第9話
四人分の仕事は、結局夜だけでなく、次の日の夕方までかかってしまった。しかし無事に納期に間に合わせることは出来た。
「量だけはあったものね。とりあえずお疲れ様、ラト」
「エルテさんもお疲れ様です。夕食を済ませたら、ドレスに取りかかりますか?」
「そうしましょう。そうだ、どうせだったら外に食べに行きましょう。作るの面倒でしょう?」
「いいんですか?」
「もちろん。って言ってもすぐそこのリオ飯亭だけど」
「全然嬉しいです! だって美味しいじゃないですか」
「大将や女将が聞いたら大喜びね。さ、着替えてらっしゃい」
ラトは先の仕事でほつれた布の端を切りそろえ、のりで固めて始末する作業をしたために、作業時に付けているエプロンの上には糸くずやのりが付いていた。それだけでなく、エプロンで防ぎきれなかった部分にも糸くずが飛んでいた。
このまま食事処にお邪魔するのは確かに良くない。
「すぐに戻りますね」
「急がなくて良いわよ。すぐそこだから」
エルテにそう言われたものの、外食という一大行事はラトを子どものように喜ばせて気持ちを急かした。
階段を転がり落ちるように戻ってきたラトに、エルテは苦笑で迎えた。
「全くもう……」
「さ、行きましょう。エルテさん!」
嬉しくてたまらないラトは、その調子でリオ飯亭の大将と女将を喜ばせて、肉巻きとチーズの揚げ物もそれぞれ二つもおまけしてもらうという大サービスを受けて、揚々と工房に戻った。
「あれだけ食べたんだから、期待しているわよ」
「もちろんです。でも私もっと食べられましたよ」
「そうだったわ、あなたまだ成長期だったわね」
長く一緒にいるからエルテもついそんな当たり前の事を忘れてしまうようだ。
二人が出かけたリオ飯亭は炊事場の裏口から少し歩いた先にある。だから二人はリオ飯亭から工房の裏口に戻ってきた。工房の店先に行くには、通りを大きく迂回しなければならなかったからだ。
「あれ?」
裏口のドアノブをひねって引いたエルテが声を上げる。
「どうしたんですか?」
「私鍵掛け忘れたみたい」
「え、そんなこと……」
不用心だと口にしようとして、ラトは言葉を止めた。
エルテはちゃんと鍵を閉めた記憶が頭をよぎったからだ。行きがけ、ラトは外食が楽しみでエルテを急かし、エルテは裏口の鍵を掛けながらラトをなだめていた。
だから鍵を掛け忘れたなんて、信じられなかった。
しかしラトが何か言う前にはエルテは工房の中に入っていた。
「エルテさん、待って」
エルテは作業場へと昇る階段の中ほどまで行っていた。
「おかしいです。鍵、ちゃんとかけたはずなのに」
「そうだっけ?」
鍵を掛けた当人の記憶が曖昧だった。エルテはラトに急かされた事のほうが印象強かったのだろう。
エルテはラトと違って警戒していなかった。
ラトが呼びかけても足を止めず、店部分の三階まで昇って行っていた。
「エルテさん!」
ラトの中に何か分からない不安が滲み、広がっている。
なぜか分からないけど、何かおかしい。そんな気がして仕方が無かった。
「大丈夫よ、ラト。ただの私の掛け忘れただけだから」
軽やかなエルテの足音は、階段の上へと昇っていく。ラトは拭いきれない不安を抱えたまま、その後を追った。
おそらくエルテは自分の作業場に置いてある、絹用の糸を取りに向かっている。ラトも屋根裏部屋に作りかけのドレスや、夜光虫を取りに行こうかと考えた。
エルテはやはり店のすぐ上の階にある彼女の作業場にやってきて、薄暗い中、棚を探っている。そして、彼女の作業場には彼女一人しか見当たらない。
エルテの言うとおり、エルテの鍵の掛け忘れだったのだろうか。
しかしここまで来て、何も無かったのだ。そうに違いない。
ラトは未だに不安は拭い去れないが、外からのわずかな光で物を下がるエルテに声をかける。
「屋根裏から持ってきますね」
「お願い。そうだ、今日は良い茶葉が入ったから、お湯を沸かしておくわね」
「それは楽しみですね」
花嫁衣装作りでの楽しみはいくつかあるが、その一つが夜のおやつだった。いつもあるわけではないけれど、作業が長引きそうなときはエルテが用意してくれる。
ラトは美味しい物の話には明るくないので、エルテが選んで買ってきてくれるお菓子やお茶が楽しみだった。
ただ、夜のおやつがあるということは、今日は遅くまで作業があるということだった。
明日はお店を開くのが遅くなるかもしれない。
ラトはそんなことを考えながら屋根裏部屋へと足を踏み入れる。
屋根裏部屋には頼りない月明かりが差し込んでいた。慣れた場所だったから、ラトに不安は無かった。もしうまく行かなくても、夜光虫の虫かごさえ見つければ何とかなる。
しかし作りかけのドレスを入れた木製のクローゼットに近づこうとして、指先が何か重くて堅いものにぶつかり、ラトはうめいた。
元々私物の少ないラトは、屋根裏部屋を綺麗に片付けていた。床に物を放っておくなんて、まずあり得ない。
何にぶつかったのか確かめようとして、目線を下ろすが、薄暗くて何か分からない。仕方なしに夜光虫の虫かごを探す。夜光虫の虫かごは部屋の角に置かれている。
薄暗い中、そこへ向かうも途中で違和感を抱く。
それらしいものが見当たらないのだ。
部屋の隅に辿り着いて、手を伸ばして探るが、やはり夜光虫は見当たらない。
「あれ……?」
おかしい。
くすぶっていた違和感が、再び勢いが増す。
