第3話
「ラト、起きてる?」
夜、工房の屋根裏部屋に戻っていたラトの元をエルテが訪ねてきた。
「エルテさん? こんばんは。まだ残っていらしたんですね」
ラトは工房にやってきてからずっと、この屋根裏部屋で寝起きしていたが、エルテは工房近くに部屋を借りている。仕事の時だけ工房にやってきていた。工房の店も日が暮れる頃には閉めるので、エルテはとっくに部屋に帰ったのだと思っていた。
「ああ、実は手伝って欲しいんだが、いい?」
「もちろんです」
今日は満月で、階段の天窓からは月明かりが差し込んで、足下に不安はない。
下の作業場も大きな窓から同じように月明かりが差し込んでいるはずなので、今日は夜も作業もできそうだ。
エルテについて下に降りると、作業場には見慣れない紙袋が一つ無造作に置かれている。
エルテは迷わずその紙袋を拾い上げ、中からキラキラと輝く濃紺の布を取り出した。
「綺麗……」
思わずそう零してしまう。
それぐらい美しい布地だった。青白い月明かりを受けて、上品に輝く布。普段ラトたちが扱っている綿や麻とはまるで違う。日差しの下の、穏やかな湖面のような布だった。
「そうでしょう? ここ数日探し回ってようやく手に入れられた東方の絹よ。触ってみる?」
エルテは誇らしげに目を細めた。
「いいんですか?」
「もちろん。滅多にお目にかかれないからね。それに、ラトにはこれからこの布地の裁断を手伝ってもらいたいのよ」
「え? こんないい布の……? いいんですか?」
なんだかもったいない気がする。ずっと見つめていたい、芸術品のような美しい布だ。この布を使って、エルテは一体何を作ろうというのか。
ラトは、あ、と小さく声を漏らした。
「もしかして、この布って、マリアンナ嬢の?」
エルテは確かに頷いた。
「そうよ。今日、糸も届いたでしょう?」
「あれもとても綺麗な色でした」
花嫁衣装用と思われる糸は、すぐにエルテの材料庫にしまった。そういう決まりだった。あの四人は見ていないが、ラトだけはちゃんと見ていて、その美しい色に思わずため息を吐いた。
「そうでしょう? やっぱり東方の絹はいいわね。もっと手に入りやすければいいのだけれど」
「でも何で今、ドレスの事をなさるのですか? 昼ならみんないるのに」
「昼はいつも通りの仕事をしたいのよ。マリアンナ嬢からの仕事はあるけど、そればっかりに専念できるほど、うちは余裕は無いからね」
「そうですが……」
昼間ならあの四人が嬉々として手伝ってくれるだろうに。なぜラトしかいない夜にあえてするのだろう。
「明日、夜光虫を求めてくれる?」
「分かりました」
夜になると発光する虫は、夜仕事をするときに欠かせない。今日はまだ月があるけれど、明日から徐々にこの月明かりも頼りなくなってゆく。
だとすると、エルテは本当に夜の間だけでドレスを作るつもりのようだ。
「型紙を持ってくるから、この布を机の上に広げておいてくれる?」
「はい」
エルテが作業場を出て行くと、ラトは広い机の上に艶やかな絹の布地を広げていった。いつものこのわずらわしい作業も、滑らかな布に触れながらだと、ずっと続けていたくなる。
この布を仕立てたドレスに袖を通すマリアンナ嬢は本当に幸せ者だ。
この布だけでも十分に輝いて見えるだろうに、さらにこれからの実り豊かな幸せを祈って、色とりどりの花の刺繍を添えられるのだ。誰もが憧れる幸せな花嫁になることだろう。
ラトは作ることでしか関わることはできないが、それでももったいない幸運だと思えた。
そしてエルテはこの布を使ってどんなドレスを作るのだろうと期待に胸が躍る。
美しい絹は濃紺だ。
王太子妃となるマリアンナは王国の色である濃紺を纏って、王太子と結婚する。王国の花嫁は好きな色のドレスに色とりどりの花の刺繍が施されたドレスを纏うが、王族の花嫁は皆濃紺の花嫁衣装を纏う。
それは王太子の妃になると同時に、王国の民に尽くすという意味もあるのだという。
「お待たせ。月明かりを受けると、ことさら綺麗ね」
広い作業机いっぱいに広げられた濃紺の絹に、エルテは口元をほころばせた。
「この布も高かったでしょうね」
「うちの一年分の売り上げね」
ラトは思わず短い悲鳴を上げた。
その額はラトには手が届かないほどの高額だった。
「驚きでしょう? これもミュラー商会の差し金よ。あそこは自分の針工房でマリアンナ様の花嫁衣装を作りたかったのに、断られた挙げ句にうちに依頼されてよっぽど頭に来てるみたい。あそこ以外で東方の絹を仕入れられないから、すっかりぼったくられたわ」
「酷い話ですね」
「ええ、でもなぜマリアンナ様が私に依頼したかは本当に不思議ね」
「理由を聞かれなかったのですか?」
てっきり何度も依頼主マリアンナ嬢と会っているエルテなら、そんなことぐらい聞いていると思っていた。
「ドレスの相談ばかりで、結局聞きそびれているの」
エルテは布の糸の流れに気をつけながら、型紙を置き、そして待ち針で止めていく。
ラトは布を抑えつつ、エルテが使う待ち針を針山に追加していった。
「ラトはここに来て、もう十年だっけ?」
「九年です。今年で十四になりました」
「そっかぁ、九年かぁ。それじゃあこんなに大きくなるわけだよね」
ラトがこの工房に下働きとしてやってきたのは、まだ五歳のとき。そのときはまだエルテは誰も弟子を取っていなくて、下働きの老婆と共に工房を切り盛りしていた。
ラトを下働きとして雇い入れたのは、その老婆が暇を願ったからだった。
ラトは数ヶ月その老婆から下働きの仕事を教わり、老婆が工房を去ると、一人でエルテを支えた。よく働くラトにエルテが針仕事を教えてくれたのだ。始めはエルテもラトを弟子にしようとは思っていなかっただろう。しかしラトも針仕事が向いていたのか、教えられる事を次々に吸収していくので、エルテもついにラトを弟子として、この工房で働くようにしたのだった。
相変わらず下働きの仕事もあったが、弟子としてはエルテと一番長い付き合いだった。
黙々と待ち針で型紙と布を留めていくエルテ。
その手元は実に迷いが無く、手慣れていた。
まるでエルテの手が穏やかな濃紺の波間を跳ねる白魚のようで、刺される待ち針が水しぶきのようだった。流れるような作業をラトは見とれてしまった。
「そんなに見つめられると照れるよ」
「えっ」
見つめている自覚がなかったので、慌ててエルテに謝った。
「すいません。そんなつもりは無くて……!」
「いいよ。ちょっと茶化しただけさ。それに師の作業を見つめるってのは弟子じゃよくあることだよ。よく見て学んで」
「は、はい!」
朗らかに笑うエルテ。
その緑の瞳を見て、ラトは昼間のシャロンの言葉がよぎる。
もし本当にエルテが失彩だったなら、エルテはどうするんだろう。そしてラトもどうしたらいいのだろう。
いや、そんなことない。
ラトは心の中で首を横に振る。
もしエルテが失彩だったなら、マリアンナ嬢から仕事を受けるわけが無い。だからあれはただのシャロンの勘違い。そうに違いない。
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