3.想い


 「喉、乾いてませんか?」


 波多野さんの姿が見えなくなった後、何気なくそんな問いが口をついて出た。

 俺自身、水分を欲していたために浮かんだ台詞だったのかもしれない。真夏の夜に追いかけっこをするだなんて展開、誰が予想出来ただろう。


 「……乾き、ました。カラカラです」

 「ですよね。ちょっと、待ってて下さい」


 それだけ言い残し、俺は先ほど身を隠していた自動販売機へ歩み寄った。こうこうと明るさを放つ機械を操作し、スポーツドリンクを二本買ってすぐに宇佐見さんの元へ戻る。「はい、どうぞ」と片方のペットボトルを差し出すと、彼女は困ったような驚いたような表情を顔に浮かべてペットボトルと俺の顔を見比べた。今だけでも三回くらい目が合って、それが純粋に嬉しかった。

 「……あ、ありがとうございます……」

 口にしたのはお礼の言葉なのに、ひどく申し訳なさそうな顔で宇佐見さんがペットボトルを受け取る。きっとお金のことを気にしているんだろうけど、百五十円くらいは気にせずおごられて下さい。


 よく冷えたスポーツドリンクを喉に流し込むと、一気に緊張の糸がほぐれた。同時に頭も冴えてくる。

 腕時計で時刻を確認すると、六時三十九分を示していた。会社を出てから三十分近く経っていたらしい。あまりに急な出来事だったから、時間の感覚がマヒしている。推測だが、この暑い中を五分は走り続けていたようだ。そりゃあ喉も渇くし、息も上がる。下手したら熱中症で倒れるぞ。

 

 まあ、何事もなく済んで良かったけれど。


 「腕、大丈夫ですか。痛めてません?」

 公園の入り口に設置されているアーチ状の車止めに寄りかかりながら、宇佐見さんへたずねる。


 「……へ、平気です。ちょっと、赤くなっているくらいですから」

 人二人分くらいの間隔を空けた隣りで、宇佐見さんが自分の右腕を確認しながら答えた。やっぱり痕になってしまっていたか。傷ついていないのであればじきに元に戻るだろうから、心配はいらないだろう。


 「そうですか。なら良かったです」


 「…………、……あの」


 会話を終わらせて再びペットボトルをあおっていると、今度は宇佐見さんから声をかけてきた。

 相手へ視線を向けると、彼女は胸の前で飲みかけのペットボトルを握りしめて、うつむいていた。たった一言を発した声も何処か浮かないものに聞こえたような。


 俺が黙って続きを待っていると、宇佐見さんはあからさまにソワソワし始めた。


 多分、こちらが何も言わないから、話を続けてもいいものか分からず迷っているのだろう。目が泳ぎまくっている。なんだか、悪事を働いたことを大人に追及されて誤魔化そうとしている子供のようだ。

 本当に、これだから宇佐見さんを眺めているのは面白い。


 「ええっと、なんですか?」

 このままではいつまで経っても話の続きが聞けないと思い、仕方なく聞き返す。


 「秋崎さんは、……どうして、私を追いかけてきてくれたんです、か……?」


 それなら、先ほど波多野さんへ説明した通りだ。そう答えても、宇佐見さんの浮かない表情は変わらなかった。どうやら、彼女が欲しい回答ではなかったようだ。


 「嘘はついていません。単に、宇佐見さんが心配になったので、それでとっさに追いかけてしまったというか」

 「どうして、そこまで気にかけてくれるん……ですか」


 さっきよりも控えめな声でたずねられる。


 何も答えられず、口を閉ざす。

 なんと言えばいいのか、分からなかった。考える間もなく、気がついた時には既に走り出していたのだ。「身体が勝手に動いたから」と、敢えて言葉にするならそういう回答になるのだろう。

