第11話

 停学が解け再び学校に通いだしてすぐに定期考査が始まった。さすがに登校初日はクラスメイトとどう接していけばいいのかと緊張があったが、これまでもクラスに積極的に馴染んでいた方ではなかったことが幸いしてか、僕の神経はクラスメイトの態度から過度なよそよそしさを汲みとることなく、適度な距離感を置きながら再び学校生活を開始することができた。

 停学中テスト勉強にほとんど手をつけていなかったこともあって、昨日試験四日目までのテストの出来はこれまでの自分の戦歴と比べると散々だった。かろうじて八割は取れている、くらいの手応えはあったけれど、問題文を読んでも、答えのニュアンスさえ直覚することができないという問いが各教科一題くらいずつあり、『学校』というものに入ってから初めて遭遇する事態に軽く衝撃を受けた。ただそんな中でも数学だけはやけにすらすら解けてしまうのが哀しかった。

 冬子から聞いた話によると、季子先生の休職はやはり雑誌に発表された徹の写真が原因ではないか、というのが生徒の間では通説になっているようだった。

 写真が発表された雑誌は、季子先生が休職する三日前に発売され、その雑誌を愛読する美術部員の間でホテルに入っていく女性が季子先生ではないかとにわかに話題になっていたらしい。それを子どもから伝え聞いた親が学校に連絡を入れたことで学校内で問題になり、季子先生が休職するに至ったのではないかという。さらに季子先生の休職直後から美術の大田先生がインフルエンザを理由に休んでいて、彼が季子先生の不倫相手なのではないかという噂が密かに盛り上がっているとのことだった。やはり季子先生があの写真集を見ながら「始めたい」と言って思いを馳せていたのは、写真ではなく美術だったのだろうか。

 僕の方は、停学期間中に母さんがまったく家に帰って来なくなってしまい、さすがに異常を感じた五日目の夜から、親戚と連絡を取ったり、捜索願を出したりと、慌ただしくしていたため、毎日疲れ切って季子先生のことに深く思いを巡らせる時間や余裕がほとんどなかった。母さんがいなくなってしまったことも当然ショックではあったけれど、どこかで想定していた事態ではあり、気持ちが動揺するというよりはただただ疲労が肉体に蓄積していく日々だった。久しぶりに意識が身体の実感に覆われた時間が長く続いたことで、あれだけありありと存在していたはずの不安定に揺れる心は全身に拡散して消えてしまったみたいだった。

 そんな風なここ数日間のことを思い返して一つ息をついた瞬間、わずかに開いた窓の隙間から乾いた風が入り込んで頬と首筋を撫でた。

 教室前方の扉が開いて先生が入ってくると同時に、クラス内の全生徒が口をつぐみ慌ただしく自席に座った。教室を見渡して全員いることを確認した先生が解答用紙と問題を各列の一番前の席に順に配布していく。僕は前の席から回ってきたそれらを一部ずつ取って残りを後方のクラスメイトに渡し、背筋を伸ばして伏せられた真っ白な解答用紙の裏地と向き合った。チャイムを待つ張りつめた緊張が教室全体を覆った。


 チャイムが鳴り、三限の最終科目の答案の回収が終わると、教室全体を包んでいた重苦しい空気がほどけて、晴れやかな声が一気に溢れた。秋の定期考査最終日でしかも明日が休みということもあって、みんなの中の抑えられていた欲求がいっそう伸びやかに解放されているのが感じられる。かくいう僕も肩の荷が下りる感覚にひと時の安息を覚え、窓の方に目を向けた。窓から見える空は青が透けて見えるくらいのうっすらとした雲に覆われ、ぼんやりと拡散した光に包まれている。僕は抗いがたい温いやすらぎにほだされて、ゆっくりと呼吸をした。

「ハル」

 歓喜のざわめきをつんざいて自分の名前を呼ぶ声が聴こえた。

 驚いて斜め後ろを振り返った。

 冬子が早足でこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。僕は彼女が右手に持っているものに気づき、自然と首を横にふった。この二週間ほど体内に霧散していた感情が否応なく濃い靄となって胸の辺りにせり上がってくるのがわかった。

「いま季子ちゃんが昇降口でハルにこれ渡してくれって」

 冬子は僕の席の横で立ち止まり、微かに息を切らせて右手に持ったノートと解答集の束をみせながら言った。

「早く」

 その声で僕は席を立って昇降口に向かって駆け出した。教室を出て、廊下を走り、中央階段を一階まで駆け下りる。下駄箱と下駄箱の間の通路を一つ一つのぞき込んでも案の定すでに季子先生の姿はなく、上履きのサンダルのまま昇降口を出て校門まで走った。校門の目の前を横切っている道の左右に眼を凝らしたが、人影は見当たらず、少し思案して右へと進路を定めて再び走り出した。

