第10話
夜が明け、ラトとエルテは燃え尽きた工房の前にただ立ち尽くしていた。
薪から燃え移った火は、水瓶が割られていた事もあって、消し始めるのが遅れ、工房そのものを飲み込んだ。
ラトとエルテは消化を諦め、すぐに逃げる選択をした。
工房が燃えていることに近所の人もすぐに気付き、消火しようとしてくれたが、間に合わなかった。今の季節、空気が乾いていたことも、火の広まりが早かった原因の一つだろう。そして隣近所に燃え移らなかっただけでも幸運と言えた。
ラトとエルテは、一晩で全てを失ってしまった。
近所の人たちは気遣わしげにラトたちに声を掛けるが、応じることができないほど絶望に落ち込んでいた。
神様は残酷だ。
真面目にやってきたラトやエルテにどうしてこんな目に遭わせるのだろう。
人から物を盗んで私腹を肥やすイザベラやシャロン、それにカイヤたちがどうして今ものうのうと元気に生きていられるのだろう。
あんまりだった。
どれくらいそこに立ち尽くしていたか分からない。
ただいつの間にか雨が降り始めて、誰かに手を引かれて雨宿りができる場所まで連れて行かれた。
そこは高低差の大きいこの町には良くある、幅のあるトンネル道の一つだった。
雨脚は強くて、日が高い時間だったが雲が厚いせいか、薄暗い。
ラトは雨に濡れたまま、地面に腰を下ろし、膝を抱いた。
その隣にはエルテも座っていて、冷たい石壁に背中を預けていた。魂が抜けたような顔をしていた。
「もう、終わったわね」
ぽつりとエルテが零した。いつもはどんな音すら反響するトンネルも、今は雨音だけを響かせていた。エルテのささやかなつぶやきは、無情にも雨音には敵わなかった。
「私は失彩を患っているわ」
エルテの告白に、ラトは驚かなかった。気付いていて、知っていて、あえて口にしなかった。
そして、エルテはラトを見やって鼻を鳴らす。
「知っているでしょう?」
あの四人が放り出した仕事を二人で片付けている時、エルテもラトが気付いていることに気付いたはずだ。
「はい」
ラトは小さく頷いた。
「私でも、ドレスは作れると思っていた。作りたかった……! でも、やっぱり駄目ね。魔女に呪われた私は人の幸せを願ってはいけなかったのよ」
花嫁衣装は、花嫁の幸せに満ちたこれからを願って花の刺繍が施される。その花の刺繍がより色鮮やかで、種類が多いほど、実り豊かなものが約束されるという。
その瞳から色は失われても、彩り豊かな花の刺繍が施せる。
だから花嫁衣装は作ることができる。
ラトだって、そうだと思った。できるできないかで言えば、技術はあるのだからできるはずだ。
しかし神とか運命とかいうものは、それを許してくれなかった。
目に見えない、感じられないものだけれど、確かにエルテの手を止めさせたのだ。
エルテの、マリアンナ嬢や王太子の幸せな結婚生活を願う思いすら、許されなかったのだ。
「きっと身の程を知れという警告だったのよ。その警告が、たまたまカイヤの姿を取っていただけね」
自嘲するように、エルテは表情を崩した。今にも泣き出しそうな酷い笑顔だった。
「カイヤはどうしてあんな事をしたんでしょうか……」
カイヤは、イザベラやシャロンに比べれば大人しい少女だった。ナタリーと共にイザベラやシャロンをはやし立てる役だった。
ラトはカイヤと二人で話したこともほとんどない。彼女とは四年ほど一緒に働いていたのに、彼女の事はよく知らなかった。だからなぜ彼女があんな事をしでかしたのか分からない。
「ミュラー商会でしょう。きっと針子として雇ってやるからとでも言われて、ドレスを盗みに入ったのよ」
カイヤもエルテに工房を追われた。
次の職を探すにも、エルテの話では彼女たちのこれまでの所業はこの町の針子の中では噂になっていたようで、針子として働くのは無理だったのだろう。しかしラトと同じくカイヤも針子としての経験しか無い。できれば針子としてまた働きたいと思ったのだろう。
そしてミュラー商会は、王国の東方貿易を一手に担う大商会。そこの針工房となれば、エルテの工房よりもより多くの経験ができるに違いない。
