第8話

「エルテさん……」


 ラトはゆっくりと階段を降りて、作業場に一人佇むエルテに恐る恐る声をかけた。

 エルテは一つ深呼吸をして、振り返った。


「ごめんね、怖がらせたね」

「いえ、大丈夫です」


 怖かったけれど、叱られたのはラトではない。それにちょっと胸がすいた。


「全く、駄目師匠ね。こんなことになるまで弟子を放っておいたんだから」

「エルテさんは悪くありませんよ」

「ありがとう。でも、やっぱり私のせいだわ。四人もいなくなったんだから、これからさらに忙しくなるわよ」

「え、あの四人戻ってこないんですか?」


 エルテは肩を竦めた。


「戻ってこられないんじゃ無い? あの四人は万屋や古物商ではまぁまぁ有名だったし、針子の間でもそれなりに知られているから」

「そうなんですか?」

「ええ、親切な人があの子たちがやってることを教えてくれていたのよ。知られてないと思っていたのはあの子たちだけね」


 ラトはあの四人がやっていたことを全く知らなかった。

 そして、昨日四人が言っていたお小遣いも何かようやく分かった。工房から盗んだものを売って得た金だったのだ。そしてラトは、毎日資材庫を行き来していたのに、ものが無くなっていることに全く気づいていなかった。

 暗黙の了解とはいえ、ラトがあの資材庫の管理をしていたのに。

 エルテだけでなく、ラトにも反省すべき点はあるようだ。


「さて、もう一仕事しないとね」


 エルテは大きく伸びをして、作業場を振り返った。昨日あの四人が仕事を放り出して行ったままだ。そしてその四人がいなくなった今、これはエルテとラトの仕事となる。


「私もやります」

「悪いわね」

「いえ、私もここの針子ですから」

「そうね。日が暮れる前に夜光虫を持ってきておいてくれる? あの四人に割り振ったのは簡単な仕事だけど、量はあるからやっぱり夜も働かないといけないみたい」

「分かりました」





    ○  ●  ○





「エルテさん、前に出してきた問題の答えなんですけど」


 ラトとエルテは夜光虫の白い光が満ちる作業場の中、静かに針を動かしていた。いつもは濃紺の絹糸に針やはさみを動かしていたが、今日は麻布ばかりだった。


「問題? ああ、誰にでも似合うっていうあれ?」

「はい、自分なりに考えてみたんです。それって晴れ着じゃないかなって」

「晴れ着?」


 意外そうなエルテの声。

 その声の調子からすると、どうやらエルテの考える答えとは違うようだった。それでも、ラトはそう思った理由を説明した。


「はい、晴れ着って人生の節々に着るじゃ無いですか。生まれたら生まれたことを喜んで、成人したら成人をお祝いして、結婚したらやっぱり晴れ着を着ますよね? 老いて長生きしたら、やっぱり長寿のお祝いをしますでしょう?」

「なるほどね」


 エルテは唸った。

 ラトの考えを面白いと感じてくれたようだ。

 ラトがそんな答えを導き出したのは、その問題を出されたのが、マリアンナ嬢のドレスを作っていたときだったからだ。目の前に答えがあると考えた。


「なるほど、晴れ着ね。確かにそれが似合わない人はいないでしょう。でも私が考えた答えはそれじゃないわ」

「やっぱりそうですか」

「ええ。でも当たらずも遠からずってところね。いい線はいってるわ。何も特別な時で無くても身につけられるものよ」

「ええっ、じゃあ普段着ってことですか?」

「さて、何だろうね」


 エルテは手首に取り付けた針山に、それまで動かしていた針を刺すと、紫色の糸が通された針を摘まんだ。彼女の手元を見やると、丁度赤色のワンピースのスカート部分にレースを縫い付けるところのようだ。

 あのままやると、紫色の糸がスカートの表に出てしまう。

 夜光虫の光のもとであるが、やはりもうエルテには分かりにくいようだ。

 ラトはとっさに赤色の糸を手に取った。


「エルテさん、こっちの色の方が紛れませんか?」

「え?」


 エルテはぽかんとラトと赤色の糸を交互に見た。


「どうですか?」

「そうね……」


 きっとエルテは、ラトが自分に失彩に気付いていないと思っている。そしてラトも言うつもりはなかったし、エルテの元を去ろうとも思っていなかった。

 エルテは怒るかもしれない。

 ラトは不安を抱いていた。

 しかし、エルテはラトが差し出した赤色の糸を受け取った。


「あなたの言う通りだわ。ありがとう」

「どういたしまして」


 ラトは身を引くと、中断していた作業を再開させた。二人の間には再び夜の静けさが降りて、夜光虫の羽音がたまに作業場に響いた。





    ○  ●  ○





「デザイン画を持ってきなさい」


 薄暗い路地裏で、フードを目深く被り、口元をスカーフで覆った女が少女を見下ろした。


「デザイン画? そんなの無くてもいいじゃない」

「駄目よ。それがないと、もっと良い物が縫えないもの。デザイン画が駄目ならドレスを持ってきなさい」

「ドレス……」


 少女は記憶を探るように視線を漂わせた。

 彼女の師がどこでそのドレスを作っているか、おおよそ目星は付いた。しかしそこに忍び込む手立てが無い。他の弟子が銀糸を盗むために鍵屋の息子を使ったのは知っているが、彼女自身にそのコネはなかった。


「そもそもあなたドレス作りに参加していなかったの?」

「ええ、あいつ一人で作っているから」

「それ、おかしいと思うのよ」


 女の指摘に少女は首を傾げる。


「そうかしら。だって大事な仕事でしょう? 秘密もあるのよ? 漏らさないために一人でやるっておかしくないでしょう」

「それってつまりあいつは自分の弟子を信用していなかったってことよね? まぁ、あなたを見るとそのようだけど。あなた、花嫁衣装を作ったことある?」

「無いわ。そもそもあんな工房にそんなの来るわけないじゃない」

「それもそうね」


 女はクツクツと喉の奥を引きつらせた。


「花嫁衣装って大変なのよ。ただのドレス作りはレースをたくさん付けて、ふんわりさせてやればいいの。でも花嫁衣装はそうじゃない。あれの主役は花の刺繍。それを一人でやるなんて大変よ。今から始めたとして、果たして結婚式に間に合うかしら?」

「何が言いたいの?」

「他の誰かが手伝っているんじゃないかって言っているのよ。心当たりは無い?」

「他の? 弟子ならみんな追い出されたわ」

「あら、あいつの弟子は五人だって聞いていたけど?」

「もしかしてあの異邦人のこと? あれは下働きよ。弟子じゃ無いわ。本当、汚い肌をしているくせに針を持つなんてずうずうしい」

「でもそいつは今も工房に残っているのでしょう? あいつはなんでそいつを残したのかしらね? 追い出せない理由があった。そう考えられない?」


 少女はハッとした。

 女の言う通りだった。あの異邦人はあの工房では下働きとは言えエルテに次いで長く働いている。そしてエルテは少女を含む四人よりも異邦人を信用しているようだった。

 あいつに任される仕事は四人のものより多くて、それでいて難しいものばかりだった。

 かつてはそれがエルテにも利用されていると考えて仲間で笑っていたが、信用されいたと考えると納得だ。


「まさか」


 あの異邦人も、ドレスを作っているというの?

 それは少女に信じられないほど激しく醜い炎を心に点した。

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