 さらに言うならば「宇佐見さんのことが好きだから」なのだが、さすがに今それを馬鹿正直に告げる気にはならない。俺だって、女性に告白する時と場所くらい選びたい。


 「す、すみませんっ。なんだか、問い詰めるような形になってしまって……。まずは、助けてもらったお礼を言うべきなのに……」


 数秒の間黙り込んでいると、宇佐見さんがあわてた様子で言葉を継いだ。

 視線は、俺が立っている方とは別の路上へ向けられている。さっき、波多野さんが彼女に目をそらされて寂しそうにしていたことをなんとなく思い出した。


 「えっと……。さっきは助けてくれて、どうも、ありがとうございました」

 「どういたしまして。……というか、部外者である俺が口を出しても良かったのかどうか、今でも疑問ですが」

 いくら会社の同僚だろうが、プライベートなことに口を出すのはよろしくない。よほど親しくない限りは。しかも異性関係に首を突っ込むなんて、俺はどうかしている。宇佐見さんに不思議に思われるのも無理はない。そこに淡い恋心が存在してさえいなければ、ただの、少し度が過ぎたお人好しで済むのだろうが。


 「よ、良かったですよっ。そうに決まってますっ」

 「え」

 妙に鼻息荒く言われると、おかしな意味に聞こえてきちゃいますよ。


 思わず反応を示してしまったのが恥ずかしくて、咳払いで誤魔化す。


 「と、とにかく……、私はとても、助かりました。秋崎さんが来てくれなかったら、今頃どうなっていたか分かりませんし……」


 「そう言ってもらえると、報われます。何はともあれ、宇佐見さんが無事で本当に良かったですよ」


 笑いながら、心からの本音を口にする。


 ふと、視線を感じて宇佐見さんの方へ目を向ける。

 彼女は何故か、俺をじっと見つめていた。ぱっちりとした大きな瞳に見上げられて、思わず身体が硬直する。


 どうかしたのかとたずねる前に、宇佐見さんはぱっと俺から顔をそむけた。

 あからさまにこちらとは逆の方へ身をよじり、まるで顔を隠すかのように。 


 一瞬しか見えなかったが、驚きとも疑問を抱いているものとも違う、見たことのない表情をしていた。一体どうしたのだろう。


 「あの……?」

 「なっ、なんでもありません! ききき、気にしないで下さいっ」


 いやいや、そんなに動揺されたらすごく気になりますって。

 俺、何か変なこと言ったかな。彼女をここまで動転させるようなことを、無意識の内にしてしまったのだろうか。


 「宇佐見さん、そっちの方に何かあるんですか?」

 「な、何もありません、けど……」

 「けど?」

 「……い、いいじゃないですか。私は私で好きな方を向いているんですっ」

 「はあ……。まあ、他人の視点にとやかく言いはしませんが……」


 が、かなり首が痛そうだ。

 これでもかと言わんばかりにねじられていて、「ぐぐぐっ」とかいう効果音まで聞こえてきそうなほどである。何が彼女をここまでさせているのだろう。


 万が一にでも、原因が俺にあるならば申し訳ないので、せめて彼女の言う通り気にしないよう努めてみる。


 涼しい夜風が無人の公園を通り抜けていく。

 さわさわと、木が枝葉を揺らす微かな音でさえ何の隔たりもなく耳に届く。それほどまでに、この住宅街は静かだ。


 今、この場を第三者が通りかかったら、その人は俺たちを見てどう思うのだろう。やはり、男女というだけで恋人同士に見えるものなのだろうか。


 「そ、そういえばさっきの作戦、上手くいって良かったですね」

 沈黙に耐えきれず、何気ない風を装ってそんなことを言ってみる。ちらりと隣りを窺うと、宇佐見さんはさっきよりも大分首のひねりを緩めていた。さすがに限界がきたのだろう。


