4.好き
向かい合った状態で、何事もなく三十秒が経過した。
その間、俺は心の中で色々とわめき散らしていた。
まず、どうしてこのタイミングだったんだ。いくら周りに人がいなくて二人きりだとはいえ、早まったことをしてしまった気がしてならない。どうせ告白するならば、もう少し場所だって考えたかったのに。
それから、たった今自分が言い放った言葉についても俺は俺自身に文句がある。というか、文句しかない。
「付き合いませんか」ってなんだよ。普通は「付き合ってくれませんか」と、お願いする姿勢を見せるべきだろうが。なのに何故、こんな強引な言い方になってしまったんだ。さらに言うならば、真っ先に伝えるべきは俺が抱いている宇佐見さんへの気持ちだろう。「好きです」と伝えて、それから初めて交際の申し入れをするのが筋なはずだ。今時こんな順序、小学生でも知っている。
もう駄目だ。何から何まで行き当たりばったり過ぎる。
基本すらなっていないこんな男のことなんか、宇佐見さんが好きになってくれるはずがない。
もはや、失恋する予感しかしないんだが。
「付き合う……とは?」
死にたい気分になっていた時。
正面から、そんな疑問に満ちた一言が聞こえてきた。
顔を上げる。宇佐見さんの方へ目を向けると、視線が合った。いつも他人とは目を合わせないようにしている彼女には珍しく、そらすことなくじっと見つめてきた。俺の方がそらしてしまいたくなるのをぐっとこらえる。
「え、ええっと……」
「あの、恋愛の〝お付き合いする〟っていう意味、です……か?」
すんなりとうなずきかけるが、ちょっと待てよと思い留まる。
どうやら宇佐見さんの頭は、俺が言った言葉の意味を深く理解するまでに至っていないらしい。
ということは、冗談だと言い繕ってしまえば今ならまだ――。
「っ……」
間に合わなさそうだ。俺がうなずくか言い繕うかするより前に、宇佐見さんの白い頬が赤く染まっていくのが分かった。薄化粧をしていても一目瞭然なほどに真っ赤になっている。
とても困った顔をして照れている宇佐見さんも可愛い。
って、そんな呑気なことを考えている場合か。
「あの! すいません、いきなり過ぎましたよね。なんというか、その、好きな人に笑いかけられて、気が動転してしまったというか……」
「す、好きな人、って」
「あっ」
口が滑った。
二人きりなのだから、笑いかけられる相手など決まっている。
それすなわち。
「っっ……」
宇佐見さんは、両手で顔を覆ってしまった。が、風になびいた髪の合間から覗く両耳が真っ赤になっていることから、隠していても彼女の顔がどうなっているのかが俺には分かってしまう。
……これから、どうしよう。
照れてるってことは、少なくとも男として意識してくれてはいるのだろう。
でも、宇佐見さんなら誰から告白されてもきっと同じような反応を見せるんじゃないだろうか。俺の頭の中に「照れ屋さん」という言葉が浮かんで消える。
ここまで来てしまったのだ。こうなったら、腹をくくるしかない。
姿勢を正して、宇佐見さんの方へ一歩だけ歩み寄る。
「宇佐見さん。……今の今までちゃんと伝えられていませんでしたが、俺……宇佐見さんのことが――」
重要な部分を口にする寸前、俺は言葉を飲み込んだ。
宇佐見さんの、華奢と呼ぶに相応しい小さな両肩が微かに震えていることに気がついたからだった。
泣いている、のだろうか。
その可能性を思いついた途端、真剣だった気持ちが焦りに変わる。
何か、泣かせるような言動を取ってしまっただろうか。焦燥と、不安が色濃く心に広がっていく。
「ど、どうしたんですか宇佐見さん。さっき元カレさんにつかまれた腕が痛みますか?」
この問いかけは、波多野さんに少し申し訳なかったと後で思った。
ぐすぐすと鼻をすする音と、微かにしゃくり上げる声が聞こえる。
