きつね色の表紙の本『菫と真珠』 -2-

「少し疲れてしまったわ」

 薔子さんは百貨店を出ると、店の前を行き来する馬車は車の流れを見て呟いた。まだ日は高くお宅へ送り届けるには早い時間だった。この場合どこかの料亭で食事をとるか、喫茶店カフェでお茶でも嗜むのがよいと本に書いてあった。


 僕は少し考えた後、薔子さんのほうへ肘を曲げた腕を差し出した。薔子さんは少し考えた後、腕を絡ませる。

「少し歩くのですが、変わった喫茶店がありましてそこにぜひお連れしたい」

「……」

 薔子さんは何も答えず冷えたような眼を道路の先に向けている。先ほどは雰囲気はそれなりによかったと思うのに、すぐにまた前の薔子さんに戻られているようだった。一歩前進して一歩下がった気分だった。


 仕方ない。

 僕がゆっくりと女性の歩く速度に合わせて歩き出すと、薔子さんは黙ってついてきた。

 先ほどより日は高くなり、寒さも大分和らいでいた。道の脇の積もれた雪が太陽の光をあびてきらきらと輝いていた。屋根の上に残っていた雪はとけてぽたぽたと道をうつ。それは道をぬらしぬかるみを作る。舗装されている道などほとんどこの辺りは見ず、僕らはぬかるみをよけながら歩き続けた。


 歩いて日本橋を超え少し行ったところにその店はあった。

 図書喫茶店『スローフォックステイル』だ。

「薔子さん、ここはおいしい飲み物と、読みたい本を貸し出してくれるお店なんです」

 僕は店の概要と、注意点を薔子に説明する。


「変わっているでしょう? よく本を読みに来るんです。いろいろな本が、それこそ英国などの本などもあって。文字はその、読めないのですが見るだけで楽しいものも多くありまして」

 薔子はドアの前に置かれている看板の文字を眺める。


「おしゃべりは厳禁なのね」

 この店は本を読む場所であり、私語は禁止だった。

 デートには不向きでは、と薔子さんに指摘されたようで僕は焦った。確かにここまでおしゃべりが弾んだことはないが、話したくないわけではない。誤解されても困る。僕は慌てて店から離れようとした。

「デートには不向き、ですね。もし他のお店にしましょうか」

「いいえ。入りましょう。足が疲れてしまったから歩きたくないわ」

 そういえば薔子さんは踵の高い洋靴で幅がせまくいかにも窮屈そうであった。これでは疲れてしまうのも仕方ない。

「気が利かずすみません」

 僕は謝りつつ、店のドアを開けた。


 店はいつものように客はいなかった。マスクをした店主が僕らを迎えゆっくりと腰を折る。いらっしゃいませ、と店主が言うことはない。沈黙は僕らだけではなく、店主にも適用される。

 僕はまずカウンターにいき、そこに置かれた紙を手に取り、薔子さんに見せる。カウンター横には菫の鉢が置かれ紫色の花をつけていた。

『飲み物はいろいろあるので今日はおすすめでどうでしょう』

 カウンターの脇にある紙の束に書き記す。薔子さんはそれを読んで頷く。

『本は、ああそうだ。こちらへ』

 僕は薔子の腕を引っ張り本棚のほうへと誘う。その本棚には手の中におさまるようなサイズの本がみっちり並んでいた。僕はその中にある『薔薇の本』という題名の本を見つけて引き抜く。それを彼女に差し出した。


 薔子さんの薔という字は薔薇の一文字からとったものだ。この一文字だけでとも読む。どのような本なら読まれるのかわからなかったが、ご自分の名前が入ったものであれば、少しは楽しめるかもしれない。薔子さんは跳ねのけるでもなく、黙って本を受け取られた。


 僕は以前から読みたかった小説があったから、それは店主に探してもらおうとカウンターに戻る。薔子さんに渡した本の題名を書く。続いて僕が読みたい小説『彼岸の小鳥殺し』の題名を書いた。

 店主はその紙を回収し、『お好きな席へどうぞ』と紙に書く。

 カウンター脇の菫に目を向けられていた薔子さんの腕を引き、店主の文字を指さす。薔子さんは心得たように頷かれた。


 薔子さんが選ばれた席は、店の一番奥の温室のような白い一角だった。サンルームといったか。全面ガラス張りでたいそう明るい。白い柱や床がより一層明るく見せている。薔子さんはそこに座られ、僕は彼女の読書の邪魔をしないように少し離れた革張りの一人用の椅子に腰を下ろした。


 店主が僕と薔子さんのところにお茶を運んでくる。白磁の洋式のティーカップというものに番茶よりすこし赤い色合いのお茶が入っていた。ソーサーと呼ばれる茶托の横に紫色のコロンとしたものが二つ置かれていた。怪訝そうにしていると店主が、つまむような指の形をとり、一度口に入れる動作をし、つぎにカップにつまみいれるような動作をした。一つは食べ、一つはお茶に入れろということらしい。店主は彼女のもとにも行き同じような動作をした。


