、ラップを掛けられた皿が置いてある。

 わたしはちょっと眉をしかめて、そして笑みに変えた。母の料理は美味しい、けれど盛り付けが壊滅的に下手くそなのだ。オムライスの残骸に、ケチャップでわたしの名前を書こうとして失敗した跡が残っている。


 学校の宿題を適当に終わらせて、教本を片手に魔法の練習を始めた。成長期は魔力の出力がなかなか安定しないと先生が言っていたけれど、わたしは結構上手に使いこなせている方だ。今日も褒められたので気分がいい、お陰で練習も捗る。


 心身ともに不安定になりがちな成長期だからこそ、魔力が特に強まる頃だ、という。

 だからその年頃によく勉強をして、魔法の熟練度を上げることが、優れた魔法使いになるコツらしい。学校の先生も近所のおじさんおばさんも、母もそう言っていた。

 早く一人前になって、女手一つで育ててくれた母を楽させたい。たくさん一緒にいろんなところへ行きたい。それがわたしの、ささやかながらに強い願いだった。






 ……でも時々、母の帰りが遅くなるような日は特に、寂しくてたまらなくなる。

 魔法を使って温めたオムライスを食べた後、どうしようもない寂しさが襲ってきた。本を読んでも、クラスで流行りのトークラジオを聴いても、この寂しさは埋まらない。



(まだ……出歩いても大丈夫だよね)



 時計は19時を少し過ぎたところを指している。

 財布を片手に立ち上がり、家の戸締りをして散歩に行くことにした。


 夏だけど、日が落ちると涼しくなる。薄い上着を羽織らないと肌寒い。

 パーカーの前は開けたままにして、わたしは夜の住宅街を一人歩いた。悪いことをしているような気分にもなるけれど、一方でちょっとした冒険心も疼く。

 街灯に白く照らされながら、仕事帰りの大人たちを逆行していくのが楽しくて、はやる気持ちを抑えながら歩いた。




 商店でアイスを買った。一番安い棒付きのアイスキャンディー。

 母の分にもう一つと、それから駄菓子も少し買って帰路につく。帰りは少し遠回りの道を選んだ。空っぽにして待ち受ける家への帰宅を少しでも遅くしたかった。


 途中よく友だちと遊ぶ公園を通った。夜の公園とはまたなものだ、と覚えたての言い回しを使ってみて、気恥ずかしくなって誤魔化すように寄り道を決めた。

 昼間とはまた違う雰囲気を漂わせる公園は、遊具も草木もじっと息を潜めているようだった。ベンチでアイスを食べようと思い立ってそちらを見やって──



 ──先客がいた。



「あれ、子供だ?」



 隠れられなかった。目が合って、話しかけられてしまった。

 わたしより年上のお兄さんだ。たぶん十五、六くらいの、魔法専修学校の学生くらいの人。

 少し怖くなって体を強張らせると、お兄さんは困ったように眉尻を下げた。



「ごめん、怖がらせるつもりはなかったんだけど」



 男の人だけど柔らかい口調で、少し警戒心を解いた。

 そして気が付く。お兄さんが、怪我をしていることに。



「えっ、と、あの……」

「ああこれ? ……まあちょっとね。大丈夫、いつものことだ」



 シャツの襟から覗く、痣の浮く首をさすって朗らかに笑う。とても眩しい笑顔なのだけど、それが余計に痛々しくわたしの目に映った。

 わたしもベンチに腰掛けた。座った後で、本当は悪い人だったらどうしよう、とようやく危険性に思いが及んだけど、まあなるようになると投げやりになってしまった。



「……アイス、食べる?」



 少しパニックにもなっていたのかもしれない。気が付くとそんな言葉が口から飛び出していた。

 お兄さんは一瞬驚いた顔をして、すぐに柔らかく笑った。笑うととても子供っぽい、素敵な笑顔だと思った。






    ──◆──◇──◆──






 お兄さんとわたしは、それから公園でよく会うようになった。

 お兄さんはイザクという名前だ。同じ町の小さな一軒家に父親と二人暮らし。でもお父さんのことは嫌いらしい、痣を付けた主が父親だという。



「仕事でうまくいかないからって、しょっちゅう飲んで帰って来ては殴りかかってくるんだよ。前よりいくらかは躱せるようになってきたけど、酔っぱらうと動きが読めなくて、どうもやりづらい」



 イザクと会う度に、彼は反省会を開催する。

 問題にすべきは動きを見切るかどうかではないといつも思うけど、わたしは口を挟まない。覚えたばかりの回復魔法をイザクに掛けてあげるだけ。



「あんまり治しすぎないでよ。余計にあいつをイラつかせるから」

「……それでいいの?」

「いいんだよ。まず、君くらいじゃあ完全に治癒ヒール掛けるのは無理だ。俺を練習台くらいに思えばいいよ。滅多なことじゃ失敗しないんだし」

「うん……」



 そう言ってイザクはわたしの頭に手を置いて、わしゃわしゃとかき乱した。髪型が崩れるからと非難してもどこ吹く風、柔らかく笑うだけでちっとも面白くない。それがどことなくくすぐったい居心地にさせて、尚悔しい。


 わたしは母と仲がいい。お母さんが大好きだ。

 でもイザクはそうではない。だから、わたしから何かを言うのは憚られて、いつも言葉少なになってしまう。

 早く大人になりたい。もっと気の利いた言葉を、イザクに贈ってあげたい。






「最近、男の子と会ってるんだって?」

「けほっ」



 母は国の機関で働くスーパーウーマンだ。珍しく平日に早く帰宅した母にそう言われて、思わず飲んでいたオレンジジュースを噴き出した。

 可笑しそうに母は笑って布巾で拭いてくれた。



「……知ってたの」

「そりゃあ、あなたのお母さんですからねー。何でもお見通しですよう」



 ニヤニヤする母に少し口を尖らせた。

 何をお見通しなのか、一体。



「あなたもそういうお年頃になりましたか。お父さん天国で悔しがってるでしょうね」

「そういうって何よ」

「うふふ。今度紹介してちょうだいね」



 お母さんが思ってるようなものじゃないよ、と言い返したけど躱された。代わりに頭を撫でられた。イザクのせいで乱れたわたしの黒髪を、同じ髪を持つ母が整えてくれる。

 慈しむような母の手つきに目を閉じて委ねていると、母がぽつりと溢した。



「本当、このまま時間が止まればいいのに」



 母の声に混じる感情が一体何なのか。それを知るにはわたしは幼すぎて、だけれど胸がざわつくには十分だった。

 でも目を背けてしまった。胸にせり上がってくる、言い知れぬ感情から逃れるようにして、わたしは母の胸に顔を押しつけたのだった。

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