きつね色の表紙の本『菫と真珠』 -3-

 薔子さんはあの図書喫茶店を気に入ったようで、一人でも訪れているようだった。店主が教えてくれた。読んでいる本を聞くと本当は秘密ですが、と書きながら題名を教えてくれた。


 彼女が読む本は多岐に渡る。

 花言葉の本、著名な詩人の詩集、宝石細工の本や真珠の本など。ほかに政治の話しや軍隊の話しなども興味がおありのようだった。他国の本まで読んでいるようで、才女ぶりに舌を巻かずにいられない。


 薔子さん、貴女はそんなに学んで、何をなさりたいのですか。

 僕はそう思うようになった。


 薔子さんのお宅に迎えに行ってもお出かけされていることが多く、門前払いの日々が大分続いたころ、店に父がやってきた。

「薔子お嬢さんとの交際はとんと進んでないらしいじゃないか」

 僕が父に結婚すると報告しないので、進展にしびれを切らしたらしい。

 店の奥の畳の部屋で僕は父と相対する。

 薔子との縁談は正直に時間がもう少し必要だと告げると、父は「もういい」と言いながら封筒を僕の前に放った。


 何かと手に取ると封筒には釣書が入っていた。釣書とは縁談をするときに双方で交換する身上書のことだ。

「高司侯爵様の章子お嬢様との見合いが決まった。有馬様には儂のほうから破談の申し入れをする」

「なんですって? ちょっとお父さん、何をおっしゃってるんです」

 平民が華族の縁談を一方的に破棄するなんてありえなかった。口をばくばくとさせると、だぶついた顎の肉を震わせながら父は吠えた。

「もともとお前を婿にやり、その上金までとられるというのに、待つも何もないわ。何が薔子さんの気持ちの整理がつくまで待てだ。馬鹿たれが!」

「お父さん、何も何年ってわけじゃないんですよ。あとちょっとだけ待ってくれれば」

「薔子お嬢さんのところに婿にいって、二木本の何の利益があるのだ。華族の方々に品を売るなら、他の華族のお嬢さんでも良いわっ! たとえ不細工のずんぐりむっくりだろうがな! しかも高司様は章子様のために結納金をたんまりとくださるそうだ」


 商売は早さが勝負だ。他の真珠店に先を越されないようにいろいろ動き回り今がある。その速さは父の強みの一つだった。だから今回のことものんびりと進めることが嫌だったのだろう。

 最初は一度のデートで断られなくて優秀だと喜んでいたのに。

 きれいなものが好きな父が不細工な嫁を貰うことを我慢するくらいに。


 父は頑固だからこうなったらてこでも動かない。

「僕は絶対お見合いなんてしないですからね」

 僕も父の血を引き継いでいて、嫌なものは絶対に妥協しない性質タチだった。「勝手すぎるっ!」思わず声を荒げた。


「ええい、いうことを聞かぬというなら勘当だ!」

「勘当上等ですよ! 僕が泣いて許しを請うと思ったんですか?」

「お前、父親に口答えするなんてっ。もういい! 勘当だ! 勘当!!!」

「ええ、ええお父さんの気持ちはよくわかりました。僕は僕で生き方を決めます。お世話になりました!」

 僕は立ち上がり、部屋を勢いよく飛び出す。

「悠次郎! 貴様っ!! 待て、話は終わってない!」

 父の怒声が後ろから追ってくる。僕はドスドスと足音をさせながら廊下を歩き、店頭へと出る。父自体は追ってこない。リウマチを患っていてゆっくりとしか立ち上がれないからだ。


「坊ちゃん」

 親子喧嘩を聞いていたらしい従業員が顔を真っ青にしていた。

「みっともないところを聞かせたね」

 従業員に声を荒げなくて僕は自分をほめてやりたい。

「いいえ、いいえ」

 従業員の様相はおびえているようにも見えた。だから僕は重ねて謝る。

「本当にすまなかった。ちょっと頭を冷やしに外に」

 だが、違うらしい。何か必死の形相で従業員が僕の服の裾を掴む。

「そうじゃないんです。今の今まで、薔子様がいらしていて」

「なんだって」

「大旦那様とのお話をお聞きになって出ていかれました」


 僕は慌てて自分の洋靴に足を突っ込む。こういう時になると途端にうまく履けなくなる。結んである紐を解いて足を突っ込み乱暴に紐を結びなおす。追いかけようと走り出すと、これまた乱暴に結んだ紐の先を踏みつけてしまってほどけてしまい、靴が脱げる。靴下をはいた足の裏が石ころを踏みつけてすごく痛かった。

「ああ、くそ」

 盛大な舌打ちをしながら僕は靴を履きなおし、今度はしっかりと紐を結び、紐の端を靴に押し込んで、薔子さんを探しに道へと出た。


 薔子さんはすぐに見つけられた。背の高い凛と背筋が伸びた、そしてきつね色の襟巻をしている女性はほかにはいないから簡単にわかった。狐の襟巻、大分あたたかくなったというのに大事に使ってくださっているようだった。

「薔子さんっ、待ってください」

 僕は薔子さんの細い腕を掴み歩みを制止させた。僕の不躾な行動に薔子さんが不機嫌そうに振り向く。

「何かしら」

「あの……父とのけんかを聞いていらしたとか」

「……ああ、そうね。縁談は断ろうと思っていたのでちょうどよかったわ。私からまた言い出したら父から我儘だと叱責を食らうところでしたもの。そちらのおうちで泥をかぶってくださるのよね、二木本さん。助かるわ」

 薔子さんは艶然と笑った。切れ長の目はちっとも笑っていないのがわかる。僕への拒絶の気持ちが痛いほどよくわかった。


「ち、父の言ったことは謝ります。僕は薔子さん、貴女以外に考えていない」

 よく演劇などで見る、女が捨てられるときに男に縋りつくのはこういう心持の時なのだろう。冷ややかに僕を見つめる薔子さんの足元に土下座して縋り付きたかった。

「でもお父様と絶縁したら貴方は無一文。それでは有馬の家に入っていただくにはふさわしくないわ。どれだけ貴方は、貴方の家は私を侮辱するのです。このお話はなかったことにいたしましょう。ちょうど良かったではありませんか」

 薔子さんは僕が差し上げた襟巻を外すと僕に突っ返し、雑踏の中へと足早に消えていった。


 ぽつり、ぽつり、と雨が落ち、地面を濡らしていく。ザアザアと降るまでにさほど時間はかからなかった。去っていく背中が拒絶以外の何物も感じられず、僕は彼女を追えなかった。


 仕方なく家に帰ると父親が店の前に仁王立ちしており、塩をかけられた。

「金輪際家の敷居をまたぐな」

 そう僕に言い放ち、店の扉を勢いよく閉めた。

 雨に濡れた塩がべたつく。しばらく待っても扉があくことはなかった。気づかわし気に店から僕を窺う従業員に申し訳なく、僕は雨にうたれながらのろのろと店に背を向けた。


 いつの間に薔子さんを好きになっていたのかわからない。

 悪く言えば我儘で高慢ちきで、でもよく言えば自分の考えを持つ、これからの時代の新しい女性そのものだった。勉強熱心で甘えたところがなく他人に厳しいけれど自分にも厳しい人だった気がする。

 それでいて泣く僕に笑うでもなく、買ったばかりの綺麗な手拭いを渡してくれるような優しい人でもあった。


 僕はあてもなく緩慢に道を歩く。

 雨に濡れて、歩く。

 歩く。歩く。

 歩く。

 歩いた。

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