きつね色の表紙の本『菫と真珠』 -5-

 やがて窓から光が差し込み、まばゆさに顔を上げた。どうやら僕は一晩中本を読みふけり、朝を迎えていたらしい。どうりで目がしょぼつくわけだ。

 誰もいないことをいいことに、僕は大きな口をあけてあくびをした。

 

 読み終えた本を積み上げ、僕はカウンターに返却しに立ち上がる。はらりと肩から落ちた手拭いを拾い上げ腰に巻き付けた。さすがに店の中でふんどし一丁で歩けない。別のお客がはいってきたら、だ。本を持ちあげ、崩さぬよう慎重に裸足のままひたりひたりと歩く。

 店主は家に帰ってしまったのだろうか。それとも奥が居住場所になっているのだろうか。客一人を残して帰ってはいないと思うが、それにしても不用心だ。気を付けてほしいと思った。

 ……好意に甘えた僕が思うのもなんだけれど。

 

 店主の姿を探しカウンター向こうを覗き込んでいると、いきなり扉が開き、女性が駆け込んできた。そして僕を見るなり抱き着く。あまりの勢いに僕はもんどりうち女性に押し倒される形になった。

 破廉恥!!

 と言いたいところだがふわりと香る香りにその破廉恥な女性が薔子さんであることに気づいた。

「悠次郎さんっ!!」

 ああ薔子さん、ここは私語厳禁の喫茶店ですよ。

 そして僕はふんどし一丁なのですよ、薔子さん。それなのにそのように僕の上にまたがられてはいけない気持ちになってしまう。

 僕はそう言いたかったが、綺麗なお人形のようにいつも無表情か不機嫌な顔が不思議とゆがみ、瞳になみなみと涙がたまっているのを見て、口をつぐんだ。

「よかった。よかった。死んでしまわれたと思いましたわ」

 薔子さんの言葉に、僕は「えぇえっ!!」と素っ頓狂は声を上げた。


 騒々しい様子に店へと戻ってきた店主は僕らの様子をみて咳ばらいを一つ落とす。僕らは慌てて立ち上がり少しだけ距離を離して立った。珍しく不機嫌な目を向ける店主から乾かしてもらった服を受け取り、身支度をしながら薔子さんに状況を聞いた。店主はほかの客もいないしやむなし、とやっぱり不機嫌そうに、しかも眉間にしわを寄せながら、話すことに許可をくれた。

 

 どうやら、家を勘当され、薔子さんにもふられ僕は世をはかなんで自殺したらしいということになっていた。朝から真珠店の従業員総出で川さらいをしているという。僕が落としてきた靴がちょうど橋のたもとに転がっており、いらぬ誤解をさせてしまったらしい。


 薔子さんはその話を聞いて、僕が死ぬなんて信じないと銀座の街の中を駆けずり回ったらしい。そしてやがてこの図書喫茶店に思い当たり、朝になって訪れたということだった。

 僕はふんどし一丁で本を朝まで読んでいたことを告げると、薔子さんはどうしようもない愚か者を見るような、呆れたような様子でそれでも笑みを浮かべた。


「でも、らしいですわね、そういうズレていらしているところが」

 と、薔子さんはおっしゃった。あー、紳士的にふるまったと思ったけれど、そういう評価でしたか。


「僕は、紅茶と紫色の、菫の砂糖漬けというらしいのですが、あれを入れて飲んだ時、二つで一つのものだと思ったんです。特徴のない僕と、美しい貴方のように。そういう夫婦になれたら良いなと」

