藍色の表紙の本『天宮』 -2-
国の秘密の奥の部屋の主は一度瑠璃の杯をもち引っ込むと再び今度は紫水晶のような色合いの液体を入れ戻ってくる。それと同時に藍色の四角い箱のようなものを俺に手渡した。
この部屋にはいろいろな書物が収められており、いろいろな形の本がある。この国には巻物の本が多く、それ以外はこの部屋でしか見たことがなかった。国の人間は、本とは巻物だと思っているだろう。
だが、箱のような四角張ったそれも、俺は初めて見るが、本であった。
俺は一枚、表紙というらしい分厚い紙をめくる。表紙と紙質の違う
俺は低く呻いた。
今そこにあるかのような鮮やかさは俺の国の書物にはないからだ。つねに動物の皮で作った紙か、葦でつくった紙に黒い墨で描かれており、このような色鮮やかなものは拝めない。
なんという美しさであろうか。
思わず俺は本を手のひらで撫でて存在を確かめずにはいられなかった。しかしながら、ひやりとしてまた陶器のようにつるりとした紙質は、物の厚みを伝えてはくれはしない。
当たり前だが、そこには、――ないのだ。
俺は再び紙をめくる。
目次と書かれたそれの下に数々の物の名前が羅列されていた。壷、皿、宝飾具、服、そして石の名前。それぞれの下にそれより小さな字でいろいろな名前が書かれていた。分類分けをして、その下に当てはまるものを記載しているのかと納得し、再びページをめくる。
俺はこれに惹き込まれた。
決して執務が嫌いではない。ただ楽しいわけでもなく、ただただわずかばかりの達成感が俺を突き動かしているに過ぎない。国を大きくするには時間と労力がかかり、短期の報酬は得られない。それをなんとか持ちこたえさせているのは、そのほかの事業で得られる達成感と、それを喜ぶ民の笑顔であった。
嬉しいのは嬉しい。民が富み、国が栄え、この国に生まれてよかったと思ってもらえるのは国主として最高の喜びではある。
それでも仕事に嫌気がさすこともある。
納得できないことを飲み込むことも、悔しさに夜を寝れないことも。
それを思い出すと、心から喜べない自分がいた。
飽いていたのか、膿んでいたのか。それは俺にもわからない。
ただ鬱屈した黒い靄が心にかかっているように疲労がたまっていた。
だが、書物を読んでいるときは違った。忘れていた。肩の重さなど忘れていた。仕事を忘れ、国を忘れ、民を忘れ、ただ俺という世界だけが広がる。
部屋の主はまるでいないかのように気配を消し、俺が望む空間を作り出す。もし、魔法使いというものがいるのであれば、部屋の主こそそれであろう。
だが俺は正体を暴こうとは思わなかった。
正体を見てしまったらきっと、俺はこの空間を失うことになるのがわかっていたからだ。
俺は右手で本のページをめくり、左手で水菓子を口に運ぶ。行儀が悪いと小言をいう女官もいない。
クッションを体の下に敷き、体の重さを大地に預け俺は完全に脱力していた。この空間には俺を狙う刺客はいないと妙な確信があった。俺のミスをあげつらう間者もいないと確信があった。
気を張らなくてもよかった。
不思議なことだが、この部屋で声を上げてはいけぬと感じるのと同じように、またここには俺以外立ち入れないというのも分かっていた。
王のみが休息を得るためだけの空間。母の腕のゆりかご、それそのものであった。
きらきらとまばゆい絵は俺の目を和ませる。
そして想像させた。
この壷に金の枝、銀の枝、白い大輪の花を飾ったらきっと女どもは喜ぶに違いない。
この皿に、焼いた肉を乗せ、この国で貴重な黒コショウの実を転がせば口のうるさい有力者たちの頬も下がるだろう。
この盆に水と花を浮かべ、夜空に掲げれば月も星々も掬えるようになるだろう。こういうのも女達は好きだろう。
瑠璃の鈴は窓辺に置けば陽の光を照らし、色とりどりの色合いを部屋の中へと導いてくれるだろう。
いくつもの大粒の宝石を縫い付けたドレスは、お気に入りの女に贈ってやろう。彼女たちの後ろにいる者も、自分の息のかかった人間がお気に入りだと満足するに違いない。
