きつね色の表紙の本『菫と真珠』 -1-

 朝。店の閉めてあるいくつものカーテンを開け、薄く窓を開いたらまずはこもっている空気を入れ替える。はたきをかけテーブルを拭き、塵一つ落ちていないように床を掃く。椅子に置かれているクッションの位置を整え、椅子を並びなおす。あちこちにかけられた観葉植物の傷んだ葉をつまみとり、植木鉢や花瓶に水を差す。


 冬に種をまき今朝がた開花した菫が植えられている植木鉢をカウンター横の棚に置く。かわいらしい墨壷の形に類似していると言われている花が、いらっしゃるお客様をお辞儀して迎えるだろう。


 開店の準備が整い、私は店の入り口の扉の鍵を静かに開ける。

 今日はどのようなお客様が、本をお求めにいらっしゃるだろう。



*************


 ”僕”の名は二木本悠次郎。二木本真珠店という真珠養殖業を営むたなの次男坊だ。年は22。まだまだ若輩者である。二木本真珠店は兄が継ぐことになっており、僕はといえば養殖真珠やその他の宝石、金細工などを売る宝石商の店を一つもらえることになっており、現在はその店で見習いとして働いている。


 店は商家をはじめとする裕福な方々にひいきにしていただいており、百貨店にも徐々に品を卸させてもらっている。順風満帆というところだろう。

 課題が一つあるとすれば、それは養殖真珠が、天然真珠に劣るという価値観がいまだ残っていることだ。そのため、華族の方々には身に着けていただけていない。


 ゆくゆくはその方たちにもお手に取っていただきたい。

 と思っていた僕のもとに縁談の話が舞い込んできた。

 お相手は有馬子爵のお嬢様の薔子そうこさん。僕より五つほど年上の女性だ。だいたい二十歳くらいで女性はお嫁にいくのが当たり前の時代で彼女は二十七であったから、父は最初どんなに不美人なのだと思ったようだった。

 

「どんな卒業面がくるのかと思ったが、これで一安心」

 と本人の目の前で言い放ち、僕は恥ずかしさと申し訳なさこの上なかった。

 この時代、美女は女学校在学中に縁談が決まると、即中退し嫁入りするのが常で、というのは不美人であり縁談が来ず、まちがいなく卒業できる顔、という意味であった。そもそも美醜を本人の前でいうのは品がない。ましてや子爵のご令嬢で、薔子さんとお呼びしているが、本来なら薔子様と敬う相手にだ。

 だから華族の方々にお手に取ってもらえないのでは。


 いや、話を戻そう。父の予想とは真逆で、薔子さんは卵のようなつるりときれいな輪郭に、白磁のような白い肌、まつげは長く、切れ長の瞳は涼やかで濡れたように艶めいていた。形の良い唇は紅を乗せると花のように鮮やかに顔を彩っていた。

 髪はカラスの濡れた羽のようで、光を受けると濃い緑色のようにも見えた。体つきもしなやかですらりとし、今の女性としては少し背が高かったが、学生時代に燐寸棒まっちぼうと呼ばれていた僕としては釣り合いがちょうどよかった。


 薔子さんとの婚姻は二木本真珠店としても、没落とはいえ子爵の方との姻戚によって、旧華族のお客様にむけて販路を拡張するには都合がよかった。


 まあつまりに目をつぶれば妙妙たるお相手であった。


 もちろん、そんなおいしい話がタダ同然で転がってくるわけもなく、僕が婿養子に入るというのが条件だった。そして有馬家の財政事情はその実ひっ迫しており、持参金という名の援助も求められていたのだった。

 片田舎の漁師の出であった父は華族というものに憧れを抱いており、華族と姻戚関係になれるならば、僕のことや多額の援助など大した痛手ではなかったようだった。


「薔子お嬢さんをおもてなしし、決して嫌われることのないように」

 と、父に送り出され僕はいま銀座の四越百貨店デパートの前で薔子さんが乗ってこられる車を待っていた。

 3月に差し掛かろうというのに外はいまだ寒く、底冷えするような寒さが続いていた。数日前に降った雪が道の傍らに寄せ集められ、うず高く鎮座している。むき出しの指先は寒さに赤くなり、僕は両手を合わせて、ほぅと息を吹きかけた。


