暗黒城のマリア
夏野梢
暗黒城のマリア
遠くでサイレンが鳴った。
僕は黒ずんできた指先を気にしながら、黒板消しを校舎の壁ではたいた。サイレンの音を追いかけるようにして、犬の遠吠えがあちこちで上がっている。
教室では同じ班の中沢くんと井上くんが、長机の上に座って対戦ゲームをしていた。
音楽は消してあるらしく、二人が操作する時のカシャカシャした音だけが聞こえる。他に人はいない。さっきまでいた同じ掃除当番の女子たちのことを尋ねると、三回目ぐらいでやっと井上くんが「準備室」と面倒くさそうに教えてくれた。
僕は、黒板消しを返すついでに理科準備室をのぞいた。隅にある大きな
「帰っちゃったみたい」
再び教室に戻ると、中沢くんと井上くんも対戦ゲームをやめて、帰る用意をしていた。それぞれライムグリーンとネイビーの携帯ゲーム機を手にしたまま、器用にランドセルを背負って理科室を出て行く。廊下の手前で、芹沢くんの後についていた井上くんが、ちょっと振り返ってこっちを見て、でも何も言わないで行ってしまった。
二人の足音が遠ざかるのを聞きながら、僕はぼんやり、教室の後ろで大きく目立つゴミ箱を眺めた。
学校の大きなゴミ箱は、二つの取っ手を一つずつ二人で持って運ぶのが正しい。だから焼却炉に捨てる時は二人一組で行きましょうと、担任のタクト先生は言っていた。でも僕は今のところ、その注意を一度も守れていない。今週、理科室の掃除当番になってからは毎日、先週もその前の週も、中身がいっぱいになった重いゴミ箱は僕が一人で運んだ。おかげで、焼却炉に着いた時はいつも汗だくだった。
そして今日も、焼却炉の前に用務員のおじさんはいなかった。
たぶんもう、ほとんどの掃除当番がゴミを運び終わっていて、おじさんは別の用でどこかに行ってしまったのだと思う。珍しいことではない。僕は少し息を整えてから、開いている鉄の扉まで自分で重いゴミ箱を押し上げた。
中身が空っぽになってしまえば、青いプラスティックの箱は軽い。僕はいつものようにゴミ箱を焼却炉の前に置くと、上履きのまま地面に降りた。
焼却炉は学校の中庭の隅にある。中庭には各学年ごとに区分けされた花壇がいくつも並んでいる。今はちょうど三、四年生の植えたミニトマトが大きく葉を伸ばしていた。その葉を横目に、中庭を突っ切って焼却炉の反対側に向かう。校舎と校舎の間に挟まれて、昼間でも光が届きにくい日陰の場所。あまり元気のないサツキをかき分けて進むと──そこに「のんさまのほこら」があった。
見た目は、低学年の子が絵に描くような小さな家だ。木の板を重ね合わせた三角形の屋根に平たい壁、正面には両開きの扉がついている。壁はもともと白く塗られていたらしいけれど、今はもうペンキがべろべろにはがれ落ちて、
ほこらの扉はいつも通り閉まっていた。汚れて暗い緑色になったそれを手前に引くと、中に
白い顔に白い体。ひらひら波打った服を着て、胸に裸の赤ちゃんを抱いている。
前にタクト先生が、正しくは「マリアかんのんさま」だと言っていた。ほこらは先生がこの学校に通っていた頃に出来たらしく、それまでは外に剥き出しで置いてあった。そのせいか、「のんさま」の体の線は丸く
でも僕は曖昧なものは怖くない。逆にみんなが来ないほうが都合がよかった。
じっと立っているのんさまの足下に目を落とす。台座の裏に手を当てて探ると、すぐに硬い感触がして目的の物が手に入った。五百円玉だ。薄暗いほこらの内側で、僕がつまみ上げた硬貨が
手に入れた硬貨を、僕はズボンの右ポケットにしまった。そうしておいて左ポケットからは、百円ショップで買った青い巾着袋を取り出した。底がほんのりふくらんでいるその袋を、五百円玉があった「のんさま」の台座裏に隠して、もとの通りに扉を閉める。
さて、これで今日の僕の仕事は終わりだ。
焼却炉の前に戻って、置きっぱなしだったゴミ箱を引きずりながら歩き出す。用務員のおじさんはまだ来ない。なんとなく振り返って見た焼却炉の煙突から、灰色の筋が流れ出ていた。その煙の先にある宵野山の空はもうだいぶ赤かった。
僕がマンションに帰り着いた頃、空は赤から
今朝、ビンと缶をゴミに出したから木曜日だ。
先週、コウモリが来たのは普通ゴミの日だったのに。