 僕は運ばれてきた本を開くまえに、カップを手に取りお茶に息を吹きかける。恥ずかしながら猫舌で、熱いものがとんと苦手だった。すこし冷めたところで上澄みだけをすする。舶来物の紅茶というものだろう。紅と名がつく通り水が紅い。香りはするが上物ではないのかそれとも船旅で香りが飛んでしまっているのか、控えめであった。番茶や緑茶のような香りはなく少し味気なく感じた。


 僕はちらりと薔子さんのほうをみる。彼女は長く白魚のように凹凸のないすべらかな足をきちんとそろえ凛と背筋を伸ばし、両手で本を押さえて読み始めていた。僕がおくった狐の襟巻を足の上に置いているのは少し寒いのかもしれない。


 僕が読んでいる本は、明治の初めごろのとある家に引き取られた少年の話だった。妾の元芸者の子で、いわゆる二号の子というやつだ。母親が死んで屋敷に引き取られる。しかし正妻は主人公につらく当たり、たいそうしんどい思いをする。母の形見は高く売れるからと質屋に入れられてしまい、それらは義母の懐にはいった。


 僕は少年がかわいそうで、時折休憩をいれないと読み進められなかった。何度かの小休止のあと、紫のおそらく菓子をつまみ上げて口に含んだ。ふわりとした柔らかさと突き抜けるような花の良い香り。ほろりと溶けていき、最後にした先に残るそれを歯でエイヤと噛むとこれまた芳醇な香りが口内に広がる。どこか嗅いだことのあるような。


 ああ。

 そうか。

 僕は残った一つを紅茶の中に入れる。紅茶がもっと濃い色に変わり紫色とはちがう、なんとなく緑色も溶かし込んだような色合いになったころ合いに紅茶を口に含む。同じように香りが広がるが、紅茶の香りが混ざってどことなく上品な飲み物になる。この紅茶はこの紫色の粒を入れて初めて完成するのだ。


 そして、この香り。

 薔子さんから薫るよい匂いとよく似ていた。


 本の少年はやがて、春先に屋敷を一人でる。少年が住む村の裏の山に願い事をかなえる花が咲くらしく、少年はその花を求めにいったのだ。昼間までは天候もよく、歩みは軽かったが昼を過ぎたころから彼岸の小鳥殺しと呼ばれる雪が降り始めた。暖かい日中に油断した少年は寒さと、視界の悪さから遭難してしまう。

 山をさまよいやがて少年は母親によく似た雪女に出会う。雪女と知らず少年は雪女の接待を受け、それまで見たこともないようなご馳走をたらふく食べ、暖かい布団にくるまる。雪女は寝るまでそばにいてくれて、なつかしい母を思い出して涙しながら寝付いた。

 朝、少年は雪山の中で起き、周りには少年を心配して探していた村人たちが輪になって見下ろしていた。屋敷もなく、暖かい布団もなく、布団のように雪が少年の上に降り積もっていた。

 村人と共に少年を探しに来ていた正妻が少年に近寄り、「迷惑をかけて」と怒鳴り頬を張った。正妻の目には涙が浮かんでおり、生きていることに喜びながら少年を強く抱きしめた。少年の手の中には、願いをかなえるという花が一輪握られていた。

 家出をしたと思われた少年は、それ以降正妻のきつい当たりはなくなり、村で穏やかに暮らす。大人になりやがてによく似た嫁を貰って幸せに暮らしたとさ。


 僕は読んでいる途中からなんとも悲しい気持ちになり、鼻の奥がツンと痛んだ。少年が雪女に添い寝してもらったところや、正妻と和解をするあたりで胸がいっぱいで、気づいたころには薔子さんを連れてきていたことなど忘れず目から堤防が決壊したように涙があふれてどうしようもなかった。


 話は感動話の一つではあったが、さほど泣きたくなるような話でもないのだと思う。ただ、よその家に入り、そのあと冷たく対応されるのは堪えると、これから婿入りするだろう自分に重ねてしまったのだ。


 僕が泣いているのに気づいた薔子さんが、あまりに僕が泣くものだから呆れて、先ほど贈った手拭いで僕の涙をぬぐってくれた。僕は恥ずかしくて顔を見れなかった。

「手水に」

 恥ずかしさのあまりにここから逃げ出したなった。小さく呟くと僕は席を立ち厠へと駆け込もうとした。あまりに慌てたものだから、椅子にぶつかってしまい、大きな音に店主が驚いたように僕の方を振り返る。何度も米つきバッタのように頭を振った。


 顔を洗い戻ってくると薔子さんと店主が何やら筆談をしているようだった。おかしそうに店主に向かって笑う薔子さんは、僕には見せたことのないような表情をしており、少なからず店主に嫉妬した。

 だってそうでしょう。僕はあんな素敵な笑顔を彼女から引き出せなかったから。薔子さんは店主から何かを受け取り、大事そうにコートのポケットへと忍ばせていた。あのようにスムーズに物を受け取る方であったのだと思い知った。


 嫉妬とそれを抱いてしまった罪悪感に近寄ることが出来ず立ちすくんでいると、店主が気づいて、僕の方を指し示す。こういうところは本当にスマートで、大人のエスコートとはこういうものなんだろうと思わずにいられない。

 薔子さんは振り返り、僕が戻ってくるのを待っていた。気まずそうに頭を掻きながら僕は彼女のもとに戻り、会計を済ます。薔子さんは自然と僕の腕に腕を絡ませていた。



 


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