そのとき、屋根裏部屋の開けっぱなしになっていたドアが閉められた。
「えっ」
あのドアは何の拍子で動くような軽いものでは無い。蝶番の動きもどこかぎこちなくて独りでに閉まるなんてこともあり得ない。
誰かが締めないと、閉めきれないのだ。
ラトは慌ててドアに飛びついて開けると、階段を何者かが駆け下りる足音が響いていた。
エルテは元気な人だったが、あんなに軽やかに降りられないだろう。
ラトは侵入者を追って、階段を駆け下りた。
「ラト? どうしたの?」
二階の作業場までやってきたとき、階下からエルテの声が聞こえた。先に駆け下りた侵入者が、お茶を淹れると言っていたエルテと遭遇してしまったようだ。おそらくエルテも侵入者も一階の炊事場にいる。
ラトは階段を二つも三つも飛ばして、急いでエルテの元に向かう。
「カイヤ?」
ラトが炊事場に降りる階段の踊り場に出たとき、その階下によく知った少女の姿と認めて、足を止めた。
炊事場から続く裏口は、炊事場の向こう。そこにエルテがいるとしたら、カイヤはラトとエルテに挟まれた形になる。
ラトはカイヤが胸に抱く物に気付いて、息をのんだ。
わずかな灯りの中、彼女が抱く物が濃紺の艶やかな光沢を持つとすぐに分かった。ところどころに鮮やかな色も見て取れる。ラトとエルテが夜の間にコツコツ縫っている、マリアンナ嬢の花嫁衣装だった。
「カイヤ、そこで何をしているの。それを返しなさい」
エルテも胸元のドレスに気付いたのか、冷ややかな声が聞こえる。
カイヤは張り詰めた顔でプルプルと震えるように首を横に振った。そして一層強く、ドレスを胸に抱いた。
「返しなさい」
エルテはさらに強く、命じた。
カイヤは拒むように、半歩退く。
思えば、カイヤは言葉の少ない少女だった。イザベラやシャロンとつるんでいたが、彼女自身が何かしたりとか、言ったりとかはあまりなかった。いつも他の少女が言った悪口や嫌がらせに、合わせるように笑ったり動いたりしていた。
彼女自身が、一人で何かをしているというのはラトには意外に思えた。
「あなたにもしばらくここに来なくていいと言ったわよね? さぁ、返しなさい」
「できません」
か細く、震える声だったが、強い意思を感じられた。
「カイヤ!」
叱りつけるようにエルテが彼女の名を叫ぶと同時に、カイヤの小さな体が炊事場の中へと飛び出した。
「エルテさん!」
炊事場は広くない。その上裏口を塞ぐようにエルテが立っていたのなら、カイヤはエルテにぶつかっていてもおかしくない。
ラトの予想通り、カイヤはエルテに体当たりを喰らわせたらしく、ラトが炊事場に辿り着くと、二人は床に倒れていた。
「大丈夫ですか?」
ラトは手前に倒れていたエルテに駆け寄る。
「ええ、ありがとう」
エルテはラトを安心させるように声を掛けると、振り返ってカイヤを探す。カイヤはまずいことに裏口側に倒れていた。しかししっかりと花嫁衣装を抱いている。よほど返せぬ事情があるらしい。
「カイヤ」
エルテの鋭い呼びかけに、カイヤは片手で体を起こしながら肩を震わせる。
「今度こそ警備隊に突き出されたいの?」
カイヤたち四人は工房から資材を盗んで売り払っていた。エルテはその件で警備隊に突き出せたが、工房から追い出すことで不問としていた。
しかしこれ以上は許さない。そう告げる。
カイヤは怯えるように、震えるように、またも首を横に振った。
「ならドレスを返して」
エルテは怒りを抑えて、言葉を繰り返す。
やはりカイヤはそれに応じなかった。そして立ち上がり、そのまま裏口から逃げようと身じろぐ。
「カイヤ!」
思わずラトは叫んだ。すると彼女は今までに見たことも無いほど顔を歪ませてラトをにらみつける。その気迫にラトも、エルテさえもひるんだ。
まるで悪魔が取り憑いてしまったかのようだ。
本当にそうかもしれない。
それからカイヤは、エルテがお茶を淹れるために沸かしていたかまどに手を伸ばす。パチパチと爆ぜる音がし、火が燃えさかるかまど口へ。彼女が何をするかラトには分からなかった。
彼女はかまどから火の付いた薪を一本取り出す。
「カイヤ?」
訝しげにエルテが声を掛ける。
次の瞬間、彼女は薪をラトに向けて投げた。
顔をかばいつつ、悲鳴を上げるラトとエルテ。
カイヤの凶行は一度では済まなかった。ひるんだ二人に向かって火の付いた薪は二度も三度も投げつけられる。
幾度も火の付いた薪は二人に投げられ、ラトもエルテもその攻撃から身を守るので精一杯だった。
カイヤの凶行が止んでも、すぐには顔を上げられなかった。顔を上げた瞬間、また投げられるのではないかと怖かった。
「まずい……!」
ラトの意識を現実に引き戻したのは、エルテの悲鳴のような声だった。
顔を上げると、辺りは明るくて熱い。
二人に当たらなかった薪は炊事場の壁や床に転がり、点いていた火は木造の工房の燃えやすいところに燃え移っていた。
「すぐに消さないと……!」
ラトは炊事場の裏口近くに置かれた水瓶を見やる。しかしそこにあるはずの水瓶は無く、あるのは砕かれた水瓶と、床に広がった水たまり。薪を投げつける間に、カイヤが砕いていってしまったようだ。
当然カイヤの姿は無く、薪から燃え移った火は工房の壁や柱をナメクジのように這い、なめていた。
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