帰り道に寄ったスーパーのレジ袋を持ち直して、僕はエントランスのほうへ歩いて行った。車は夕方でもよくわかるほど、ワックスでぴかぴかに磨かれていた。藻の付いた水槽みたいに、中はスモークガラスで見えない。でもハンドルは左側についていて、乗り心地が抜群の外国車だと僕は知っている。運転席と後部座席の間は防音ガラスで仕切られていて──カーテンを引いちゃえば、何をしてても運転手にはわからないのよ──とお姉ちゃんが言っていた。泣いて真っ赤なった
その話を思い出して僕が見えない車内を覗き込むと、まるで待っていたように助手席の窓ガラスが下がった。全部開き終わらないうちに中から包帯に巻かれた腕がにゅっと出て、道路に煙草を投げ捨てる。続いて「おい」と頬骨の立派な若い男の人が顔を出した。目が細い。清潔そうなダークスーツを着ているが、髪は赤茶色だ。いつもコウモリの送り迎えをしている人だった。
「なんか用か?」
だるそうに、でもドスの効いた声で尋ねられて、僕はただ首を振る。
「なら、じろじろ
「すみません」
素直に頭を下げた僕に、頬骨男がフハッと変な笑い声を上げた。
「悪いが、兄貴が入ってまだ一時間ぐらいだ。しばらく取り込み中だと思うぞ」
言って、僕の表情をからかうように見つめてくる。僕は視線を無視して、わざと手に持ったレジ袋に意識を飛ばした。夕方のタイムサービスで買ったプリン二個。せっかく冷えたのを選んで急いで帰ってきたのに、このままぬるくしてしまうのはもったいないなと思った。
「兄貴が出て来るまで、ここで一緒に待ってるか?」
「友だちのところに遊びに行くので、いいです」
「そうか? もう暗いから気をつけないといかんぞ」
ちっとも心配していない顔で言った後、頬骨男はふと思いついた顔をした。
「おいお前。
そうだと答えると、暗がりでも目立つ頬をやや明るくして、助手席の開いた窓から身を乗り出してくる。
「だったら本物の『さるの目玉』の話を知ってるか?」
僕は瞬いた。どうしてこの人がそれを知っているのだろう。
驚く気配が伝わったのか、頬骨男は薄く笑った。
「どうやったら手に入る?」
すぐに返答しない僕の前で、包帯に包まれた右手が掲げられる。頬骨男は上着とワイシャツの袖を少し引き上げて、包帯が手首から奥、二の腕の付け根にまで続いていることを見せつけた。
「昨日、クソ犬どもにやられてな」
不愉快そうに告げて、彼は路上に唾を吐いた。
最初の一頭がいつどこからやってきたのかは、誰も覚えていない。
気づいた時にはもう、町には黒い野良犬たちが入り浸っていた。僕たちのお父さんのお父さんのお父さん──ひいおじいさんぐらいの頃からだそうだ。
野良犬たちは道路脇のゴミ捨て場や公園、空き地の隅によく出没した。たまに住宅の敷地内に侵入して人にケガを負わせることも、群れになることもあった。
大人たちはこれまで、罠を仕掛けたり縄や網を持って追い回したりして、悪さをする野良犬たちを捕まえて処分してきた。それでも数は減らなかった。捕まえても捕まえても、少しするとどこからか別の野良犬がやってきて町を荒らす。捕まえなければどんどん増える。町には毎日、野良犬の鳴き声と救急車や警察のサイレンの音が響いていた。
宵野山が棲み家になっているのだと、昔あの人が言っていた。
町がこんな風になるずっと前、山では狂犬病の対策でたくさんの犬が殺された。野良犬だけでなく、飼い主が手放した犬も専門業者に捕まえられた。犬たちの死体は焼かれて埋められて、山の土になった。その山が仲間の犬を呼びよせるのだという。
「さるの目玉」とは、野良犬が出るのと同じ頃に流行りだした古いおまじないだった。犬と猿とは仲が悪い。だから猿に関係する物を持っていれば犬に襲われないという言い伝えで、具体的にそれがどんなものかまでは決まっていない。聞けば、本当の目玉のことではなく「さるが見ている」という意味だから、猿なら何でもいいらしい。
でも最近、宵野山東小学校で流行っているのは本物の「さるの目玉」の噂だった。持っていれば野良犬を避け、もし襲われても一回だけ身代わりになってくれる──と言われていて、六年生を中心に今年の新学期ぐらいから広がった。でも学校内の噂話なんていくつもあるし、校内では有名でもまだ大人たちにはほとんど知られていないはずだった。
