静謐なる図書喫茶 ~スローフォックストロット~
中邑宗近
白い表紙の本『顧みる窓』
壁は白く、職人の仕立てた塗り壁の風合いがなんとも言えない。ダークマホガニーの床はワックスで磨かれているのか深い光沢に輝いている。それでいて靴底は吸い付くようで滑るような感覚は感じさせない。白い壁には木枠の窓がはまっており、大正硝子から通る光が波打つように店内を照らす。店の奥にはサンテラス風の明るい一角があり、そこだけが白く輝いているように見えた。
窓際にはベルベット地のクッションや背面がついた椅子や、体が深く沈み込むシングルのソファが、イミテーションの暖炉の前にはロッキングチェアが、サンテラスには白いベンチ、店内中央にある床材と同じマホガニーの傾斜机の前には同じ素材の椅子が並べられている。奥の仕切られた小部屋には重厚な黒のレザーを打ったウィングチェアが置かれていた。二階にも席があり、同じように店内のデザインを邪魔せず並べられている。それぞれの椅子にはそれぞれにふさわしいテーブルや机があつらえられ、客を静かに待っている。
店内のカウンター奥や、店の壁のところどころに本棚が置かれ、いろいろな背表紙が私を見てとせがんでくるようだった。
白と茶色の色合いの中で、店の梁や隅、窓際には緑の青々とした植物が彩を添えている。
そして薄暗い店内を、黄色味の強いまるでろうそくの炎のような色合いの照明が点々と雰囲気の邪魔にならない程度に置かれていた。
ここは、スローフォックストロット。
ダンスのステップを名に冠する図書喫茶店だ。
店内での私語は厳禁。
注文票にカウンター横に置かれたメニューに書かれた飲み物を一つと、読みたい本の書名を書き、店主に渡し好きな席に着く。しばらくすると飲み物と、本、ごくたまに簡単なお茶請けがついてくる。
制限時間はなく、本を読みながら客は思い思いの時間を過ごすのだ。一冊読み切るでもよく、途中で席を立つでもよい。机の上に宿題や仕事を広げ、調べ物をするでもよい。
ただ、沈黙を保つだけが条件。
本のページをめくる音、カップが触れ合う時の高い硬質な音、時折開閉されるドアとそこにつけられた真鍮のベルが鳴る音だけが店に必要なものだ。足音は控えめに、そうスローフォックストロットだ。
店主は若くもなくそれでいて壮年、老年でもなく、三十代にも四十代にもみえるそのあたりの年齢の人で、常にマスクをしている。正確なところはわからないが、どこにでもいるような風貌に見えるし、たった一つの宝石のように魅力的に見えるようでもあり、どこか不思議な
店主は客がいる間は一言も話さない。耳は聞こえているようで客が決まりを破ると困ったように笑い、口元に人差し指を立て、しー、と客に沈黙を促す。マスクをしているのになぜか笑っていると思うのが不思議なことではあるが、そう感じるのだから仕方ない。
そういう店だ、と客は店に入ると自然と心得る。
*************
”私”はその日も学校帰りにこの店に寄り、店主がいるカウンターがよく見える傾斜机が並べられている一番端の席に腰を下ろし、ノートを広げる。
今日の飲み物はミルクたっぷりのカフェオレ。読書感想文を書くための指定の本と共に店主が運んでくる。ソーサーの横には白い角砂糖ではなく、黒糖の茶色い塊が乗っていた。
お礼は口では言えないから、会釈を返す。マスクの上から見える目が細められ頑張ってと言われているように笑っている。
店主がその場を立ち去ると、私は黒糖を指でつまみかじった。コクのある甘みが舌の上に広がる。それでいて甘ったるくなくさっと溶けていく軽やかさ。砂糖の入れていないカフェオレを口にし、口内に残った黒糖と合わさり絶妙なハーモニーを奏でる。飲み物と甘味を別に摂るのはどことなく大人な感じがした。とは言っても、本を汚せないので、黒糖はカフェオレのカップの中に静かに入れた。カップの底に落ちる音がしたようなしていないような。スプーンを淹れそっと静かにかき混ぜる。