 ガタクリ、ガタクリと道を走るガタクリ車、通称タクリー車が百貨店前に止まり、薔子さんが降りられてきた。僕は即座に駆け寄り、彼女の前に手を差し出す。

 これでよかっただろうか。


 なんせ僕は高等学校でも女性に縁がなくいまのいままでお付き合いした女性など居りはせず、どうエスコォトすればいいのかわからない。礼儀作法の本を読み、その通りにしてみたが、付け焼刃が彼女に通用するのか否か。

 

 薔子さんは差し出した指先を赤くした僕の手を見て顔を翳らせる。

「あ、すいません」

 何故か僕は恥ずかしくなって手を引っ込める。まるで田舎者だと責められているようで、薔子さんの視線から逃れるように顔をうつ向かせる。

「寒かったのね、と思っただけよ」

 薔子さんはそういうと、僕をおいて百貨店へと歩き出す。今日の薔子さんはグレイのキャブリンという丸みのあるつばの小さい帽子をかぶり、黄土色のビジティング・ドレスを召されていた。女性用のうぐいす色のトンビコートを肩から掛けている。襟元は白いうなじが見えており、少し寒そうであった。足元は白い洋靴で最新のものだった。


 僕らは靴を脱ぎ店に上がる。履物は下足番が受け取りしっかりと管理をしてくれる。店によっては靴は脱がず袋をかぶせるようにしているところもあるが、ここは土足厳禁、靴は脱ぐことになっている。百貨店はいろいろな商品を取り扱いし、二木本からの品も扱ってもらっている。多くの硝子ケースが陳列し、中にいろいろな代物が飾られている。天井からは反物が多くぶら下がっており手に取らなくても着物の柄は見ることができた。

 呉服店が百貨店になることが多いため、店の中は着物や反物、装飾品が比較的多い。

 

 先を歩く薔子さんが時折立ち止まりケースの中をみる。大ぶりの髪飾りやブローチなどがお好みなのだろうか。

「ねえ、この中のもの、見せてはもらえないだろうか」

 女性店員に声をかけるとケースの中の宝飾品を僕らの前に並べる。どれもきらきらと輝き華美であった。薔子さんの帽子に彼女の名前の漢字と同じ薔薇の金細工などはキャブリン帽につけたら素敵だろう。

「これを一つ」

 くださいという前に薔子さんが「いらないわ」と呟き離れた。

「そ、薔子さん待ってください。ああ、すまないね」

 女性店員は僕のような客はよく見ているのだろう。笑みを顔にたたえたまま優雅に一礼した。


「これは重たいわ」

「これは好みではない」

「これは……」

 薔子さんは浮かない顔で僕が彼女のために買おうとするたびに溜息をつく。まるでわかってない、というように。あまりにはっきりと断られるので、店員たちの視線がだんだんと険しくなるような気がしてしまう。

 もともと気難しい人であるとは聞いていた。前の婚約者たちの中には贈り物をし、贈り物をみてその場で捨てられたこともあるというから、買う前に言ってもらえるだけ助かってはいるのだが。それにしても難しい。

 女性は買い物が好きだと聞いたのに。

 

 それにしても買ってもらったものを受け取って質にでも入れれば生活の足しにもなるだろうに。そんな僕の気持ちなど気にするそぶりもなく、薔子さんは百貨店を一周してしまう。

 ああ、何もお贈りすることなく終わってしまった。そう思って焦ってなんとか買わねばと辺りを見回すと、狐の毛で作られたふんわりとした柔らかい襟巻が目に入った。僕はとっさに薔子さんの腕を掴む。驚いたように薔子さんが振り向いた。

「お、贈り物をさせていただきたい。僕の趣味だと貴女の趣味に合わないようだ。なので意見を聞かせていただけませんか」

 薔子さんは掴んでいる僕の腕を振り払いながら、「よくてよ」と答えた。


 そして、狐の襟巻と藍染めの菫の柄がはいった手拭いを受け取っていただけた。襟巻を彼女の襟元に巻き付けると、わずかばかり表情を緩め、薔子さんは「暖かいのね」と呟いた。


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