それをなぜか知っていた頬骨男は、
「おれと同じようにクソ犬に噛まれて医者に来てたガキが、母親に話してたんだよ。泣きながらでかい声でな。まあ誰も信じちゃいないみたいだったが」
言い訳っぽく頭をかいて、それからずいぶん真剣な目をしてまた訊いた。
「おまえはその本物がどうやったら手に入るか、知ってるか?」
「おじさんは信じるの?」
「まさか。だが興味はある……あとおれはお兄さんだ」
僕は思案した。
こちらを見る頬骨男の目つきがまた鋭くなる。本当はコウモリの手下なんてお断りなのだが、嘘がバレて面倒なことになるのは嫌だから特別に教えてあげることにした。
「魔女に貢ぎ物をするんだよ。そうするともらえるんだ」
フハッとヤニ臭い息が僕の顔にかかった。
「魔女ぉ? 誰だよそれ?」
「
「あんこく……って、あの焼けたラブホか。そこに魔女がいるってえか」
にやにや笑う頬骨男の目から、さっきまでの怖い色が消えた。
「貢ぎ物ってなんだよ? トカゲの尻尾か?」
おもしろがっている。でも僕は気にしない。教えてほしいと言ったのはそっちなのだから最後まで話してあげるのだ。
「お金だよ。五百円。本物の『さるの目玉』が欲しい人は、学校の中庭にある『のんさまのほこら』の中に五百円玉を隠しておくんだ。次の日に同じ場所に行くと、五百円玉の代わりに小さな袋が置いてある。その袋の中に『さるの目玉』が入ってる」
今まで何度も繰り返してきた台詞なので、すらすら言えた。頬骨男は「へえー」と一応
「五百円玉が目玉になるのか。そいつはいい。魔女がわざわざ学校のほこらを漁りに来るとは、さもしいな」
「違うよ」
僕は少しだけ不愉快な気持ちになって、強く首を振った。
「魔女はお城の主人だもん。出てくるはずない。ほこらに来るのは魔女じゃなくて一番弟子の使い魔だよ」
そう言って胸を張ったのだけれど、ワンテンポ遅れて頬骨男から返ってきたのは再びフハッという臭い息だった。
僕がようやくマンションの中に入ることができたのは、それから一時間ほど経った後だった。時間を潰して戻ってくると、すでに日はとっぷり暮れていて、エントランスの前はオレンジ色の外灯で丸く照らされていた。黒い車はもういない。またどこかで救急車のサイレンが鳴っていた。
僕はランドセルから取り出したカードキーでエントランスを抜けて、エレベーターで二十階にある部屋に向かった。
全面ガラス張りのエレベーターには、僕以外に誰も乗っていなかった。このマンションは家賃が高すぎてちっとも満室にならないから、住民の数が少ないのだ。夜景の中に、遠く赤く点滅する光がある。宵野山のふもとのあたりだろうか。一歩踏み出して窓ガラスに近づいた僕は、けれどそこに映った自分の姿を見て体を引っ込めた。
紺色のポロシャツとジーンズ。履いているスニーカーは買ってもらったばかりの最新型で、まだゴムの色も真っ白だった。
変わったのは、今年の春先にお姉ちゃんがコウモリの「良い人」になってからだった。
僕たちはそれまで住んでいた公営団地を引っ越して、コウモリが所有するこの高級マンションの住人になった。死んだお父さんが残したコウモリへの借金もなくなって、お昼にスーパーの店員さん、夜にコンビニの店員さん、両方の休みの日に飲み屋の店員さんをしていたお姉ちゃんは全部の仕事をやめた。一週間に一、二回、マンションに黒い車でやってくるコウモリは、帰るといつもお姉ちゃんに十分すぎるぐらいのお金をくれたので、生活にはまったく困らなくなった。僕のお小遣いも増えた。みんなお姉ちゃんがコウモリの「良い人」になったおかげだった。
チン、と上品な音がしてエレベーターが二十階に停止した。
誰もいない廊下に降りた僕のランドセルの中で、携帯ゲーム機がごとりと鈍い音をたてる。僕が持っているのは、中沢くんと井上くんが遊んでいたものよりも一つ新しい機種だった。しかも限定のメタリックシルバー色だ。一年前は絶対に買えなかったものが、今は自分のお小遣いだけで普通に買える。でも、一年前は一緒に画面を覗かせてもらって遊んでいた友だちが、今は目も合わせなくなっていたから、せっかく持っていても無駄なような気がしている。