読書感想文を書くための本は学校から指定された小説。大正時代のとある女学校の一幕をまとめた短編集だった。私くらいの年頃の女の子たちの生活が描かれたもので、ぎゃあぎゃあと教室で騒ぐ騒がしい私たちへの啓蒙だったのかもしれない。白に緑のインクで装飾がされた本はさほど厚くなく手軽に読めるようなものだった。
ぎりぎりにやればいいと後回しにしていた私は、すでに学校の図書室では貸し出されてしまい、完全に出遅れていた。だから、本がきれることがないと常々思っていた行きつけの図書喫茶へと足を向けた。
それがここ、スローフォックストロットだ。
スローフォックストロットとは、ダンスのステップの名前で、足音のしない
店の名前がどういう意味だかわからないと思いながら初めて入った時、店主に勧められたのがダンサーの物語だった。
足音のしない静かなステップ。静かな空気を好むこの店にぴったりの名前であった。
本の内容は一つ一つ興味深い。書生との恋に悩みつつ婚約が決まったお嬢様、つぶれかけた町工場の一人娘、女学生同士のひそやかな道ならぬ恋心。彼女たちは今の私たちと同じように悩み、喜び、泣き、笑う。ただ少しだけ、私たちよりも背負うものが、重い。
ページをめくるたび指先にちりちりとした少女の叫びのような痛みを感じる。
書生に、貴方とのたった一回の口吸いだけで、私はそれを思い出に生きていける、と笑って言い放った女学生の悲しい強さ。
爪の間を油汚れで黒く染め、同級生に見下されながらも成績一位で卒業していく女学生の逞しさ。
柔らかい唇の柔らかさと甘さ。やがて一時の過ちとして胸の思いの扉の鍵を閉めひそかに涙する女学生たちの甘酸っぱさ。
感動しました?
悲しくて泣きました?
苦労しても頑張っていてえらい?
ノートに文字を並べ、私はしっくりこなくて頭を傾げる。どれも正しいとは思うが胸の中に広がる何かわからない果てしないこの重みを言葉にすることは難しい。私は頬杖を突き、シャーペンの頭の端をかじる。
指定は作文用紙一枚、四百文字以内。
雄弁に語るには短く、端的に語るには長い。誰がこの四百文字を定義づけたのだろう。
私はカフェオレのカップに口をつけ、口にコーヒーをためながら鼻から空気を吸い込み、吐き出す。香ばしい香りが鼻腔を満たす。黒糖がカフェオレにコクを付与する。
目を閉じると、少女たちの日々が頭の中でゆっくりとメリーゴーランドの景色のように回り始める。楽しく踊り、激しく足を上げ、軽やかにステップを踏む。きらきらとまばゆい光がまるでダンスを踊っているような少女たち。自然と私の猫背になっていた背筋が伸びた。
カフェオレを飲み終えるころ、私は読書感想文を書き終えた。その間お店には誰も来なかったように思う。少なくとも私の視界の中には誰も入ってこなかった。
採算は取れているのだろうか。
という疑問がよぎりはするが、人気が出て好きな席に座れなくなるのも嫌だし、ゆっくりと過ごせなくなるのも嫌だ。
こうやって私たちの勝手で店はつぶれていくのだろうなと不謹慎なことを考える。いやお金持ちの道楽かもしれないし、そうであってほしい。なぜなら私はこの喫茶店を愛しているのだ。
カウンターの向こうの店主に目を向けると、古くなった本の修繕をしているようだった。楽しそうに目元を緩め、軽く体を踊るように揺らしている。その楽しい時間を停めてしまうのは申し訳なかったが、もう少しで19時だ。ほかほかのご飯が私を待っている。
ノートを学生カバンにしまい、私は席を立つ。本を片手に私はカウンターへお会計のために向かった。
*************
本日のお客様が帰っていくのを見送る。宿題はちゃんとできただろうか。何を書こうか悩んでいた気がしたけれど。彼女が読んだ本はまだ本棚に戻しておらず、カウンター裏に置かれたままだった。
今日彼女が読んだ本は『
本のテーマは生の賛歌。
通り過ぎる儚い花のような一時のきらめきを作者は愛おしみしたためたという。
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