大粒の宝石たちは商人に高く売りつけるとして、売り物にならない小粒のものは国に敷かれている石畳の原料に混ぜ込んで輝きを増やしてはどうだろうか。
建物にもっと練り込んで、光を当てれば夜の星がまるで我が国に降りてきたかのように見えないだろうか。小さすぎる宝石もある程度固めれば多くの輝きを得られるはずだ。
砂漠の中にあり、豊かな水の国。
上質な宝石のとれる国。
そして深淵の中にある星の国。
国の評判は他の国々へと広まっていくに違いない。
俺の国は人々の口に上る。
俺はそこまで想像して、ほう、と感嘆の溜息をつく。
――いや、待てよ。
夢のような考えに懸念が湧く。
国の富を奪いに来る者たちもおそらくはいるだろう。ならば軍備にも力を入れなければならない。人の住めない場所もある砂漠の国ゆえに、極端な兵力の拡張はなかなかに難しい。
ならば限られた人のみに扉を開けたらどうだ。
この、世の理の書物の部屋のように。
俺はこの部屋の存在を知って沸き立つ思いだったのを思い出す。立ち入りを許可してほしくて苦手な勉学も励んだのだ。
同じようにこの国に立ち入りたければそれなりの労と代価を支払ってもらえばよい。選ばれたと思えばそれだけで特別な思いを抱くものだ。
そしてこの国に好意を抱いた者たちを囲い込み、ゆっくりと他国と並び立てるよう国を育てていく。
それだ!
と俺は膝をうち、身を起こした。開かれた本を閉じ両手を天に向け体を伸ばす。
涼しい部屋で涼を取り、甘い果物と冷たい水で腹を満たし頭をすっきりとさせる。
鬱屈していた脳内がすっきりと整うのを感じた。
家臣に告げた約束の時間よりまだだいぶ早かったが、十分効果的な休息を俺は得られたと知っていた。
出されたものは王たるものすべて口にすべきという信条の元、休息の終わりにまだ口のつけてなかった紫色の飲み物に口をつける。甘い果物の芳醇な香りが口の中いっぱいに広がる。ただ甘いだけでなく、ぴりっとしたスパイスが舌を刺激した。畑違いの者たちが出会ってより一層の成果を得るように、この飲み物も斬新な組み合わせでいて、最高の取り合わせとなるよう計算されていた。
僥倖。
なんという僥倖か。
俺は天宮と文字が刻まれたこの藍色の本を踏みつぶさぬようクッションの上に置くと、いつの間にか姿気配さえ消えてしまった部屋の主へ頭を垂れ外へ出た。
俺が外に出たと知った家臣たちは慌てて俺の前に参列する。
俺はぐるりとこの愛すべき家臣を見回し、ニィと大きな口を沈みゆく三日月のように釣り上げた。
「皆の者、これから執務を再開する!!」
*************
本を求めるというのはどういう事柄であろうか。
知識を深めるため?
我を忘れるためであろうか。
物語の主人公になり日々を忘れることもあれば、日々のために本を読むこともある。
本を読むその時間こそが尊きものとすることもあれば、ただ単に本を枕に寝息をたてることもある。
私は、かの王のような人を見るたび、本というのは何物であろうかと自分に問う。
どんな理由であれ本を求める者たちのためにこの店はあった。今回のように店の形態をしていなくても、それは些細なことでしかない。
私はどのような形であれ求められ続けるのであれば、門戸を開き最善の空間を作り込むに徹する。
それが私が与えられた罰ゆえに。
「それにしても今回もあわただしかったですねえ」
そのくらい忙しい人なのだと察する。
本はどのように読まれようが良いのだ。その人の最良であれば。
願わくば本が貴方の役に立ちますように、と私は祈るだけだ。
王が読まれた藍色の表紙の『天宮』という写真集をクッションから拾い上げると、子供のような顔をした王の顔を思い出しながら私はページをめくるのだった。
静謐なる図書喫茶 ~スローフォックストロット~ 中邑宗近 @n_munechika
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