長い廊下の突き当たりを右に曲がれば僕とお姉ちゃんの家──二〇一一号室だ。
お姉ちゃんは今日も泣いているだろうか。
僕の足が急にのろくなった。
コウモリがやって来た日はいつもお姉ちゃんは沈んでいる。このマンションに引っ越してきてから、前みたいに笑わなくなった。買い物は宅配や通信販売でするようになって、外にはほとんど出なくなった。無理して働かなくていいから、もうお姉ちゃんがあの人みたいに心と体を壊す心配はなくなった。なのに、痩せて肌が透けるように白くなったせいか、触ったら折れてしまうんじゃないかと思う時がある。
考え事をしていたので、僕はその話し声に気づくのが少し遅れた。
廊下を右に曲がった先、ずらっと並んだ青い扉の一つが開いていた。この通路の部屋には僕たちしか住んでいないから、あそこが二〇一一号室だ。その前に立って中の人と話している若い男の人がいる。
担任のタクト先生だった。相手は扉の内側にいて見えなかったけれど、お姉ちゃんに違いない。
足を止めた僕の踵がキュッと鳴った。静かすぎる通路には、天井の蛍光灯が瞬く音でもよく聞こえる。たちまち気づいたタクト先生がこちらを向いて呼びかけてきた。
「こんばんは」
タクト先生に挨拶をしながら歩き出すと女の人の声がして、扉の内側にいたお姉ちゃんが廊下まで出て来た。
「遅かったじゃない」
お姉ちゃんは部屋着にしているロングワンピースに白いカーディガンを羽織っていた。背中に下ろした長い髪が揺れてシャンプーの良い香りがした。
「ごめん。友だちのところに行ってた」
「心配したのよ……もう帰ってこないかと思った」
近寄った僕の腕をもどかしそうに掴む指が、小枝みたいに細い。お姉ちゃんはあの人がいなくなってから、人を待つのが苦手になった。僕はもう一度「ごめん」と謝る。
「誰に訊けばいいかわからなくて、また先生に電話しちゃったわ」
お姉ちゃんがちらと上げた視線を受けて、タクト先生が苦笑した。
「まあ、無事に帰ってきて良かった。日が暮れると奴らが動き出して物騒だからな」
言って、慣れた手つきでうちの扉を押し広げ、僕とお姉ちゃんを部屋の中に入りやすいようにしてくれる。奴らとはもちろん、町を徘徊する黒い犬たちのことだ。
二人とも、僕が「どうして遅くなったのか」は問いたださなかった。
「それじゃあ、僕はこれで」
僕たちが扉の内側に入ったのを見届けて、タクト先生が通路側へ下がった。途端にお姉ちゃんは慌て出した。先生が会釈でずれた縁なし眼鏡を直している間に「あ、待って」と普段より高めの声を出して引き留める。
「せっかくだから、うちでお夕飯を食べていきませんか?」
「いや。あまり遅くなるのは」
「お茶だけでも。美味しいチーズケーキがあるの。私と弟じゃ食べきれなくて困るから」
お姉ちゃんの言葉を聞いて、僕はうちの中を振り返った。ダイニングルームのドアが半分ほど開いたままになっていて、備え付けテーブルに白い箱が置いてあるのが見えた。デパートに入っている有名洋菓子店のものだ。確か、人気のベイクドチーズケーキは長時間並ばないと手に入らなくて、値段は僕が買った特価プリンの何倍もするという。テレビでこの前やっていた。
「頂き物でよければ」
最後に囁くように言ったお姉ちゃんの声に、タクト先生は負けた。
すぐに帰るからと念を押しつつ玄関に入ってくるのを見て、僕は早々に靴を脱いで家にあがる。横目で確認するお姉ちゃんの顔はとてもうれしそうだった。
だから、まあいいかなと思う。
お姉ちゃんを喜ばせたのは僕が買ったプリンではないけれど、コウモリが買ってきたベイクドチーズケーキでもないのだ。どちらもタクト先生には
ランドセルをリビングのソファに下ろして、僕は右手をじっと見た。さっきまで持っていたスーパーのレジ袋はもう持っていない。また少し黒ずんだ指先を気にしながら、お姉ちゃんはタクト先生がいれば大丈夫だと
僕の担任の
次の日。
昨夜、ワインで顔を赤くして僕の家を出たタクト先生は、今朝はずいぶん青い顔をして教室に現れた。どこか急いだ風に出席をとった後、みんなに落ち着いて話を聞くように前置きをした。
「昨日の夜、
教室内がしんと静まりかえった。