 喫茶店を辞した僕たちは二人で銀座の道を歩いていた。靴は、店主から古いものだけれどといただいたもので僕の足の大きさにちょうど良かった。


「でも、もう僕は無一文ですし駄目ですね」

「そのことですけれど」

 薔子さんは僕の腕に腕を絡ませながら頭を僕の肩に寄りかからせていた。出会ったころには思いもよらなかったことだ。

「私、おじい様から頂いたお小遣いを思い出しまして。私なんせ井上侯爵の唯一の孫ですので、お金は必要ないことに気づいてしまいましたの」

 薔子さんは、いたずらをした子供のように笑って肩を揺らした。ころころと笑う彼女に、僕は正直戸惑った。


 婚姻が決まったら言いだそうとしていたのだそうだ。それそれでどうだろう。だまされたら気分はよくないのではと思ったが、華族というのはそういうもんなのだろうか。

 そういう僕の様子に薔子さんは僕の腕を強く抱きしめる。

「ごめんなさいね。殿方をだますようなことをして。私、したいことがあって、それを許してくれる旦那様を探していたのよ」

 華族のお嬢様が言うのであれば、なんだって皆聞いてくれるものではないだろうか。首をかしげながら僕は薔子さんに尋ねた。

「したいことって、なんですか?」と。


 薔子さんは銀座の街並みを眺めながら教えてくれた。

「私、洋行して勉強をしたい。私たちはもっと世の中を、世界を知るべきだと思うのです。私たちには貧しい方々に手を差し伸べられる力がある。でも無知であればただ浪費するだけ」

「なるほど。そうですね。井の中の蛙大海を知らずといいますしね」

「空の青さを知っても井の中から出ようとはしないのですわ。外に出て初めてどこに行きたいか気持ちがわくというもの」


 僕はしばし考え、るふりをして頷く。

 僕は女だからどうとか、洋行はそもそもどうだとかそんな野暮なことは思わなかった。世界に向ける目があるなら、そしてその知識があるのであれば、世界に羽ばたくのはよきことのように思えたから。そして薔子さんにはその力がある。 


 僕は薔子さんに向き直り、膝をついて彼女の前に右手を差し出した。

「無一文の僕ですが、薔子さんの伴侶として結婚してくださいますか」

「ええ、もちろんですわ、未来の旦那様」

 薔子さんは僕の手を受け取り、優雅に一礼をした。

 

 こうして僕は薔子さんという聡明の女性と結婚することになり、まただったのだが、海外へと出るという話を聞きつけ、二木本の外国の店を出すようにと父から店を任された。

 これ以降についてはさてさて、どうなることだろうか、それは僕にもわからない。



*************



 こんなにもハラハラと行く末が心配だったのは久方ぶりだった。

 私はお客様がカウンターに積んでおかれた本を片付けながら、ほっと胸をなでおろした。

 あの様子であれば、また破談したと泣かれて訪れることはないだろう。


 『彼岸の小鳥殺し』は、その実すべてがハッピーエンドというわけではない。義理の子を虐待した嫁の罪は消えないし、嫁をそこまで追い詰めた村人たちの心ない言動も誰も咎められていない。

 あの本からわかるのは、たとえ嫉妬や恨み、怒りや羨望に心を支配されていても、長年の本質は決して変わらないということ、たったそれだけだった。嫁も子供もどこかゆがみを抱きつつも、お互いを慈しみ、尊重し優しくあれば幸せに生きていけることを示していた。

 二木本様達もそのようなご関係になられる、という本からの応援であろうか。


 私は本をしまい終えると、二木本様にお出ししたお茶と皿を片付けようとして暖炉に寄る。そこに狐の毛を使った襟巻が落ちているのに気づいた。二木本様がいらしたときに濡れていたので、しみが出来たり、縮まないように対処をしようと預からせていただいたものだったけれど、いつの間にこのような場所にいたのだか。

 足が生えているわけでもないのに、また勝手に……と思わざるを得ない。

 お洋服と共にいないから返しそびれてしまった。今度いらしたときに、二木本様には忘れずにお返ししよう。

 私はため息交じりに拾い上げると、襟巻は同じ色の表紙を持つ本へと変じていった。白い箔押しでタイトルが書かれていた。


 本のタイトルは『菫と真珠』。

 本のテーマは……なんでしょうか。

 次のお客様がいらっしゃるまで、私はこの生まれたての本を読むことにしよう。

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