きつね色の表紙の本『菫と真珠』 -4-

 家に戻れるわけでもなく、薔子さんのお宅にいくこともできない。では高等学校の友人のもとにでも参ろうかと思ったが、今の現状をからかわず慰めてくれるような者はいなかったのであきらめた。


 いつの間にか僕はそうしてあの喫茶店の前に立っていた。長く長く歩いただろうか、と不幸な自分に浸りたいが僕がいた店もここも銀座にある。少し行けば行きつくという単純な話で、浸ることもできなかった。店主はおそらく黙って迎え入れてくれて、黙ってお茶の一つでも淹れてくれるだろう。でもあいにくと手持ちはこのきつね色の襟巻しかなく、これを換金するようにと言えるはずもない。突き返されたがこれは薔子さんにお送りしたものだから。


 しばらく店の前で立ち尽くしていたが、どうにも雨に濡れた体が寒く、歯の根が合わなくなっていて、ああなんと克己の心がないのだと仕方なく扉に触れた。ドアのノブを回したわけでもないのに、扉は難なく開き、中から暖かい春の日差しのような空気が流れてくる。こうなるともう気を遣う気持ちは霧散してしまっていた。


 店長が僕の姿を見るや否やあまりの惨状に何も問わず店内に導いてくれた。僕はほっとしたのか、視界がゆがみ、頬に熱いものが流れ落ちていった。口元に手の甲を当て泣き声をこらえたが、洩れ落ちた声は涙と共に床に落ちていった。

「ふ……っ、……ぁあ……」

 僕は街を呆然とさ迷っている間に靴の片方を落としてきてしまっていた。足元は泥水で汚れていて靴下は足踏みすればグショグショと音がするほどひどい有様だった。ひどく惨めだった。


『服は乾かしますので、暖炉のそばでお休みなさい』

 店主はそういうと下着つまりはふんどし以外の服を全部脱がせ、手に持っていた狐の襟巻も変形しないように処置しますとカウンターの奥へと持って行ってしまった。

 その後、僕はなんだかふわふわとした大きめの手拭いのようなもので体を包まれ、暖炉のそばの椅子に座らされた。


 もうこの時期に暖炉をつけているなんて贅沢な、と暖炉に火が入っていることを思いながら、それでもありがたく暖を取らせてもらった。店に客がいることもなく、暖炉もこうやって贅沢につけていて、薔子さんともスムーズにお話しされる人が、そこらへんの平民であるはずがないのだ。

 嫉妬心がじわり、と沸き起こったがそれは店主に失礼というものだった。

 暖炉の火のそばに手先は足を出すと、かじかんだ足先や指先がじんわりとしびれに似た痛みと共に広がっていく。

 僕は足先を何度も手で揉んで血のめぐりを促していた。


 店主はお茶ではなく、しし肉ぶたにくと根菜、油揚げがはいった味噌汁とんじるを持ってきてくれて、何を問うでもなく、濡れた僕の髪を丁寧にぬぐい始めた。

「縁談、破談になっちゃいました」

 僕は話してはいけないその店でぽつりと呟いた。髪を拭く店主の手が一瞬止まり、手拭いの上から僕の頭を撫でた。

「僕や父が悪いんですけれど、彼女すごく怒ってて。僕に魅力もなくて、釣り合わないと。お金が、目当てだったんですかね……」

 見る目がなかったな、本当に、と僕は自嘲する。自問に答えはない。

 店主を前にしていると時折思うことだったが、本を前にしているようだった。


 僕はしばらく待ってみたが答えはなく、仕方なく汁物に手を付ける。汁は暖かく肉の油が甘い。味噌の香りが減っていた腹を刺激する。僕は具を掻き込み、汁を喉を上下して飲み干した。じんわりと腹が温まると、体の冷えもどこかへと消えていった。


 店主は空になった椀を下げ、代わりに本を持ってきてくれた。そしてもう一つ、一枚の紙ぺらを僕に渡した。これは僕が今までここで読んだ本の一覧だった。

 