ひと呼吸ほど置いて、みんなが近くの子たちと顔を見合わせ始めるのを、僕は一番後ろの席から眺めていた。教室内を見回していたタクト先生が、一瞬だけ僕のほうへ視線を飛ばしてから、気づいたように窓側へ顔を向けた。僕もつられてそっちを見る。窓側の列の前から三つ目は、中沢くんといつも遊んでいた井上くんの席だった。
井上くんは背中を丸めてうつむいたまま、微動だにしていなかった。僕が体を前のめりに傾けて顔のほうを覗き込むと、両手を机の上に置いて強く握っているのがわかる。その力を入れすぎて白くなった右の拳を、怖ろしいものでも見るような目で凝視していた。
タクト先生が再び口を開いた。
中沢くんは野良犬の群れに襲われたのだそうだ。
おうちの人の話では、一度ランドセルを置きに家へ帰って、また出掛けたという。日も暮れかける夕方頃、立ち入り禁止の宵野山になぜか足を踏み入れ、被害に遭った。野良犬たちの異様な鳴き声に近所の人が通報して、警察が駆けつけた時にはもう、重傷だったらしい──タクト先生の鼻声を聞きながら、僕は心の中でそういえばと思い出す。
昨日は暗黒城の周りがやけに騒がしかった。
あの時、中沢くんは近くにいたのだろうか。
井上くんに声をかけられたのは、朝の会が終わってすぐだった。理科室の掃除に一緒に行こうと誘いに来てくれたのだ。今日の学校は中沢くんのことで全部の授業が休みになったので、生徒は掃除だけして帰ることに決まっていた。
二人で特別教室棟に向かって歩いている間、僕たちは無言だった。やはり井上くんは元気がないようだったし、僕は何を話したらいいかわからなかった。でもひさしぶりに友だちと肩を並べて歩けて、とてもうれしかった。あのマンションに引っ越す前までは、僕と井上くんと中沢くんは登下校も一緒で毎日のように遊んでいたのだった。
理科室には僕と井上くんのほかは誰もいなかった。同じ掃除場所になっているはずの女子もなかなかやってこない。僕がそのことを井上くんに言うと、「来るわけないだろ」とそっけなく返された。
「どうして?」
「
なるほど、そういう考え方もあるのか。僕は平気だけれど。
「おれだって、お前がいなきゃ来なかったし」
そう言って井上くんは掃除用具入れの前に立ちはだかった。ちょうどホウキを出そうとしていた僕は、行動を邪魔をされた形になって彼と向き合う。こちらが何か問う前に、ぐいと井上くんの右手が差し出された。
「これ、お前がやってるんだろう?」
朝の会からずっと、固く握られていた井上くんの拳が開いた。
薄黒く汚れた手の平に、ラムネのビー玉ぐらいの黒い玉が載っていた。正確な球形ではなくて、少しいびつな玉だ。
──「さるの目玉」だ。
少し怒っているような井上くんの顔と手の平を交互に見て、僕は首を傾げた。
「いつから持ってるの?」
「……昨日の夕方」
あの五百円は井上くんのだったのか。
「おれ、お前がいつも『のんさまのほこら』に何か隠してるのを知ってるぞ。昨日はそれを確かめた。なあ言えよ。『さるの目玉』の噂を流したのもお前なんだろう?」
「そうだよ」
あっさり僕が頷いたので、井上くんは驚いたようだった。数秒間ぽかんと口を開けたまま目を瞬いてから、「なんでこんなこと」とうめいた。
「だっていっぱいあるから」
「はあ?」
これが野良犬に効果があることは僕が体験済みだった。一つ五百円にしたのは、巾着袋の代金と手間賃と、ちょっとしたおやつ代のためである。本当はもっと安くしてもいいのだが、あまりたくさん希望者が出ても大変だからワンコインにした。
「なんだよそれ」
僕の答えが気に入らなかったのか、井上くんが眉間に皺を寄せた。
「
「ううん」
知るわけがない。昔はいいところの坊ちゃんだったくせに、若い頃に荒れて町を出て行ったコウモリは、どこかで出世して土地と金を得て、数年前に町に帰ってきた。今は表向き児童福祉だの地域貢献だのと言って顔を売っているが、実際はお金と若い女の人にしか興味のない地上げ屋だった。実際あいつと、野犬と「さるの目玉」は関係がない。うちの後見人になったというあいつは、お姉ちゃんのところには楽しそうに来るけれど、僕にはお腹の出た丸い体を見せるだけで、一度もまともに顔を合わせたことがないのだ。