 「は、はい……。なんとか」

 「にしても、よく思いつきましたね。何か、ドラマとか小説とか参考にしたんですか?」

 「いえ。お二人の様子を見ていたら、自然とあんな風に言ってしまったんです。あの人が怒り出すかもしれないと思ったら、とにかく怖かったので……」


 という呼び方に、わずかに胸がざわつくのを感じた。


 よせばいいのに、つい聞きたくもないことを聞いてしまうのは、どうしてなんだろう。


 「……宇佐見さんは、元カレさんに未練はないんですか」

 「えっ?」


 あります。そう言われたらどうしたらいいんだ。

 恐らく、しばらく立ち直れないだろう。姉に罵詈雑言を浴びせられるよりも重症な精神的ダメージを負うことになるに違いない。

 分かっていたのに、迂闊にたずねてしまった自分は大馬鹿者だ。


 今ならまだ回答は得ていないし、質問を取り消せるかもしれない。


 けれど、俺はそうしなかった。好奇心に負けたのだ。


 傷つく予感に怯えても想い人の答えを知りたいなんて、最早あさはかなのかただの阿呆なのか分からない。


 「未練……なんて、あり得ません」


 宇佐見さんの声がそう告げた時、普通なら安堵から息を吐き出す所を俺は何故か大きく息を吸い込んでいた。


 今まで聞いたことのないくらいに、迷いのない声だった。

 そのことを、素直に嬉しいと思う。


 「そんなものがあるのなら、あんなに逃げ回ったりしないと、思います」

 ここで初めて安堵という感情が込み上げてきた。

 「そ、そうですよね……。変なこと聞いてすいません」


 「いえ……。急にお芝居じみたことを始めたのに、秋崎さんが上手に乗っかってくれて、助かりました。私なんかとお付き合いしてるだなんて、嘘でもお嫌かな……と、口走ってしまった後で後悔、しましたけど」


 嫌な訳ありません。むしろ大歓迎です。

 声を大にして答えたい所を、必死にこらえる。いっそのこと、近所中に響き渡るくらいの大音量で叫びたかった。そうしなかった俺は、やっぱり臆病者だ。


 こんな俺に、宇佐見さんの彼氏になる資格なんて――。


 「あっ。そういえば、あの時も……です」

 「……あの時?」

 「あの、六月の停電の時、私……なんだか急に自分のことを話し始めてしまって、途中で何言ってるんだろうってすごく後悔したんです」


 暗い給湯室で、前の職場でのことや転職してからもずっと抱えていた不安を打ち明けてくれた時のことを言っているのだろう。


 「でも……、秋崎さんは最後まで私の話を聞いてくれて、〝頑張り屋さん〟だなんて褒めてもくれました。それが、私にとっては救いだったんです。だからその……、後悔したことを後悔した……と言いますか……」


 「う、うん?」

 「今も、あの時と同じです。やらなければ良かったって思ってしまった自分を、悔いています。そんなことしても、何にもならないって分かっていますけど……。で、でも、これはいい意味での後悔、というか……」

 

 聞いているこっちもそうだが、言っている本人まで訳が分からなくなってきていると見た。つまり、何が言いたいんですか。


 「ええっと……、その、ですね。つまりは、私はいつも、秋崎さんにはたくさん助けられている……ということで、そしてそのことをとても心強くて有り難いと思っているん、です!」

 「ああ……、はい……?」


 「だからです、ね……。あ、秋崎さん、いつも助けてくれて、ありがとうございますっ」


 お礼ならさっきも聞きました。

 が、今回はただのお礼ではない。未だ希少な宇佐見さんの笑顔という特典付きだ。ちょっと恥ずかしそうにしているのがたまらない。可愛い。というか、不意打ち過ぎてずるいです。おかげで好きな人の目の前で思い切り赤面してしまったじゃないですか。


 急に鼓動が早鐘を打ち始めた。


 今だ。伝えるべきだ今すぐに、と心が急かしてくる。

 気がつくと、身体が勝手に相手の方へ向き直っていた。


 「宇佐見さん」


 駄目だ、やめておけ。と、すぐに思い直したのに。


 「俺と付き合いませんか」


 言ってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る