 ――いや、違う。


 僕が読んでいない本の題名までもが書かれていた。

『彼女は、貴方を知ろうとしていましたよ』

 一覧の裏には綺麗な字でそう書かれていた。

 僕は店主を思わず見上げ、店主はと言えばマスクから出た眼だけが優しい光をたたえていた。

「彼女が読んで、僕が読んでいない本、持ってきてください」

 店主は規則破りの僕に静かに頷いた。


 まずは持ってきてくれた本を読まねばならない。タイトルは以前に読んで僕が泣いてしまった小説と同名だった。同名であったが開くとそこに広がる物語は別物だった。


 しんしんと雪深い村に白い雪が降り積もる。山の雪深い村には蓄えは少なく、わずかばかりの薪を寄せ集め囲炉裏にくべ、身を寄せ合いながら暮らしていた。

 長老は息子に嫁をとったが、嫁はなかなか子を授かることが出来ず、石女うまずめと嫁ぎ先から虐げられていた。

 しかし貧しい村に嫁ぐようなもの好きはおらず、女は家に帰されることなく冷や飯を食らい続ける。

 やがて旅の一座が村に訪れ、芸者の一人はそこで村長の息子と恋仲になる。


 寒い日に生を受けたもの一人、死を受けたものを一人。

 芸者は冬のある日、男の子を生み落とした。芸者は旅の一座から抜けると息子が用意した屋敷に住むことになった。

 石女と呼ばれた嫁はそのころ長年の祈りが通じ子を身ごもっていたが、夫の裏切りと新たに加わった家族に鬱屈した心を抱き、流産した。嫁はそれにより子を身ごもることのできない体となった。


 コトン、と小さな音と共に、ほうじ茶と握り飯が置かれた。僕は目礼を向け再び本に目を落とす。


 やがて芸者ははやり病で亡くなり、子を引き取ることになった。嫁は役立たずであったが、子を育てるために母の役割を与えられた。猛烈に反対したが受け入れてもらえることもなかった。そのかわり芸者が持っていた装飾品は嫁に与えられた。嫁はみたくもないと、質屋に入れた。


 嫁は子につらく当たり尽くした。

 子は母を見る時おびえるような顔を向け、それにいら立ちを覚えた。成長していくたび、産みの母親に似ていく姿に、またいら立ち、嫁の虐待は日に日にひどくなっていった。


 そしてあの事件が起きる。


 嫁はもともと冷たい人ではなかった。

 周りの非情な人間が彼女を追い詰めたに過ぎなかった。

 自分が虐待した子供が家出した理由を村のはずれに住む老人がこっそりと教える。

 春先に咲くカタクリの天ぷらやお浸しを嫁は好んでいた。

 老人は虐待される子供を憐れんで、カタクリの花を取りに行ったらお母さんは好きになってくれるかもしれないと子供に教えたというのだった。


 子は自分を嫌って家を出たわけではなかった。また子はけなげにも夫に虐待されていることを訴えていなかった。

 その事実が重なり嫁は、恨みや嫉妬、怒りなどで心の奥底に閉じ込めていた従来の優しい心を思い出す。

 嫁は村の男衆の制止を振り切り雪の山に入り、やがて子を見つける。

 嫁は雪山に長時間入ったことにより凍傷を患い、足の指を切り落とす羽目になったが、子が献身的に尽くしてくれて、親子ともども幸せに暮らしたという。


 僕は読み終わり、本を閉じた。夢中になって本を読んでいたせいか、出された握り飯はすっかり冷えていた。それでも僕はその握り飯をありがたくいただいた。ちょうどよい塩梅の塩気に、握り飯がとてもおいしく感じられた。

 僕の傍らには本が何冊も積まれており、それらは薔子さんがおそらく読んだであろう本だった。


 店の光は落とされており、店主は奥にでもこもっているのだろう。店に姿がなかった。この店は何時に閉まるのだろうか。その時間まではなんとか本を読みたいと次の本に手を伸ばした。

 握り飯を片手に僕は一晩中本に没頭した。


 

 

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