井上くんはまだ怒っている風だった。
「わけわかんねえ。これは一体なんだよ?」
と、手の平に載った壊れた黒い玉を左手で指さす。
「さるの目玉」
「そうじゃない! なんでお前が持ってるんだっての! なんなんだよこれは!」
そこまで言って、今度は泣きそうな顔になった。しばらく沈黙した後に、彼が語ったのは昨日の夕方以降のこと、まだ誰にも言っていない──僕が「のんさまのほこら」に隠した「さるの目玉」を中沢くんと二人して手に入れてからの話だった。
最初に、お守りの効果を確かめようと言ったのは中沢くんだったそうだ。噂を信じていなかった井上くんは、次の日に僕を問い詰めるつもりだったので乗り気ではなかった。でも中沢くんは頑固だった。つまり昨日、宵野山に入った人間は二人いたのだ。そこで中沢くんは野良犬の群れに襲われ、一方の井上くんは逃げて助かった。井上くんが無傷だった理由は考えるまでもない。その時たまたま「さるの目玉」を手に持っていたのが彼だったからだ。
「それで壊れたのか」
僕は割れた黒い玉を眺めた。お守りは野良犬を遠ざけ、襲われても身代わりになってくれるけれど、役目を果たしたら効果はなくなってしまう。
「もう使い物にならないよ」
僕の言葉に、井上くんが伏せていた顔を上げた。真っ赤になった目で睨んでくる。
「教えろ。これ、どこで手に入れたんだよ」
彼はどうしてそんなに怒っているのだろうか。
「暗黒城」
答えた直後、掃除の時間終了を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。
暗黒城は宵野山の中にある。
山の中腹には人工湖があって、その
もともとはホテルだったという。その証拠に、今でも途中の道路脇には「レイクサイドキャッスルはこちら」という
こんな楽しそうなホテル、僕だったら真っ先に泊まりたい。なのに、もし営業していても子供には相応しくないところらしい。大人が遊ぶためのお城なのだそうだ。でもその大人たちにはあまり人気がなくて、寂れていた時に火事で全焼してしまった。以来、廃墟になっている。
宵野山の真ん中に、ぽかっと頭を出すお城の塔は真っ黒だった。
塔だけではなく、建物全体が火事の時の
僕はいつものように、錆びた看板のあたりで脇の林に入った。近道である。後ろから付いてきていた井上くんは、昨日みたいに野良犬が出てくるんじゃないかと怖がったけれど心配ない。犬たちはこの時間はもっと山の奥深くに隠れて休んでいる。たまにうろついている奴に出会ってしまっても、大丈夫だという自信が僕にはあった。理由はわからないが、彼らはもう僕がお守りを持っていなくても襲ってこなくなっていた。
林を抜けると目の前が暗黒城だった。
雑草の生えた駐車場を横切り、一階の「従業員専用」というプレートがかかっている壊れたステンレスのドアから中に入る。お城の壁は外も中も煤けていて黒い。たくさんの窓ガラスが割れたり壁が崩れているので、いつも建物の中に風が流れている。その風に乗って時々、
僕は慣れた足取りで受付の前を通り過ぎると、廊下の奥に向かった。
ミシミシ、ピシピシ。黒く焦げた絨毯の上を歩くたびに、
「お前……いつも一人でこんなとこ来てんの?」
「うん」
廊下の突き当たりはエレベーターだった。うちのマンションと少し構造が似ている。僕は焼けて黒くひしゃげたエレベーターの扉を無視して、その隣の階段を下り始めた。背後で生唾を飲むような気配がしてから、井上くんが「地下?」と引きつった声を出した。僕はまた「うん」と頷いて、階段の上で立ち止まっている彼を振り返る。
「上も見に行ったことあるけど、ほとんど崩れてて歩けなかったよ。一階のほうがまし」
それだけ言ってどんどん階段を下りていくと、しばらくして井上くんもおっかなびっくり付いてきた。
暗黒城の地下はさらに暗くて黒い。一つ段を下りるごとに空気がひんやり湿ってくる。落ちた天井の隙間から入る外の光を頼りに、僕は慎重に進んだ。地下一階ではお城の中を抜ける風の量が減って、変わった音をたてるようになっていた。ヒイヒイ、ハアハア、ウフフフフ……。人の息づかいや喘ぎ声や笑い声みたいに聞こえてくる。同時にお城のどこかで、犬が鼻を鳴らすような声がして井上くんがまたびくりと足を止めた。