六月。梅雨真っ只中だったあの日、明かりの欠けた給湯室で起こった状況とよく似ていた。あの時も彼女がどうして泣いているのか分からなかったけれど、それは今も同じだ。何をしてあげたらいいのか分からないのも同じ。
でも、彼女を心配して、その涙を一刻も早く止めてあげたいと思うこの気持ちは、あの日の俺にはなかったものだ。
この気持ちは他でもない、宇佐見さんにもらったもので。
二歩。三歩と、足が勝手に前へ進む。
宇佐見さんとの間に空いていた距離が縮まって、あんなに空いていた空間はほとんどなくなってしまった。
手を伸ばし、俺よりも低い位置にある宇佐見さんの頭に軽く触れる。
そのままそっと撫でてみる。さらさらとやわらかい、そして艶のあるなめらかな感触が手の平から伝わってきた。
……頭を撫でるだけでも、セクハラに該当するのだろうか。
何の気なしに今こうして撫でてしまっているが、もし宇佐見さんに嫌悪感を与えてしまっていたらどうしよう。
「泣かないで下さい。好きな人に泣かれると、俺だって落ち着きませんよ。いくら教育係を任されていても、マニュアルに載っていない不測の事態には弱いんですから」
不安の種は芽生える前に枯らしてしまえと、どうでもいい疑問は見なかったことにして宇佐見さんに声をかける。
後半には冗談を混ぜてみたが、泣いている人にまで上手く伝わるかどうか。
「……す、すみませっ……。よく、分からないんですけど、なんだか急に」
「謝らないで下さい。突然、好きでもない相手から付き合って欲しいなんて言われたら、動揺しますよね。して当然です」
「……い、え。そうじゃなくって……。違うん、です」
やんわりと否定する涙声が聞こえた。違う、とはどういう意味だろう。小首をかしげつつ、俺は何も言わずに言葉の続きを待った。その間も、俺の手は休むことなく宇佐見さんの頭を撫でていた。
「嫌……だったとか、動揺した……とか、ではないんです。ただ、なんていうか、……秋崎さんに〝好き〟って、言ってもらえたことが……なんだかとても、嬉しくて」
「え……、う、嬉しい……?」
どういうことだ。
他人から好意を寄せられていることを知って、戸惑ったり困惑したり面倒だと感じたりするのではなく、込み上げてくるのは「嬉しい」という感情。
そんなの、まるで――。
両想いが成立した時、みたいじゃないですか。
「おかしい、ですよね。悲しい訳でもないのに、涙が出てくるなんて」
「……嬉し泣き、というものを、人間がすることがまれにあります。よっぽどのことがないと、する機会はないと思いますが」
「そう、なんですか。……じゃあ、これが私にとっての〝よっぽど〟なんですね」
「あの、一つだけ聞きたいんですけど」
割り込むような形になってしまったし、突拍子もないのは分かっている。
それでも、確認せずにはいられない。
「宇佐見さんも……、少しは俺のことを好きでいてくれてる……って、思ってもいいんですか」
「ふぇ……」
顔を覆った手の内側から、間の抜けたおかしな呟きが小さく漏れる。
そのままの姿勢で、宇佐見さんの小柄な身体があわあわと右へ左へ揺さぶられる。思わず頭から手を離してしまったけれど、答えを保留されたまま逃げ出してしまわないか心配になった。
勢い余って先にしてしまった問いの答えなら、数日くらいは待てる。
でも、こっちの答えはもう待てない。
今すぐに、知りたい。
「あ、あの……、私……は」
「顔、隠さないでちゃんとこっちを見て下さい」
「ううっ……」
いじわるなこと言ってすいません。
だけど俺、好きな人の表情ならどんなものでも見たいんです。人間観察が趣味で今まで色んな人を見てきましたが、その内の誰よりも宇佐見さん、あなたの見せる仕草や表情は俺にとってこれ以上ないってくらい魅力的です。