これまでの所業に目を瞑ってもらえ、さらに針子として働けるのなら、とカイヤはミュラー商会に利用されたのだろう。
雨脚は時間が経つと穏やかになり、雲も薄くなっていった。西の空が赤く染まり、東の空に虹が架かる頃、トンネルで雨宿りをしていた二人の元に数人の男たちがやってきた。
一人は黒いローブに身を包み、首から十字架を提げた神父だった。後はこの町の警備隊のようだ。
「火事のこと?」
座り込んだまま彼らを見上げ、エルテは覇気の無い声を上げた。
被害はエルテの針工房だけだったが、立派な火事だ。その調査のために話を聞きにきたのだろう。
しかし、彼らはそのために二人を訪ねてきたわけではなかった。
「エルテ、あなたが失彩を患ったという話を耳にした。本当かね?」
心配する言葉も無しに、神父が問いを投げかけた。声音からも二人を気遣う様子はなかった。
エルテはすぐには答えなかった。だが、神父に嘘はつけない。
「ええ、本当です」
エルテが認めると、神父は口元を固く結んだ。周りの警備隊の男たちもどよめく。
「そうか、ならば残念だ。火事に遭ったばかりで申し訳ないが、失彩は魔女の呪いだ。そんな君をこの町に置いておくわけにはいかない。一晩時間をやろう。明日この町を出て行ってくれ」
「そんなっ!」
神父の無情な言葉にラトが信じられなかった。
そしてラトの叫びはトンネルの中に間抜けに反響する。
「エルテさんは悪くありません。エルテさんを呪った魔女がいけないのでしょう? なのになんでエルテさんが町を出て行かなければならないんですか!?」
「彼女を呪った魔女が誰だか分からないのだ。彼女がこの町に居続ける限り、魔女が何をし始めるか分からない。どうか分かって欲しい」
「だからって」
「ラト」
神父にくってかかろうとするラトをエルテが制した。
「神父様の言う通りです。一晩だけ滞在を許してくださりありがとうございます。明日必ずこの町を出て行きます」
「このような事になってすまない」
「いいえ。しかし失彩は私だけ。だとしたらラトは残っても構わないでしょう?」
「エルテさん?!」
エルテが言わんとすることがラトには薄々察せられて、怖々彼女を振り返る。
神父は哀れみの目をラトに向けた。
「もちろんだ。ラトにはどこかの針工房を紹介しよう」
「ありがとうございます」
「待ってください、エルテさん。どういうことですか?」
「神父様、ラトをお願いします」
「ああ、達者で暮らして欲しい。エルテ」
エルテと神父はラトを無視して勝手にラトの話をしていた。
神父は隣の警備隊の男から小ぶりな革袋を受け取り、それをエルテに差し出した。
「せめてもの気持ちだ」
「申し訳ありません」
エルテは立ち上がって、賜るように両手でその革袋を受け取った。
「この町のものは君に助けられた。それに比べたら大したことはない。さぁ、ラト、行こうか」
神父はラトの褐色肌の腕に手を伸ばす。ラトは体を引いてそれを避けた。
「行きません」
「ラト」
エルテが叱るように言った。
「なんで私の事を勝手に決めるんですか? 私はエルテさんの弟子なのに」
「だから師としてあなたに言うわ。あなたは他の針工房で働きなさい。どっちにしろ、もう私にはあなたを雇うことはできないわ」
「でも、私はあなたの弟子です。マリアンナ様の花嫁衣装はどうするんですか?」
「もうできないわ。あきらめるしかないわね」
「でもあなたがお願いされたのに……!」
エルテは悔しげに顔を歪ませた。
「もう出来ないわ。あなたも分かるでしょう?」
「でも……!」
「ラト」
ラトの目頭は熱くなり、まなじりからハラハラと涙がこぼれた。涙はそれまで降っていた雨のように止めどなく溢れ、途端にラトの顔を真っ赤にした。
「一晩話すと良い。私は教会で待つ」
「すいません。明日必ず向かわせます」
気を利かせた神父は率いてきた警備隊の男たちと共に二人の元を去った。
残されたラトは西日の中で困ったような顔をするエルテを見上げた。
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