「大丈夫だよ」
今度は振り返らずに言う。暗黒城の地下には、壊れた配管を伝って落ちた雨水が床のあちこちに黒い水溜まりを作っている。野良犬たちはそれを飲みに来るのだ。水のせいか犬たちの毛並みはみるみる黒くなるけれど、死ぬわけではない。
瓦礫を避けつつ、僕は地下一階のわずかな通路を歩いて行った。
町の人は暗黒城が野良犬の巣になるのを嫌がって、建物を取り壊したがっている。でも宵野山はお城もふくめてコウモリの持ち物だから手が出せなかった。
階段から右に行くと、横っ腹が大きく凹んだロッカーが現れた。僕はそれを右にずらして塞がれていた通路を作る。ロッカーの後ろは壁が丸く崩れていて、その先に古く汚れた別の階段があった。
背後に付いてきていた足音がやんだので、振り向いたら井上くんが絶句していた。「まだ下に行くのか?」と目で訴えてくるのに、僕は首を縦に振ってロッカーの扉を力任せに開けた。中からいつも使う懐中電灯を取り出して見せると、ホッとしたような怒ったような顔をされた。さすがに地下二階までは外の光も届かない。準備は万端だった。
黄色い光の筋が床を撫でて、階段の表面に削られた文字を浮かび上がらせる。
──
僕はその「
以前、この暗黒城の土地には小さいマネキン工場が建っていた。でもある時、火事が起こって工場はすべて焼けてしまった。働いていた従業員が煙に巻かれて逃げ遅れ、社長一家も死んだ。しばらくして、山ごと土地の権利を買い取ったコウモリが、工場の跡地にホテルを建てた。けれど数年でまた火事になり、当時いたお客が何人か死んで、ホテルは暗黒城になった。
「やめてくれよ」
先を行く僕の服が、後ろから軽く引っ張られた。
「なんでそんな話……知ってんの?」
「お姉ちゃんに聞いた」
初めて暗黒城に来た時、僕はお姉ちゃんと一緒だった。お姉ちゃんは黒いスカートをはいていて、胸に駅前のフラワーショップで買った花束を抱えていた。死んだお父さんに手向けるための花だった。
僕が生まれる前、お父さんはマネキン工場に勤めていたという。工場の社長がお父さんの
長い階段を
いつも思うけれど、一階から地下一階と、地下一階から地下二階ではかかる時間がまるで違うように感じる。周りの壁はもう、暗闇と同化して境目がわからなくなっていた。
懐中電灯の光が地下二階の床に届いた。
鈍く光を反射しているのは、上の階にあったものと同じ黒い水溜まりだ。ここのほうが、より大きくて黒色が深い。最後の一段を下りた僕は、スニーカーの踵を鳴らして奥に歩いて行った。
暗黒城の地下二階はがらんと広い。体育館のように四角くて何もない空間が黒く広がっている。その半分は水溜まりになっていて、人の気配や風の流れに反応してちゃぷんちゃぷんと波打つ音が聞こえる。闇の中を懐中電灯で照らしていくと、濡れていない床の部分に白い物が浮かび上がった。スーパーのレジ袋だ。昨日、時間をつぶしに来た時に僕が持ち込んだものだった。その奥に──。
「こんにちは」
そっと呼びかけて、僕は懐中電灯を隣に振った。
黄色い光が横に滑って、水溜まりのふちに居る黒い影に触れる。
影は人の形をしていた。長い髪と丸い肩でなんとなく女の人だとわかる。でも周りの闇が濃いせいか、輪郭が曖昧でぼんやりしている。ちょうど学校の中庭にある「のんさま」の像みたいだった。あっちは白いけれど、こっちは黒いのんさま。黒い魔女だ。
僕の言葉に魔女は反応しなかった。こちらに背を向けた格好で座り、両手をすり合わせて何かをこねている。水溜まりの底に沈んでいる黒炭で玉を作っているのだ。微妙にいびつな玉の形は、五年生の授業で見た牛の目の水晶体と似ていた。
光が届かなくてよく見えないが、魔女の周りは黒い目玉で埋め尽くされていた。床の上から水溜まりの中まで、数え切れないほど転がっている。足元の一つをつまみ上げて、僕は井上くんに話しかけた。
「ほら、好きなだけ拾えるんだよ」
彼を暗黒城まで連れてきたのは、それを見せてあげるためだった。しかし、振り返った先に井上くんはいなかった。