だから、例え涙でぐしゃぐしゃになった顔でもいいので、見せて下さい。
どんな宇佐見さんでも、俺が受け止めてみせますから。
そっと、音もなく宇佐見さんの両腕が下に下げられる。
あらわになった彼女の顔は、しばらく手で覆われていたせいなのかさっき見た時よりも赤らんでいた。目尻にはまだわずかに涙が残っている。
「……わ、たしも、あ……秋崎さんのことが、好き、だと……思い、ます」
「ええ……。なんでそんな不確かな感じなんですか……」
「……ごめんなさい。私……、そういうことには鈍感、というか、疎い……というか。で、でもっ! 秋崎さんに〝無事で良かった〟って言って頂いた時、すごく……胸がドキドキして、急に顔が熱くなって……」
「ああ……。さっきのアレは、そういうことだったんですか」
「そういえば、波多野さんに追いかけられて腕をつかまれた時……、とっさに思い浮かべたのは、秋崎さんのこと……でした。どうして、でしょう」
「宇佐見さん、あなたソレ多分、恋してますよ。俺に」
なんで俺が指摘してやらないといけないんだ。万が一にも勘違いか何かだった場合は死ぬほど恥ずかしいし、とんだ
さっき宇佐見さんも感じたらしい、嬉しいという感情だ。
彼女が少しでも俺のことを考えてくれていたというだけで、嬉しくて仕方ない。顔が勝手に笑顔を作ってしまうくらいに。
「じゃあ、改めて言わせてもらいますけど――」
まだ自分の置かれている状況が呑み込み切れずに戸惑った様子の宇佐見さんへ、声をかける。
地面に向けられていた彼女の目線が、俺を見上げる。
黒くて大きな瞳に、街灯の明かりが映り込んできらきらと輝いている。
宝石みたいで綺麗だなと、俺はその輝きを目に焼きつけた。
「俺、宇佐見さんのことが好きです」
「…………!」
宇佐見さんの目が丸く見開かれる。けれど、その両目が俺からそらされることはなかった。何か言葉を返してくる様子もない。
代わりとばかりに、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ始めた。
「だから、どうしてそこで泣くんですか」
苦笑しながら突っ込みを入れる。さっき泣かれた時のような焦りの気持ちは、今度は込み上げてこなかった。
「分かんない、ですっ。ごめんなさ……っ」
「もう、謝らなくていいですって。嬉し泣きなんだってことは、ちゃんと理解してますから」
でも、と続けて、利き手で軽く宇佐見さんの頬に触れてみる。
やわらかくて、温かい。涙で濡れていて、指先がつるつると滑る。
しかし、宇佐見さんって小顔だなぁ。その分目がぱっちりと大きいから尚更、顔の輪郭が細く見える。こういうのを童顔というのかもしれない。
「せっかく嬉しいんだったら、笑って欲しいです。あまり笑わせてあげられたことはありませんが、俺は宇佐見さんの笑った顔が一番好きですから」
社内で唯一、親しくしている眞鍋さんにはよく向けられる表情。
それを、いつも俺は少し遠くから眺めていた。見ているだけで幸せだとさえ感じていた。でも、いつかその笑顔が俺にもたくさん向けられる日が来て欲しいと、心の隅で密かに願っていた。
願うだけで何かが変わることはないと知っている。
けど、今こうして、こんなにも宇佐見さんの近くに居られて。もちろん、いくつもの偶然が重なった結果だけれども、そこには俺自身の願いの結果も少しは影響しているような気がする。俺のささやかな願いを、どこぞの神様が聞き入れて叶えてくれたような。思わずそんなお
夢のようだと思った。でもこれは、紛れもない現実だ。
前に見たことのある甘美で楽し気な夢よりも、今この時の方がよっぽど尊くて愛おしい。夢の世界よりも現実の世界が楽しいなんて、当たり前のことだけど、とても幸せなことなんだろう。
夢はいつか覚めるものだが、現実世界では叶えられるものでもある。それを、いつの間にか俺は忘れていた。