 息が切れ、足の裏の筋が痛み、サンダルが脱げた。

 きっともうたぶん季子先生には追いつけないだろうとどこかで思いながら、それでも僕は走った。

 市民公園まで辿り着いて児童遊技場のベンチに腰を下ろした。

 息を整えながら周囲を見渡したけれど、そこには季子先生どころか誰の姿もなく、目の前の砂場には誰かが山を作って遊んでいた形跡だけが残されていた。

 夏休みに入ったばかりのあの日、ここに座っていた先生は何を見ていたのだろう。その瞳には幸せな未来が映っていたのだろうか。

 あの時、一点を見つめて動かない先生に三歳ぐらいの男の子が近づいて白衣の裾を手で引っ張る場面があった。先生は体を震わせ足下の子どもの方に目を向けた。子どもの姿を確認した瞬間、先生の表情が穏やかになった気がしたけれど、その顔はどこか悲しげにも見えた。

 母親らしき女性が手を引いて子どもを連れて行ったあと、季子先生は公園の入り口に立っている僕の姿に気づいて、何を思ったのか手に持っていた食べかけのサンドウィッチをいっぺんに口に詰め込んだ。そして苦しそうに咀嚼してすべて飲み下すと、閉じた唇の前に人差し指を立てまばたきせずに僕を正視した。僕は校内では見たことのない季子先生の一連の振る舞いを目の当たりにして、父の浮気が発覚して以来久しぶりに心の緊張が解けるのを感じた。遊技場には子どもたちの笑い声が和やかに響いていた。

「ここにいたんだ」

 声がしたので顔を上げると、冬子がノートと解答集を持ってベンチの前に立っていた。

「季子先生いなくなっちゃった」

「そう」

 彼女の声がやけに凛として聴こえた。

「季子ちゃん、ノートに書いてある住所をみて何度かハルの家を訪ねてみたって言ってたよ。でもインターフォンを押しても誰も出て来なかったって。わたし嫌われちゃったみたいって」

 停学期間中の昼間に時折鳴っていたインターフォンのチャイムの音を思い出して内心騒然とした。人に会う億劫さに捕われて、応対することはもちろん、室内のモニターで来客の姿を確認することすら行っていなかった。

「なんでさっきノートを見てずっと首を横に振ってたの」

「だってそのノートと答えが自分の手元に戻ってきたら、季子先生とのつながりが本当になくなっちゃうと思ったから」

「そんなに季子ちゃんに会いたい?」

「先生といる時だけは自分がここにいることを許されている気がしたんだ」

「どうして。ハルはちゃんとしてるじゃない」

「冬子は何にも知らないだけだよ。三ヵ月前に父さんが家を出て行ってからウチはもうずっと崩壊状態なんだ。母さんも胡散臭い宗教にハマって全然家に帰って来ないし。もう誰も僕を待ってる人なんて居ないんだよ」

 じっと冬子の脚の後方にある砂場の山を見つめて話した。砂の色が濃くなっていく様子で陽が傾き始めているのがわかった。

「誰も見ていてくれないんだって思ったら、あんなに意義を見出してた勉強も虚しく感じられてきてさ。満点を取っても、解法を理解しても、ちっとも満たされないんだ。しまいには答えがすでに存在している問題を自分が解かなくちゃいけないこと自体がバカバカしくなってきちゃって、全部放り出したい思いで頭がいっぱいになった時、思い切って相談したのが季子先生だったんだ」

「そうだったんだ。ハルの家のこととか全然知らなかった。なんで話してくれなかったの」

 その言葉に彼女を見上げ眼に力を込めた。

「言えるわけないよ。だって冬子は家庭がめちゃくちゃで自分より成績の良くない僕なんていらないだろ」

 冬子と見合ったまましばらく沈黙の時間が流れた。周りの道路を行き交う車の騒音が大きく聞こえた。

「ハルはもう少し賢いのかと思ってた」

 冬子が平坦な声で言った。

「なによ。勝手に人のこと決めつけて、自分からはなんにもしないで孤独ぶってさ。そんなに季子ちゃんに会いたいなら、必死で調べて家にでも押し掛ければ良いんだよ」

「冬子にはわからないよ」

 言い放って顔を下に向けた。

「そうやって俯いてればまた誰かが助けてくれると思ってるんでしょ。自分だけ格好つけて黙ってる人のことなんてわかりたくてもわかるわけないじゃない」

 冬子がこちらに踏み出す足音がした。

 僕の上に冬子の影が落ちて視界がうっすら暗くなった。

「自分より成績が悪かったら私はハルがいらない?馬鹿にしないでよ。私はいつだってその時その場所に居るハルと向き合っていられたら幸せだよ。そんなことで見捨てるわけないでしょう」

 冬子が僕の頭を抱きかかえるように身体をかがめ両腕を首の辺りに回した。手に持ったノートが肩に当たるのがわかった。ざらついた制服の肌触りが頬に懐かしかった。

「どうして話してくれないのよ」

 髪の毛に生暖かい液体が落ちる感触があって視線を上げると、冬子が目を閉じて静かに泣いていた。

 僕は思いもよらず体の中心が震えて全身に張り詰めていたものが崩れ落ちるのを感じた。

「口に出したら、本当に全部なくなっちゃうような気がしたんだ」

 そうつぶやいて冬子の胸に頭を預けた。

 ブラウス越しに伝わる体温は温かく、甘いミルクのような匂いが薫った。僕の頬を伝う涙が冬子の制服に滲んで染みを作った。

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