いつの間に途中で引き返していたのだろうか。耳を澄ますと、ヒイヒイ、ハアハア、ウフフフフ……という息づかいに混じって、たくさんの犬の鳴き声と少年の悲鳴がした。遠く上のほうから響いてくる物音を聞きながら、僕は手の平に載った目玉を床に落とした。
「教えてくれって言ったくせに」
がっかりした。
落とした玉が魔女の前に転がって、闇がずるりと動いた。
曖昧な形の指がそれを拾い上げて、ゆっくりこちらにやってくる。肩に手を置かれて振り向くと、曖昧な黒い顔が目の前にあった。目も鼻も口も頬も黒く潰れてわからない。もやもやとした吸い込まれそうな闇色を見つめながら、僕は魔女と出会った日のことを思った。
初めて暗黒城に来た時、僕たちは三人だった。お姉ちゃんは黒いスカートをはいていて、胸に花束を抱えていた。そして僕に「離さないでね」と言いつけた。僕の右手はあの人のざらざらした手と繋がっていた。それがどうしてほどけてしまったのか、今でも理由は思い出せない。気づいたら僕の右手は空っぽになっていて、あの人の姿は消えていた。みんなでどんなに探しても行方はわからなかった。あの人は暗黒城で消えたきり、帰って来なくなった。父さんが死んで、働き詰めで心を病んだあの人も失踪して、うちはお姉ちゃんと僕だけの二人になった。
一年たって二年たって、お姉ちゃんや親戚たちはもう諦めてしまったけれど、僕は時々、暗黒城にあの人を探しに行った。ある日、夕方まで山をうろついていて、中沢くんみたいに野良犬の群れに囲まれた。暗黒城の中に逃げこんでも、犬たちはしつこく追ってきた。僕は必死で一階から地下一階、偶然見つけた階段から地下二階へおりて、そこで魔女に出会ったのだ。
あの時も水溜まりのふちに座っていた魔女は、手の平でこねていた玉を僕にくれた。犬たちは地下二階へはやってこなかった。もらった玉を持って外に出ると、さっきまでとは違って、犬はこちらに近寄ってもこなくなった。だから僕はこれが言い伝えの「さるの目玉」だと思った。それから……毎日のように暗黒城に来ている。最近では目玉を持たなくても平気で山に出入りができるようになった。
魔女の顔を、僕は穴の開くほど見つめた。
魔女は記憶の中のあの人に似ている気がするけれど、顔が黒く崩れていて確信が持てない。だから、呼べない。うちが二人家族になって以来、行方がわかるまで封印することにしたあの人の呼び名を口にできない。
「……のんさま」
黒いのんさま。
僕はそういつものようにつぶやいて、顔をゆがめた。
目の前の魔女から黒い色が入ってきて、頭の中が真っ黒に染まっていく感じがする。ヒイヒイ、ハアハア、ウフフフフ……暗黒城の地下はいつも騒がしい。たくさんの息づかいと機械を動かす音、怒鳴り声や笑い声、ぼそぼそした会話と咳払いや衣服がすれる気配がする。いくつもの影が好き勝手に動いて僕の視界に入る。気が散る。
「のん──……おかあ……さ」
ふと思わず漏れた僕の声は、けれど最後まで続かなかった。言葉の途中から、自覚のない啼き声になった。細く長く伸びて、空しく響く。犬の鳴き声に似ていた。それが僕の喉から出ている。息を吸えば、焼けた炭の味がした。
遠くでサイレンが鳴った。
そろそろ夕方だから帰らないと。
井上くんは無事に逃げられただろうか。彼も中沢くんみたいになったら、またタクト先生が泣くかもしれない。お姉ちゃんにはタクト先生が必要だ。仕方ないから、まだ間に合えば井上くんは助けてあげもいいかな。
「ねえ、のんさま」
がらんとした暗黒城の地下二階で。僕は魔女の手から「さるの目玉」を再び譲り受ける。
「今度コウモリを連れてくるよ。
そう言うと、魔女の顔が動いた。口のあたりがもぞもぞして、花が咲いたようになる。笑ったのだと思う。続いて、開いた口から啼き声が出た。さっき僕の喉から出たような、獣の声。犬の声。深く地を這う遠吠えだった。
*
暗黒城からの帰りしな、僕は黒ずんできた自分の指先を見る。今日もまた少し、黒の範囲が広がっていた。
この黒がいっぱいになったら、僕もあの城の住人になるのかもしれない。
いつか……その日を数えて待っている。
了
暗黒城のマリア 夏野梢 @kozue_kaze
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