宇佐見さんが思い出させてくれたんだ。
「な……何もないのに笑うのは、ちょっと、難しい……です」
「あはは。そうですよね。無茶振りしてすいません」
「……あ、の。さっきの質問のこと、なんですけど」
俺が呑気に笑っていると、宇佐見さんは両目の涙をごしごしと拭いながらいつものためらいがちな声を発した。
さっきの質問、という言葉の意味が一瞬、理解出来なかった。が、すぐに例の唐突過ぎた交際申し入れのことだと気がつく。正直、宇佐見さんが俺を意識してくれていたという衝撃の事実の方にばかり目が向いて、自分がそんな質問をしたことを忘れかけていたのだ。
無意識に、身体が強張るのを感じた。
次に宇佐見さんの口から放たれる言葉を、俺は固唾を呑んで待った。
「よ、よろしくお願い……します」
「……、は……?」
礼儀正しく頭を下げながら発せられた一言の意味が分からず、思わず間抜けな声を出してしまう。が、その一言が何を意図するものなのか、声を出した直後には既に理解していた。
だが、理解することと信じられるかどうかは別だ。
「よろしくって……、OKってこと……っすか?」
「は、はいっ」
「俺は宇佐見さんに、交際してくれませんかとたずねたんですよね?」
「そうです、ね」
「で、つまりはその……、俺と付き合ってもいいと?」
「はい」
「宇佐見さんが俺の彼女になってくれると」
「そ、そういうことになりますね」
「マジかよ」
気が動転しまくっていて、宇佐見さんを質問攻めに遭わせてしまった上に、心の中で思ったことを思い切り声に出してしまった。前にも言ったが、人は予定外のことが起きて焦ってしまうと、周りが見えなくなってしまう生き物だ。それを知っているからこそ、予想外のことが起きた時には冷静に対処しようといつも心がけている、はずだったのに。
今の俺は、動揺しまくりである。しかも、好きな人の目の前で。
見えなくても、顔が真っ赤に火照ってしまっていると認識出来る。脈拍も早い。さっき宇佐見さんと波多野さんを追いかけて走った時と同じくらい、早い。
こんな、恥ずかし過ぎる姿を宇佐見さんに見られたくない。
出来ることならもう一度、自動販売機の陰に引っ込みたい。
「……でも、本当に良いんですか? 今すぐに決断を出さなくても、構わないんですよ? ああいや、もちろん拒否する場合は今この場でずばっと言ってもらえた方がこちらとしては有り難いですが……」
「だ、大丈夫、だと思い……ます。だって私、秋崎さんのことが好き……ですから」
照れたようにはにかみながら言う宇佐見さん。
この光景、スマホで録画して家のパソコンで永久保存しておきたい。それが出来ない今、俺は必死に彼女の表情と声の響き、周りの風景までもを記憶に刻み込む。死んでも忘れてたまるものか。
告白が成功して、交際の申し入れを受け入れてもらえたというのに、何処か落ち着かない心持ちになる。
もちろん嬉しいのだが、それ以上に驚いているというか、目の前で起こったことがまだ信じられていないというか。
これ、本当に現実だよな? 夢を見てるんじゃないんだよな?
馬鹿げているけれど、確かめずにはいられなくて俺は自分の腕を指先で思い切りつねる。
めちゃくちゃ痛ぇ。よし、紛れもない現実だ。
宇佐見さんのことを思うのなら、もう少し慎重に考えるべきだと釘を刺した方がいいのかもしれないが、一切の迷いを感じさせない彼女の微笑みを前にしてはどんな説得も助言も無意味なような気がした。
だから俺は――。
「……じゃあ、こちらこそよろしくお願いします」
そう言って頭を下げた。
向かいで「はい……!」と答える、少し弾んだ宇佐見さんの声がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます