第12話

 午前の陽の光を存分に取り込んだ明るい部屋は余分なものがなく清々しい。家具も木目調のもので統一され落ち着いていて、初めて来たにも関わらず居心地がよかった。さっき壁一枚隔てて隣り合っている部屋も覗いてみたが、そこもシンプルなシングルベッドと箪笥などが配置されているだけで誰かと住んでいる形跡は見当たらなかった。わずかに開けられた窓の隙間から風が入り込んでレースのカーテンが少しだけ揺れた。

「はい、コーヒー」

 父さんの声がして目の前のダイニングテーブルの上にソーサーにのせられた白いコーヒーカップが置かれた。コーヒーの匂いが強く薫って、気分が少しだけ上気する。父さんは窓に背を向けて、僕の向かい側の席に座ると、自分の分のコーヒーを一口飲んだ。

「母さん今日退院だって?」

「うん。昼過ぎくらいに叔母さんが家まで送り届けてくれるみたい」

 一昨日の定期テストを終えた日の夜、母さんが隣町の駅で泥酔しているところを保護したと警察から連絡があった。迎えに行ってくれた叔母さんの話によると、体調面に不安があるためそのまま近くの病院に一日検査入院し、体力が回復していれば今日自宅に戻れるとのことだった。

「ハル、色々悪かったな」

「何いきなり」

「父さんのせいでこんなことになっちまって」

「今さらしょうがないよ」

「父さん限界だったんだ」

「わかってるよ。それにもし父さんの浮気が母さんの誤解だったとしても、肩を抱いた写真一枚で浮気だと思い込んじゃう時点で、母さん自身も相当無理してたってことだよ」

「すまん」

 父さんはそう謝罪の言葉を口にして頭を下げた。

 コーヒーを飲みながら、停学処分になったことや、勉強のことなど、息子として父親に報告すべきことを一通り話した。父さんが思いのほか動揺した様子で停学になったいきさつや進級への影響などを尋ねてきたので、僕が徹の作品のあまりのプライバシーへの配慮のなさに激高して彼を殴ってしまったことや、処分が解けて再び登校した初日に先生付き添いのもときちんと徹に謝罪して一応の許しを得たことなどをかいつまんで話した。それを聞いた父さんは数秒間黙したあと大旨納得したという風に頷いて、コーヒーを啜った。

「休日の朝から訪ねて来ちゃってごめん。今日は午前中しか時間がなかったから。父さんの部屋を見られて良かったよ」

 一通り話し終わり、コーヒーを飲み干したところで僕は立ち上がった。

「ハル」

 玄関の方に歩きだそうとした僕を父さんが立ち上がって呼び止めた。

「やっぱり一緒に暮らす気はないか」

 強く吹いた風に窓が小刻みに揺れて、カーテンが大きくなびいた。

 僕は一瞬間をおいて、数度首を横に振った。

「また遊びにくるよ」

 眉尻を下げた切なげな笑みを浮かべる父さんに背を向けて僕はマンションを出た。

 駅まで歩き、自宅の最寄り駅へと向かう電車に乗り込んだ。市街地から郊外へ向かう日曜日の午前中の車内はとても空いていて、三両しかない電車の座席はガラガラだった。

 乗っている車両に十代と思われる乗客は制服を着た女子高生一人で、ほとんどが高齢のおじいさんやおばあさんばかりだった。そのなかに二十代後半くらいの女性と小さな男の子の親子が乗っていて、席が遠くて何を言っているかまでは聴こえないが、子どもが体を揺すって何かを懇願するような言葉を発する度に母親が叱ってたしなめる光景がなんだか微笑ましかった。

 最寄り駅に降り立ち自宅へと歩いている途中、いつの間にか駅前のコンビニを通り過ぎていたことに気づいて後ろを振り返った。もうコンビニからはだいぶ離れていて、道が蛇行しているため、店舗自体は見えず高く立つ看板だけがかろうじて目に入った。僕は、出来たばかりの頃少なからぬ違和感を覚えていたものを一ヵ月も経たないうちに風景の一部としてあっさり受け入れている自分のいい加減さに呆れ、また一方で気持ちが軽くなるのを感じた。

 家に着くと、いち早くリビングの窓を開けた。窓の外のスペースには出かける前に干した洗濯物が陽光をたっぷりと浴びてそよいでいる。僕は今朝掃除した台所とリビングが整っていることを確認し、二階に上がった。

 自室に入ってゆっくりと呼吸をして部屋を見渡した。思えば父さんの浮気が発覚して以後もこの自分の部屋だけは大きく荒んだりすることなく以前と変わらぬ姿を保ち続けていた。机の脇にある鞄からノートと解答集を取り出し机の上に置き、椅子の背もたれに掛けられていた制服の上着のポケットから季子先生が面談スペースに置き忘れていった赤い水性ペンを出して椅子に座った。

 定期テストの最終日に冬子からノートを受け取った僕は、なにか季子先生からのメッセージが記されていることを期待して各ページを隅から隅まで目視したけれど、答えとマル以外には一切なにも書かれていなかった。しかも、最後の日に解いた教科書三ページ分の解答にはマルがつけられていなかった。

 僕はノートの所定のページを開き、赤い水性ペンのキャップを外すと、解答集の該当ページをめくって一つ一つ解答と照らし合わせながらノートに記された答えにマルをつけていった。手首が小さく弧を描くたび小気味よい華奢な音が鳴った。季子先生は何かを大げさに説くことも、有り体な枠組みを押し付けることもなく、毎日僕が解いていった分の答えにこうやってただマルをつけてくれた。忙しくても疲れていても必ずそこに座っていてくれた。そうやってただ当たり前に自分を待っていてくれる人がいるという事実が、あの時消えかけていた僕をかろうじてこの場所に繋ぎ止めてくれた。そして今、僕の手元にはその関係性の軌跡を留めたノートが確かな手触りをもって存在している。

 マルをつけ終えて、赤ペンにキャップをし、ノートと解答集を閉じて重ねた。少し高度を下げた太陽から届く温和な光がノートと解答集を整然と照らし、僕はしばらく茫然とそれを見つめて佇んだ。

 家の前に車が止まる音がして、間もなくインターフォンのチャイムが鳴った。

 緊張して若干身を固くしながら、階段を降りてドアの鍵を開けた。開いたドアからいくつかの荷物を抱えた叔母さんが入って来て、その後ろに背中を丸めた母さんの姿があった。化粧をしておらず白髪の目立つその容姿は、以前より十歳ほども年を取ってしまったように見えた。

 叔母さんに促されて上がりかまちに立つ僕の前に来た母さんは、僕を見上げて言葉を発しようと口を開いてはまた閉じるということを三回ほど繰り返し、俯いて目元を拭った。

 僕はつい目を逸らしてしまいそうになるのを堪えて、その姿を真っすぐに見た。リビングの方から流れ込んできた澄んだ外気が素肌に優しく触れた。

「母さん、おかえり」

 再び顔を上げた母さんの潤んだ瞳を見つめて、僕は声が震えないように胸を張って言った。


〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

こたえあわせの幸福 佐藤 交(Sato Kou) @yuichiro7212

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